◎今月の言葉(2001年1月)

ありがたいな。
せかい、こくうはみなほとけ
わしもそのなか
なむあみだぶつ

ー才市翁詩集よりー


島根県温泉津の宗教的天才詩人 才市翁 下駄職人をしながら、かんな屑に書きとめたこの人の詩を読むとなまじっかな宗教詩はつくれない。 

◎今月の言葉(2001年2月)

極重悪人唯稱佛(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼攝取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩惱障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲无倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

親鸞ー正信偈ーより

極重悪人(自分のこと)はただ佛の御名を称えるべし
自分もまた彼の佛のふところにあるのだから
いろいろな煩悩で真実が見えない自分であるが
大悲の佛はどんな時にも倦きることなく私を照らしておられる。 
-拙訳 ご批判下さい-


◎今月の言葉(2001年3月)

我キリストと共に十字架につけられたり
最早われ生くるにあらず、
キリスト我が内にありて生くるなり
今われ肉体にありて生くるは
我を愛し我がために己が身を捨て給ひし
神の子を信ずるによりて生くるなり。

パウロのことば 新約聖書 ガラテヤ書第2章20より

真の信仰者として深い洞察のもとに語られたことばである。
真の信仰を実感した者のみが語りうることばであろうか。


◎今月の言葉(2001年4月)

快楽もほしからず
名もほしからず
いまはただ
下賤の廃躯を
法華経に捧げ奉りて

宮澤賢治

この詩は宮沢賢治が書き込んだ手帳の中にある有名な詩「雨ニモマケズ」の少し前の部分にある詩である。病躯の中で燃えるような「法華経」にたいする彼の宗教的情熱がわれわれの胸を激しく打つ。特に中心の第3行目”いまはただ”の部分は純粋な詩的フレーズとしても無上の響きもつ。(この詩は昭和6年10月から翌年初めまでの間に書き込まれたものといわれている。校本 宮沢賢治全集 第12巻 39頁・691頁)


◎今月の言葉(2001年5月)

             

解脱(げだつ)の光輪
きは(きわ)もなし
光觸(こうそく)かふるものはみな
有无(うむ)をはなるとのべたまふ
平等覺に歸命(きみょう)せよ

親鸞聖人 和讃より
親鸞聖人の和讃は、自身が経験した宗教的真理を人々にわかりやすく伝えるために彼自身が著したものである。 親鸞はここで、人間存在の束縛を解き放つ宗教的真理についての自己の体験を人々に強烈にうったえている。
とくに「光觸かふるものはみな、有无をはなるとのべたまふ」は人間存在にとって味わうべき深い意味をこめたことばであると思う。


◎今月の言葉(2001年6月)

六道輪廻の間には
ともな()人もなかりけり
独りむまれて(ひとりうまれて)独り死す
生死の道こそかなしけれ

千秋萬歳をくれども(おくれども)
ただいなずまのあひだ(あいだ)なり
つながぬ月日過ぎゆけば
死の()きたるは程もなし
          
一遍上人 百利口語より
一遍の百利口語を読むと、宗教の問題はやはり人間の死の問題が出発点にあるということがはっきりする。死の不条理をどう考えるか、これはとりもなおさず生の不条理をどう考えるかということでもある。百利口語の冒頭のことばはこの点をはっきりと我々に示してくれている。


◎今月の言葉(2001年7月)

道場すべて無用なり

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にたもちたる

南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)は

過ぎたる此身(このみ)の本尊なり
          
一遍上人 百利口語より

 今月のことばも一遍上人の百利口語よりとらせて
 いただきました。
 「修行する道場などはいっさい無用です。ねても起きて
 も唱えつづけるナムアミダブツの名号は、この身に過
 ぎた本尊なのです。」というこの言葉には遊行僧「一遍」
 の真骨頂がうかがわれます。
 真の宗教的実践には、修行のための大きな道場など
  いらない。「南無阿弥陀仏」の名号さえあればよい。
 ほんとうの宗教的真理に感応した精神のみが発するこ とができる 珠玉の言葉だと思います。


◎今月の言葉(2001年8月)

晩飯

からだも悪いし
どうやっても正しい人間になれない
御飯を食べながら
このことをおもって
うつむいてしまった


断章

わたしは弱い
しかしかならず永遠をおもうてうたう
わたしの死ぬるのちにかがやかぬ詩(うた)なら
いまめのまえでほろびてしまえ   

八木重吉詩集より

 今月はキリスト者で詩人「八木重吉」の詩を
二編選んでみました。
 「晩飯」でみずからをふりかえり、御飯をたべながら
うつむいてしまう自分
この気持ちがあればこそ「断章」におけるように
基督に触れ、永遠をおもってうたう
力強いキリスト者「八木重吉」のうたが
あるように思います。


◎今月の言葉(2001年9月)

