◎今月の言葉(2004年12月)
      なんぞ死にし者どもの中に、生ける者をたずぬるか
彼はここにいまさず、よみがえりたまえり。
                
ルカ福音書24・5〜6

 今月は、新約聖書の出発点でもあるともいわれている、イエス・キリストの復活のことがらについて、クリスチャンにはなりきれない、平凡な一日本人としての古本屋の思いを述べて(白状して)、7月から続けてきた、聖書のことばについての感想を今月で終らせていただきたいと思います。
 端的にいいますと、聖書にいわれている復活ということが、とてもそのことばどおりには、うけいれることができないということです。この点が、邪念の多い私のような平均的日本人が、正統的なクリスチャンになりきれない点ではないかとも思っています。なぜなら、聖書のことばどおりなら、実際に目に見える体を持ったイエス・キリストが復活されたということにしかうけとれないからです。これは、とてもうけいれることはできません。ここで行きづまってしまいます。・・・・
 ならば、それでおわりかというと、そうではありません。同じく、新約聖書、ガラテヤ書の2章20節におけるパウロのことば、「もはや、われ生けるにあらず。キリスト、われにありて生けるなり」、ここに、イエス・キリストの復活ということがあるというのならば、邪念多き平均的日本人である私にも受け入れることができます。いや、全幅の感動と、それ以上に全幅の信をもって受け入れることができます。私は、キリスト教のすばらしさは、このパウロの言葉にこそあるとも思います。すなわち、このことばは復活という事実にも、また、自分の生の事実にも通ずるものであると思うからです。




◎今月の言葉(2004年11月)
             エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ
   (わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)
            
マルコ福音書15・33-34より

 これはマルコ福音書において、イエスがまさに十字架上で死なんとするときに発した有名なことばですが、これと同じ事柄がマタイ福音書27・57−61にもでているので、イエスの死の間際にこのことばが発せられたのに間違いないことは、最も素直に受取れます。この事柄についてルカやヨハネ福音書ではそれを取り上ず、あたかもイエスが泰然自若として死におもむいたような表現になっていますが、これはなんとも不自然なとりつくろいにしか読めません。イエスは長時間の苦痛に耐えられず、しかも、この時にいたって、神が彼を助けずに見捨てた事に対する抗議とも悲鳴とも受取れます。彼は、こうなるまでに彼を救い出す神を期待したのでしょうか。この事柄に対して、イエスの尊厳をそこなわないような聖書の講解がいろいろのべられています。しかし、完全に、納得できたのは一つもありませんでした。これとは別に、私がある程度納得できたのは、亀井勝一郎氏が何かの著書で述べている「われを捨てずに神の国に入ることはできない。」というものです。これとて、イエスの悲痛な叫びと完全に調和し、納得できるものではありませんでした。ましてや、この事柄についてイエスの尊厳を擁護しようとするような、もっともらしい講解には頷けるものは一つもありませんでした。このイエスの叫びについては、上に述べさせていただいたように、イエスのこの期に及んでの苦しさによる悲鳴の叫びであるとしか、この古本屋には受けとれないのです。それにしても何よりも感動するのは、マルコやマタイの福音書の、この正直さです。聖書は、この正直さにおいて、ますます光輝を発するものと考えます。しかし、あれこれ申し上げた中で、最後に言えることは、イエスのこの叫びによって、イエスが示した宗教的真実は少しも損なわれないと確信できる事です。それは、それまでの、全霊をあげて神に依り生きる、イエスの姿があったからであろうと思います。正統派クリスチャンからはとんでもないことと、非難されるようですが、私はこうしか書けません。



◎今月の言葉(2004年10月)
    幸いなるかな、貧しき者よ、神の国はなんじらのものなり             
ルカ福音書6・20より

 新約聖書の有名なイエスのことばですが、ここでいう「貧しき者」について私的な感想を述べます。ここでいう「貧しき者」とは、ことばどおりの物質的に貧しい者だけでなく、物質的、精神的を問わず全ての「貧しき者」なのではないでしょうか。そういえばこれは、われわれ人間そのもののことを言っているように思います。智恵才覚にすぐれ、大きな富と地位を獲得しても、それだけで永遠の生命を得るわけのものではありません。学術の粋を究め、原子核反応の仕組みを解き明かしても、自ら作った核兵器に怯えながらの世界が現出しています。これらを含め、全て、人間を貧しき存在でないと誰がいえるでしょうか。この貧しき人間存在に光をあてるのが、上の言葉ではないでしょうか。話は飛躍しますが、このことばを思うとき、日本の親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」が心にうかびます。親鸞聖人のいう「悪人」とは、まさにイエスのいう「貧しき者」その者ではないでしょうか。どちらも、全ての人間の存在に光をあてるものだと思うからです。



