◎今月の言葉(2000年3月)


生れ生れ生れ生れて
   生(しょう)の始めに暗く、


死に死に死に死んで
  死の終わりに冥(くら)し。


空海(秘蔵宝鑰<ひぞうほうやく>より)

空海の、この言葉を読むと、まず空海自身が、このことを他人ごとではなく、自分自身のこととして誰よりも強く感じていたことがうかがわれる。

◎今月の言葉(2000年4月)

自己をはこびて万法を修証するを迷とす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

道元「正法眼蔵 現成公案」より

自力の仏教といわれる「禅]ではあるが、道元の、この言葉を読むと、真実の宗教の底に共通して流れる他力の思想を感じる。
自他一如。



◎今月の言葉(2000年5月)
悠々(ゆうゆう)たる三界は
(もっぱ)ら苦にして安きことなく
擾々(じょうじょう)たる四生は、
唯患(ただうれい)にして楽しからず。
(中略)
ここにおいて愚が中の極愚
狂が中の極狂
塵禿(じんとく)の有情
低下(ていげ)の最澄。


―最澄― (平安時代、比叡山延暦寺開祖)

最澄にして、なお、このことばあり


◎今月の言葉(2000年6月)

衆生本来仏なり水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく衆生のほかに仏なし。衆生近きを不知(しらず)して遠く求むるはかなさよ。譬ば水の中に居て渇を叫ぶがごとくなり。長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず。

白隠禅師(江戸時代中期の禅僧)
白隠:江戸時代、臨済禅中興の祖、上記は坐禅和讃よりの抜粋。自力の仏教として見られている禅であるが、坐禅和讃を他力の見地から観ることも、また、興味あることである。



◎今月の言葉(2000年7月)

たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄におちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてという後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

親鸞(浄土真宗の祖)
親鸞は、浄土宗開祖‘法然’の晩年の弟子。法然の絶対他力の思想を更に鮮明なものとし、人間の生き方在り方を深く追求し実践した。彼の著作「教行信証」は法然を師とする絶対他力の思想の根源を、多くの経典を引用する形で追求した力作であり、晩年の書簡を集めた「末燈抄」は、彼の思想の集大成ともみられる。「歎異抄」は、彼の弟子「唯円」の作であり、親鸞の思想の真髄が語られている。



◎今月の言葉(2000年8月)

自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。只だ夫れ絶対無限に乗托す。故に死生の事、亦た憂ふるに足らず。 死生尚ほ且つ憂ふるに足らず、如何に況んや之より而下なる事項に於いてをや。

清沢満之は明治30年代、キリスト教の内村鑑三と並び称された宗教哲学者。浄土真宗大谷派の教団改革に挺身し、初代真宗大学(現在の大谷大学)の学長を務めた。絶対他力の大道を説く、その思想は、明治30年代の日本の思想界に大きな影響を与えた。明治の親鸞ともいわれ、暁烏 敏、曽我量深、金子大栄は彼の弟子である。



◎今月の言葉(2000年9月)

父よ、もしできることならば、この杯をわたしから過ぎ去るようにしてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、あなたの御心のままにしてください。

マタイによる福音書26−39
十字架の死を予感したイエスの、父なる神への祈りである。新訳聖書、マタイによる福音書における、イエスの、人間として、そして神の子としての、珠玉の言葉である。






◎今月の言葉(2000年10月)

信仰を特異の存在であるかのように思っている人たちは、信仰の門にさえ佇めば、容易になやみの絆は断ち切れて、みずからの欲するままに、慰安の光がかがやくかのごとく思う。  しかしながら、信仰は一つの奇蹟ではない。宗教はまた気やすめのための、力なき慰めでもない。信仰は荷せられた悩みを逃避するのではなく、悩みの肯定のうちに、救いの光にみちびかれるのである。
九条武子 「無憂華」より
九条武子(1887〜1928)を戦前の貴族出身の女性と記憶する人は多いかもしれないが、 真に「信仰とは何か」を真知していた人と知る人は意外に少ないのかもしれない。


◎今月の言葉(2000年11月)

宗教的要求は自己に対する要求である,自己の生命に就いての要求である。自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一して之に由りて永遠の真生命を得んと欲する要求である。−中略ー 現世利益の為に神に祈る如きはいふに及ばず、徒らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば・・・

ー西田幾多郎 善の研究よりー
”宗教とは何か” 真正の宗教を説明するに、これ以上の説明はいらない。




◎今月の言葉(2000年12月)

苦しむは大なる事業なり、これに由りて我は自己の咎を示され、他人の罪を贖はせられ、また新たに(他への)同情の区域を増して、より多くの人を慰むるのちからを供せらる、我は学んで救はるるにあらず、苦しんで全うせらるるなり。福音は苦痛に存す、キリストの福音はキリストの受難にほかならず、苦痛の深きだけそれだけ恩恵の深きは感ぜらるるなり、また、恩恵の深きを伝ふるを得るなり、苦痛は徒労として見るべからざるなり。【(  )内、HP編集者による追加。】

ー内村鑑三「所感10年 [患難]」ーより
苦痛に遭遇したとき、私はこの言葉に随分励まされました。苦痛に対処するに、 努力と頑張りだけではやはり無力であり、そこに宗教的真理への感性の存在が必要であると思います。