基督

神はどこにいるのか
基督がしっている
人間はどうして救われるのか
全力をつくしても人間は救われはしない
基督をいま生きていると信ずることだ
基督に自分の罪を悔ゆることだ


真理

真理によって基督を解くのではない
基督によって
真理の何であるかを知るのだ

八木重吉詩集より

 今月も前月に引き続き「八木重吉」の詩を
二編選んでみました。
浅はかな解説は無用のものと思います。
この二編の詩において
基督にすべてを委ねた
真正のキリスト者「八木重吉」の面目躍如たるものが あるように思います。



◎今月の言葉(2001年10月)



「百日以内の赤ん坊は穢れているので、寺社のお参りを遠慮せよといわれますのは」

法然「百日以内の赤ん坊の穢れなど別にかまいません。なんでもきたないものがついていれば、きたないでしょう。赤ん坊にかぎりますまい。」



 「にら、ねぎ、にんにく、肉を食べて、そのにおいが消えなくても、つねに念仏をとなえてよろしいものか」

法然「念仏はどんなことにも、さしさわりのないものです。」


 「七歳の人が死んでも物忌みすることはないといわれますのはどうしてですか」

法然「仏教に忌みということはありません。世俗でいっているだけのことで、どうにでも。」



 「父母より先に死ぬのは罪といわれますのは、どうですか。」

法然「穢土の世の常、どちらが先か後かは人の力の及ばぬことです.」


 「酒を飲むのは罪になるでしょうか」
法然「ほんとうは飲まないのがよいのですが、これも浮世のならい。」

法然 ー百四十五箇条問答ーより

橋本峰雄現代語訳



上記は、建仁元年(1201年)頃、愚かで無邪気な女房たちの質問に法然が答えたもの。しかしこれらの質問には当時の社会で女性たちがとらえられていた禁忌や束縛がはっきりとうつしだされている。法然はこれらの質問に、まことにのびやか、かつ合理的にそういった忌みごとが真の仏教にはあたらないことを示し、女性たちを束縛から解き放している。現代でいえば、法然はまことにすぐれた第一級のカウンセラーである。

さて、現代人のわれわれにも、このような禁忌や束縛は全く無いのであろうか。




◎今月の言葉(2001年11月)

ー菩薩願行文よりー

謹んで諸法の実相を観ずるに、皆是れ如来真実の妙相にして塵々刹々一々不思議の光明にあらずと云うことなし。之れに因って古え先徳は鳥類畜類に至るまで、合掌礼拝の心を以て愛護し給えり。
ー中略ー

設え悪讐怨敵と成って吾を罵り吾を苦しむることあるも、此れは是れ菩薩権化の大慈悲にして無量劫来我見偏執によって造りなせる吾身の罪業を消滅解脱せしめ給う方便なりと 云々・・

ー菩薩願行文よりー

「菩薩願行文」を1目読んだとたん、たちまちその宗教的真実の強烈な引力に引き込まれてしまった。古今の真の宗教者は、みなこれと同じ宇宙観、実相観に打たれたのではないだろうか。また、その宇宙観に基づいた中略以降の後段こそ、我々の日々の生きる指針になるものではないだろうか。


◎今月の言葉(2001年12月)

霊魂は不滅か
それとも滅するか

今の私は霊魂の不滅を心から確信するということは出来ない。不滅であると言う人を軽蔑もしないけれども、しかし考えてみますと、霊魂が不滅であってもなくても、不滅でなくてはならぬという理由はどこにあるか、また霊魂がなくなるとして、死んだら空に帰するのだとして、その方が悪いという証拠がどこにあるか。私は生きているうちに宗教的真理にふれた、どの程度本当にふれたか疑問ですけれど。
ー中略ー

つまり生きているうちに宗教的真理にふれているのだから、死んだ後どうあろうとも、それはまかせておけばいいことで、最もよきことが起こってくるにきまっている。霊魂の不滅がいいことならば、不滅がくるにちがいない。霊魂が滅することが、私にとっても私の周囲にとっても一番いいことならば、それは来るに相違ない。すべて宗教的真理にまかせておけばいい。霊魂の不滅を信ずるから、それは本当の宗教であるとか,そういうことはないだろう、と私は思います。・・・・
ー塩尻公明「宗教は必要か」よりー
上記は大阪八尾の「光蓮寺」における塩尻公明氏の仏教講演記録によるものである。
塩尻公明氏は1901年岡山県に生まれる。1925年東京大学法学部政治学科卒業。高知高等学校(旧制)教授、神戸大学教授を経て同大学名誉教授,帝塚山大学教授を歴任。「自由論(岩波文庫)」「民主主義の人間観」「政治と教育」等専門分野の著書のほか「絶対的生活」「日常生活の中の親鸞」「塩尻公明人生論]等等、真摯な宗教観に基づく著書多数。