◎今月の言葉(2004年9月)
       エホバよ、なんじは我をさぐり、我をしりたまえり。
      なんじはわが坐るをも立つをもしり、また遠くより
      わが念い(おもい)をわきまえたもう。
            
詩篇139・1−3 より

 佐伯晴郎著「聖書の名言」(創元社)によれば、“このことばは神の人格的内在の神秘をうたう、きわめて内面的、個人的な信仰告白、ないし祈りとしてひろく知られている”とあります。わたし(HP作成者)は、このことばを読んで、思わず、明治の仏教者‘清沢満之’が“絶対他力の大道”で述べていることば、「一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香其の者の原起力に因るに非ず。皆な彼の一大不可思議力の発動に基くものならずばあらず。色香のみならず、我等自己其の者は如何。其の従来するや、其の趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅亦た自在なるものにあらず。我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。」を連想してしまいました。勿論、旧約の‘神’と、清沢の‘彼の一大不可思議力’とが同じであるなどとは、仮にも言えないでしょう。この場合、旧約の神は人間を創り、時空を創った人間や時空とは別の、すべての上に立つ絶対者ということなのでしょうし、清沢の‘不可思議力’は、そのような人間や時空をもその中に包み込んだ一体者のように感じられます。しかし、わたしは、これら、時代も場所も異なる二つの言葉に人間が持つ宗教心の根元を感じるのです。だから、その違いを云々することなど、この場合は問題ではないように思います。なぜなら、真実はただひとつだと思うからです。



◎今月の言葉(2004年8月)
          わたしは安らかに伏し、また眠ります。
         主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは
         ただあなただけです。
            
詩篇4・8 より

 これは、夕べの祈りとして知られる旧約聖書の中の詩篇のことばです。これは、主を信じる者は、いかなる困難に直面しても、心は安らかであることを表現したものですが、それでは、この主を信じることによる安らかさはどこからくるものでしょうか。わたしは、それを考えてしまいます。ただ、信じよといわれて信じるだけで、このやすらかさが誰にもやってくるとは、とても思えません。一体、この詩篇の作者のような、確固とした信仰心の根元はどこにあるのでしょうか。私は、それは、「信じる」ということがらが、自分の力で、或いは能力で信じて神を見出すということではなくて、信じるなといわれても、信じざるを得ない、我々人間の事実があるからだと思います。それはすなわち、先月にも申し上げましたように“「この世」とは一体何なのか、この自分の存在、世界や宇宙の存在とは一体何かのか”を、つきつめて考えてしまう人間の事実があるからだと思うのです。すなわち、そこには、小さな奇蹟やご利益などとは一切関係なく、存在そのもの全て、この自分自身も含めて、この現前のことがら全てが奇蹟であり、与えられたものであると直観することにあるのではないかと思うのです。



◎今月の言葉(2004年7月)

 今月からは、しばらく、聖書の中にある“ことば”から選ばせていただき、また、それについての独特のいささか変わった感想を述べていきたいと思います。聖書の言葉についての感想といえば、随分大それたことですが、勿論、学問的根拠などあるはずもない、単なる感想ですので、気軽に読み飛ばしていただくだけで結構ですので、しばらくお付き合いください。

ー我は有りて在る者なりー
            
旧約聖書 出エジプト記 3・14より

 旧約聖書「出エジプト記」において、神が預言者モーセに告げる‘ことば’です。「有りて在る者」と、二度も繰り返して、言われたわけですから、神こそ‘真に在る者’という意味でしょうし、モーセはそれを深く信じたわけでしょう。これを読んで私は聖徳太子が残しておられることば「世間虚仮、唯仏是真」を思い出しました。この意味も、いろいろにとることができるでしょうが、「われわれの見ている世界は、実は虚で仮のものであり、仏の世界こそ真実のものだ。」ととることもできるでしょう。我々は普通、現実世界で生きています。すなわち「世間」、いうなれば「この世」で生きています。そう言えば、あらゆる生き物、すなわち細菌から植物、更にはいろいろな動物、最後は人間まで、それぞれが認識する「この世」で生きています。しかし、人間だけが、何の因果か、それでは、その「この世」とは一体何なのか、すなわち、この自分や世界、宇宙や存在、とは一体何かのかを、考えずにはおれない生物であるように思います。宗教的真実をもとめる入口は、まさに、ここにあるのではないでしょうか。東西の二人の宗教的偉人の内、一人は「神こそ真に有る者」と信じ、他の一人は「唯仏是真」と認識したわけですが、なかなか、ここまでには、この入口から、更に相当の距離があるように思いますが、少なくとも、その入口は人間が持つこの宇宙や自分の存在への問いかけにあるように思います。



