◎今月の言葉(2010年1月)

歎異抄(後篇 序文)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「後篇 序文」
   そもそも、かの御在生(ございしょう)のむかし、おなじくこころざしをして、あゆみを遼遠( りょうえん)洛陽(らくよう)にはげまし、信をひとつにして、心を当来 (とうらい)報土(ほうど)にかけしともがらは、同時に、 御意趣(ごいしゅ)をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まふさるる老若( ろうにゃく)、そのかずをしらずおはしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、近来は、おほくおほせられあふてさふらうよし、つたへうけたまはる、 いはれなき条々の子細のこと。 


【HP作成者感想】
 第十条までは、各章の文章の末尾に「云々」または「おほせさふらひき」で終わっています。これは唯円が親鸞聖人のことばを忠実に再現して、「このように云われましたよ」という意味で、「おほせさふらひき」 または「云々」なることばを使っていますが、この後篇の序文からは、いよいよ親鸞聖人没後、聖人のおしえを学ぶ数多くの人々の中に親鸞聖人の教えとはおよそかけ離れた異義を となえだしている人びとが現われていることを歎いた唯円が、自らの言葉でもって、それらの異義が如何に親鸞聖人のおしえと異なった間違いであるかを、刻銘に説き明かしています。この後序はその出発点としての意味合いをもっています。本来、宗教的真理は法律の条文ではありませんから、祖師の教えを聞くひとびとの個々の精神の中で醸成されてくる中で、微妙な差異が生じてくるものであることは否めません。 たとえば、先日、このようなことがありました。あるお寺で「本願の根源」というタイトルで、高名なA師のご講話を聴聞しました。たいへんすばらしい、宗教的真実を、やさしく、くだけた調子でお話くださいました。 おおきな感動を持って、拝聴し終えたのですが、ご講話のあと、まわりの同行の方からうかがったところでは、実は、この講話は初め、別の高名なB師が受け持たれることがきまって いたのですが、B師が突然のご病気のため入院され、ご講話いただくのが不可能になったため、急遽A師のご講話になったとのことでした。そこで、私の想像癖が頭をもたげ、次のようなことを思わず想像して しまいました。もし、この講話のタイトルが「本願の根源」という同じタイトルでB師がお話になったら、当然のこととして、A師とは異なったご講話となったでしょう。そしてB師もきっと、親鸞聖人の教えの 真髄を私たちに心行くまで、わかるように慈愛を持ってお話されたにちがいありません。しかし、そこにA師とB師のお話の中に親鸞聖人の教えの真髄を語るその中に、まことに微妙な違いがあったのではないで しょうか。実は、この微妙な違いが、まことにすばらしく、真実の宗教というものが、ひとりひとりの心の中で醸成されていく内に、微妙な違いが生れている。この微妙な違いこそ、宗教の宗教たるところでは ないでしょうか。しかし、しかしです。ここで間違ってはならないことは、そのもっとも根幹たる部分は絶対に変ってはならないということです。ここに個々の真実の微妙な違いの中に、時代が何世代も続く長さに なろうとも、変らぬ宗教的真実のすばらしさがあるのではないでしょうか。上記のようなことがらを踏まえつつ、第11条以降を読んで行きたいものだと思います。もちろん、第11条以降では、唯円ならずとも およそ、親鸞聖人の教えとは遠くかけ離れた異義の数々が露に並んでいますので、上記ような想像は、また、全く関係のないことではありますが、心のどこかに留め、宗教的真実を踏まえたうえでの微妙な違いと、宗教的真実を根底からひっくり返してしまうような、見当違いの異義との差異をしっかり確認しそれを踏まえた上で 読んでいきたいものであると思います。

〔今月はこれで終わり、2月から第11条に入っていきます〕

                                                                                                         


◎今月の言葉(2010年2月)