◎今月の言葉(2004年6月)

終焉
(1)
慚愧 感謝
慚愧 感謝
南無阿弥陀佛
中島文吾

<昭和63年10月2日>
(2)
火がついた
火がついた
散々苦労し マッチの
火がついた
如来大悲の灯に
火がついた
お手廻しや お手廻しや
南無阿弥陀佛

 
中島文吾

<昭和64年1月5日>
(3)
東に 満月 こうこうと さえわたり 西に お浄土<br>
来いよ 来たれよ<br>
南無阿弥陀佛<br>
と呼びたまう<br>
呼びこゑ

<昭和64年1月21日>
(4) 節分や
色もなし
形もましまさぬ
<平成元年(昭和64年)年2月4日>
(平成元年年2月5日還浄)
−中島文吾氏遺稿集「色もなし 形もましまさぬ」より−
 中島文吾氏は平成元年2月5日に亡くなっておられます。
(中島氏は死にあたり、献体を希望され、、自らのなきがらを医学の進歩に供されたことも、ここで付記させて頂きます。)

 今月はHP作成者のほうで、表題を「終焉」とさせていただきました。
上記の文は 前年の10月から終焉の2月に至るもので、脳梗塞により右手は使えず、左手で書かれたものです。最後の(4)は亡くなられる前日のものです。本書の表題でもある「色もなし 形もましまさず」は、親鸞聖人の唯信鈔文意に「法性法身ともうすは、色もなし、形もましまさず、然らば心も及ばず、ことばも絶えたり、・・・・」とあることから、中島氏の脳裏にこのことばが浮かんだのであろうと思います。まことに、中島氏の生涯は真の念仏者、真の親鸞の教え子として
の生涯であったと思い、只々讃歎の念のみ、これ以上、何の解説めいたことは付け加える必要があるでしょうか。
 以上、3月から6月まで、4ヶ月にわたって掲載させていただいた中島文吾氏の珠玉の言葉集を終りたいと思います。来月からまた新しいことばの探究を続けたいと思います。


◎今月の言葉(2004年5月)

如何スベキヤ

業者間競争相手への憎しみ、不渡り倒産会社への憤り、
この場合の自分の心は如何に転心スベキや
ナマジカ念仏唱えていては、会社一族の生命にかゝわる。
あく迄争わん、どこ迄も。
取るべきものは取る、この憎しみ憤りの心は、やむを得ぬと是認するや。
悲しむべき事乍らどうしてみ様もないこの憎、
「吾が敵を愛せよ」の言葉では落ちつかぬ。
「因縁法」の仏語では片づかぬ。この心如何スベキや。
如何スベキや。ドウしようもない。
称我名号、南無阿弥陀仏、腹立つまゝに念仏するより道なし。念仏の一声が如来大悲のみ光!

(昭和38・8・17)

あけくれて手形のことは気になれど
忘れはてたりみ仏の顔  (昭和28年9)
<中島文吾氏遺稿集「色もなし 形もましまさぬ」より>

 今月はHP作成者の方で、「如何スベキヤ」を表題とさせていただきました。
まさに、凄まじい事業経営者の心的葛藤、そしてその憎しみ、憤りを、自分の中で、どう処理するのか、どう受けとめるのか、「如何スべキヤ」、「如何スベキヤ」と中島氏は2度も繰り返しています。「相手の立場を」とか、「わが敵を愛せよ」とかいった通り一片の言葉では「ドウしようもない」と文吾氏は、怒り憤りとともに、そうならずにはおれない自分という存在を、この上なく悲しんでおられます。ここには、悟りすました、ありがたい仏教者の姿はありません。しかし、まさに、ここにこそ、仏教が生きているといえないでしょうか。甍を連ねた大寺院の中にも、語句の不明な有難いお経の中にもない、生きた仏教がここに厳然と存在していると言えないでしょうか。
 「あけくれて手形のことは気になれど、忘れはてたりみ仏の顔」と書いておられますが、このように 書かずにおれない人をこそ、み仏のほうで、決してお忘れにならないことを、確信せずにはおれません。  