歎異抄(第十一条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十一条」
   一文不通(いちもんふつう)のともがらの念仏申すにあふて、「なんぢは、誓願不思議( せいがんふしぎ)を信じて念仏申すか、また、名号(みょうごう)不思議を信ずるか」といいおどろかして、 ふたつの不思議を子細をも分明(ぶんみょう)にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと。この条、かえすがえすも、こころを とどめて、おもいわくべきことなり。
 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまいて、この名字(みょうじ)をとなえんものを、むかえ とらんと御約束あることなれば、まず、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいづべしと信じて、念仏もうさるるも、如来の御はからいなりとおもえば、すこしも、みづからのはからい、 まじわらざるがゆえに、本願に相応(そうおう)して、実報土(じつほうど )に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足(ぐそく)して、誓願・名号 の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。
 つぎに、みづからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様(フタヨウ)におもうは、 誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の(ごう)をはげみてもうすところの念仏をも自行 (じぎょう)になすなり。このひとは、名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂 の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。


【HP作成者感想】
  この第十一条からは、唯円がいろいろの異義の実例をあげて、師の親鸞のことばもまじえながら、その一つ一つについて、なぜそれが親鸞の教えから隔たった異義であるのかを懇切に説いていきます。
 まず第一番目は、一文不通のともがら、即ち文字もよく読めない人びとが念仏していると、内容を充分に説明もせずに「あなたは、誓願不思議を信じて念仏しているのか、それとも名号不思議を信じているのか」 と横合いから、もの知り顔に云い、念仏する人を当惑させる。このようなことはもってのほかで、そのような物知り顔の人の言分に惑わされないように、よほどシッカリ故親鸞聖人の教えをつまびらかに領解 せねばならないのだと唯円は云います。すなわち、誓願の不思議(第十八願の不思議)によって、憶えやすくて誰にでも称えることができる名号を考え出され、これによって生死いづべき道(現代では生の苦しみ、 死の虚無から解放される宗教的な道)を与えようという大悲の御はからいであれば、誓願不思議も名号不思議も同じ弥陀の大慈悲であり一つのことなのだと、唯円は云いたいのだと思います。
 また、同じように善・悪の二つについても、善い事をすれば往生のたすけになり、悪いことをすれば往生の妨げになるということも、他力往生という観点から見れば、間違っている。 阿弥陀仏の誓願は弥陀の大悲を信じて念仏すれば、どのような衆生も往生がかなえられるのであって、行いの善悪による区別はないのだ。と唯円は云います。そしてさらに、善悪の区別無く救おうという弥陀の 大悲に納得出来ず、信ずることが出来ないけれども、往生を願うという人びとでも、弥陀の大悲は辺地・懈慢界・疑城胎宮など仮の浄土にまず生れさせ、ついには究極的な他力真実の浄土に生まれさせようというのが、 第十八願に顕れた、どこまでも尽きない弥陀の大悲の顕われなのだと、唯円は付け加えます。まことに阿弥陀仏の無限の大悲の前には、誓願不思議と名号不思議を区別して、その価値の優劣を人間の浅智慧で思い 計ろうとする愚を唯円は指摘しています。すなわち、誓願不思議も名号不思議もすべて弥陀の大慈悲の大きな海に融合して、まったく一つのこと、すなわち、そこには阿弥陀仏の大悲のみがある世界なのだという ことを、唯円は云いたかったのだと思われます。
 

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                                                                                           


◎今月の言葉(2010年3月)