◎今月の言葉(2004年4月)

南無不渡仏

南無阿弥陀仏
南無無限者
南無不渡仏
南無阿弥陀仏
南無無限者
南無税務署員
南無阿弥陀仏
南無無限者
南無煩悩具足者
            
<昭和34年4月26日日記抜粋>
                  
−中島文吾氏遺稿集「色もなし 形もましまさぬ」より−
  
 今月は中島文吾氏が書いておられる日記から抜粋してみました。遺稿集「色もなし、形もましまさぬ」全体から受ける印象は、なんといっても中島氏の無限の明るさです。上記の「南無不渡仏」と当HP作成者が題した9行の言葉には、経営者としての氏の日々の苦闘がにじみ出ています。“不渡”をつかまされたときの、やり場のない苦しみ、税務署との事業者としてのぎりぎりのやり取り、いずれも愉快なものはチリほどもありません。これらの言葉には、その苦しみがにじみ出ています。しかし、それでいて、なお、この詩の底流を流れる、何ともいえない“明るさ”はどうでしょう。私は上記の詩を読んで、思わず不謹慎にも、吹き出してしまいました。なんという明るさ、なんという純粋さでしょうか。不渡は苦しい、何ともいえない煮え繰り返る思いだ、しかし、この苦しさも無限大悲の“お手回し”南無不渡仏だ。  税務署員との税金についてのやり取りを愉快に思える事業者は、よほど成功している人以外はいないでしょう。いや、成功すればするほど税金も大きくなるわけですから、これも愉快な筈がありません。税務署員を見たら胃が痛くなる思いをするのはまさに、第一線で活躍する事業者の共通の正直な思いだと思います。しかしその税務署員を“南無税務署員”と書く中島氏。まさにここには、“生きた仏教”が滔々と流れています。世の中に起るあらゆる苦しみ、悩みを全て如来大悲のお手回しと見る中島氏の目に、私どもは、頭を垂れ、深く思いをはせずにはおれません。そして、同時に、そこに中島氏の無限の明るさを私は読み取らずにはおれないのです。
 長くなりましたが、最後に“税務署”についての同書にある、文吾氏の昭和33年4月の日記から、中島氏自身の自戒のことば(詩)を掲載させていただいて終りたいと思います。

            

税務署にとまどう心
あわれや
己が貪欲
照らす仏ぞ
苦悩の因は貪欲にあり、
名利にあり
不如意、不如意、不如意
如意の心が苦悩の因である。



◎今月の言葉(2004年3月)

平生業成

今今今、永遠の今
天地一パイ南無阿弥陀仏
一足一足歩けども一処に留る
何処に行くにも非ず
やがて死するにも非ず
今生かされてあるこの不思議
百千万歩すと雖も半畳を出でず
只宇宙の一点に静止して安らけし
行住坐臥大悲摂取光中
息の絶えたところ
そのときがお浄土へ着いたとき
今はお浄土への道中
南無阿弥陀仏の中
死とは如来の中に消え
如来と一体となし給う時
・・・・  (昭和60・1)


上記「平生業成」は、平成元年に84歳で還浄された実業家 中島文吾氏の遺稿集にある詩よりHP作成者が抜粋させていただいたものです。一読いただけば、おわかりいただくように「天地いっぱいの南無阿弥陀仏」の中にドッカと腰を下ろした、なんと雄大な‘ことば’でしょうか。商都大阪を舞台に、戦前戦後を通じて、実業家として活躍された方で、このようなすばらしい宗教詩を作られる方がおられたとは、この本を手にするまで、知りませんでした。同じ大阪に住む筆者として驚きであり、この上ない喜びです。真の念仏者、真の仏法者がここに現前されるという感を禁じ得ません。昨年、妙好人「才市翁」の詩を、本欄に掲示させていただいたとき、「才市翁」の詩を読むと、なまじっかな宗教詩はなかなか我々には作れないと、申し上げましたが、ここに、その「才市翁」の詩に匹敵する、すばらしい宗教詩が「中島文吾氏」によって作られていることを知りました。まさに真の念仏者、真の仏法者によってしか、つくれないものなのでしょう。以上、限りなき讃歎とともに上記宗教詩「平成業成」を‘今月のことば’とさせていただきます。
                                     

(HP作成者)

 


◎今月の言葉(2004年2月)

        
山崎弁栄3

−法蔵菩薩−

 個々は、仏性、即ち絶対無限の心性をもって自己の根底とす。・・・・法蔵の願とは、個々の法蔵を開発して無量光寿を開示せんがためなり。法蔵の本質は、一切衆生の本体なり。人々神的欲望(求道心あるいは菩提心)は、これ法蔵の願なり。
      
−山崎弁栄著「無対光」より(浄土仏教の思想14に依る)−

    
 無量寿経にある法蔵菩薩の物語は、我々のような、現代に生きる普通の人間には、とても、その宗教的真実を素直に受け取ることが出来ず、私なども、これはありがたいお経の中にあるフィクション、あるいは神話物語,程度にしか受け取ることが出来ませんでした。したがって、その法蔵菩薩がたてられた願、すなわち四十八願などの意味も、単なるフィクション中の、無上殊勝なる願いとしてしかうけとれなかったのです。しかし、弁栄聖者は言っています。「これは、現にいま生きるわれわれ一人一人の問題なのだ」と。なぜなら、我々一人一人は、「仏性、即ち絶対無限の心性をもって自己の根底とする」からだと。「法蔵の願とは、個々の法蔵を開発して無量光寿を開示せんがため」であると。したがって法蔵菩薩の願とは、現に今生きている、求道を志し、菩提心を渇望する我々一人一人の「あるべきよう」、すなわち「生きかた、ありかた」なのだと、説いています。いや、心の底から叫んでいます。この法蔵菩薩の願いにもとづく振舞いこそ、弁栄聖者が身をもって行い指し示した生き方ではなかったかと思うのです。そして、それは、求道心薄く、菩提心からも、およそかけ離れた日々の過ごし方をしている、我々平凡人を照らす光でもあるのではないでしょうか。
 総じて、いま振り返って見ますと,弁栄聖者の依って立つ宗教的真実の根本は、ただ一つ。上の文章の例で言えば「個々は、仏性、即ち絶対無限の心性をもって自己の根底とす。」にあるように思います。そして、これはまた、明治の同時代の清沢満之の根本でもあり,内村鑑三の根本でもあったのだ、と思うのです。
 以上、弁栄聖者のことばを、昨年12月から3ヶ月にわたって、掲載させていただきましたが、来月からは、また、新しい、宗教的真実をかたる言葉の探究を続けたいと思います。
                                    −HP作成者−  




◎今月の言葉(2004年1月)

        
山崎弁栄2

−南無阿弥陀仏−

 南無ということは、自己の全心全幅を阿弥陀仏に投帰没入してしまうことであります。しからばどういうふうに投げ込んでしまうのであろう。阿弥陀仏のまします所さえ、どの方にましますかは(しか)と分かりませぬものを、その如来の中にいかにして自己の(たましい)を投げ込めと思うでしょうが、・・・・。けれども如来は絶対的に尊とくましまして、いずれの処にもましまさざることなき霊体なれば、唯だ無上の尊敬心(そんぎょうしん)をもってアナタは、今、現に真正面にましますものと信じてみ名を呼び奉れば、大ミオヤの大慈悲のみ胸に響きて、慈悲の(まなじり)を注ぎて、われを見そなわしたまうと思いたまえ。・・・
      
ー山崎弁栄著「人生の帰趣」よりー

    
 上記文章にも、弁栄聖者が、いかにして‘南無阿弥陀仏’と唱えることの意義を、現代人が把握しうるかを、すこしでもわかりやすくと、噛み砕くように、説いている様子がうかがえます。しかも、その説くところの根源は、彼の深い宗教的自覚に基づき、自己と宇宙の存在のよりどころを、すべての起源であり現前である如来大悲とうなずくところに由来している様は、われわれをして、深く首肯せざるを得ないところでもあります。科学的思考の発達によって、地獄の核兵器さえ操れるようになり、明らかに、数百年昔に比べ、業深く、罪深くもなってしまった現代人は、万巻の経典によっても、容易に宗教的真理をうなづけなくなっている事も事実です。そのような、現代人に対して、彼は自己と宇宙の存在の在りようすべてが、如来大悲によるもの、という自己の実際的自覚に基づいて“南無阿弥陀仏を唱える”ことの意義をすこしでもわかり易くと、説いている様が、上記文章にあらわれているように、私には思えます。     −HP作成者−