歎異抄(第十二条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十二条」
   経釈(きょうしゃく)をよみ、学せざるともがら、往生不定(おうじょうふじょう )のよしのこと。この条、すこぶる不足言(ふそくごん)()といひつべし。
 他力真実のむねをあかせる、もろもろの正教(しょうぎょう)は本願を信じ、念仏を まふさば、仏になる。そのほか、なにの学問かは、 往生の要なるべきや。まことに、このことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも、学問して、本願のむねをしるべきなり。
 経釈をよみ、学すといへども、 聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便(ふびん)のことなり。
 一文不通にして、経釈のゆくぢもしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆへに、易行(いぎょう)といふ。 学問をむねとするは、聖道門なり。難行となづく。あやまって、学問して名聞・利養(みょうもん・りよう)のおもひに住するひと、 順次の往生いかがあらんずらんといふ証文もさふらうべきや。
 当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくわだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵(ほうてき) もいできたり、謗法(はうぼうふ)もおこる。これしかしながら、みづから、わが法を破謗( はぼう)するにあらずや。
 たとひ、諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり。その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがごとく、下根(げこん )の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに、上根(じょうこん) のひとのためには、いやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとひ、自余の教法すぐれたりとも、みずからがためには、器量( きりょう)およばざれば、つとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意(ごほんい) にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくひ()せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは、 諍論(じょうろん)のところには、もろもろの煩悩おこる。智者遠離( ちしゃおんり)すべきよしの証文さふらふにこそ。
 故聖人のおほせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。また、ひとありてそしるにて、仏説まことなりけりと、 しられさふらう。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまって、そしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに、信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。 かくまふせばとて、かならず、ひとにそしられんとにあらず。仏の、かねて信謗(しんぼう)ともにあるべきむねをしろしめして、 ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなり」とこそさふらひしか。
 いまの世には、学文して、ひとのそしりをやめ、ひとへに、論義問答むねとせんと、かまへられさふらうにや。学問せば、いよいよ、如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、「いやしからん身にて 往生いかが」なんど、あやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢(じょうえ)なきおもむきをも、とききかせられさふらはばこそ、 学生(がくしょう)のかひにてもさふらはめ。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも「学文してこそ」 なんどいひをどさるること、法の魔障(ましょう)なり、仏の怨敵(をんてき )なり。みづから、他力の信心かくるのみならず、あやまって他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、 弥陀の本願にあらざることを。


 [語義注釈]
・経釈のゆくじもしらざらん:ゆくじ=往く路=筋道
・にくひ気(ケ)せずは=憎らしく思う=憎らしい気配をして人の反感をかう
・学文=学問とほぼ同じと考えてよいのでは・・
【HP作成者感想】
 「学解往生」といい、浄土の聖教をよく学ばなければ浄土に往生できないとの主張に対して、唯円がとんでもない異義であると、この章で指摘しています。 「本願を信じ、念仏申さば、仏になる」これが故親鸞聖人の教えの根本であって、経釈のこまかい筋道をいちいち学問し究めなければ往生できないなど もってのほかの異義であると唯円は主張しています。これは、この歎異抄の第二条にもあるように、親鸞聖人においては「念仏して弥陀にたすけまいらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに 、別の子細なきなり」ということ以外にどんな学問がいるのかという先師以来の一貫した主張を唯円もここで、あらためて披露しているわけです。このことは、親鸞聖人の師法然上人が死のまぎわに弟子に 残された「一枚起請文」において、「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者の ふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と云い遺されたこととまったく一致します。考えてみれば、現代の我々においても、いかに学問しても、生死について、一体どれだけのことをさとっているので しょうか。生において、その来たるところ、そして行き着くべきところ、今こうして現に生きている意味、さらには死して後を語る人無く、その先は蒙昧として何も知り判る能力のない私ども、 弘法大師空海も、その秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)において述べる如く「生れ生まれ生れ生れて生のはじめを知らず、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」とあるように、我々は、如何に学問しても もともと、生死の根本問題については、何も知り判る能力の無い「一文不知のともがら」そのものなのではないでしょうか。いかにあがいても、そうである私どもであるならば、それは、もう、われわれを 生かしめ、死なしめているこの生死の根本、我々が生かされ、死なしめられている、生死の根本、そして本願によって、全てを救いとろうと誓われ、仏になられた阿弥陀仏が、本願を信じ念仏せよと 曠劫よりこのかた常に流転しているわれわれ衆生を救い上げんということばを信じ、全てをゆだねて念仏する以外にないのではないでしょうか。
 

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                                               

◎今月の言葉(2010年4月)

歎異抄(第十三条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十三条」
  弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。 この条、本願をうたがふ、善悪の宿業( しゅくごう) をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善(しゅくぜん)のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには「卯毛・羊毛(うもう・ようもう)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべし」とさふらひき。
 またあるとき、「唯円房は、わがいふことをば信ずるか」と、おほせのさふらひしあひだ、「さんさふらふ」とまふしさふらひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねておほせのさふら ひしあひだ、つつしんで 領状(りょうじょう)まふしてさふらひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は 一定(いちじょう)すべし」とおほせさふらひしとき、「おほせにてはさふらへども、一人も、この身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらふ」とまふしてさふらひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にても、かなひぬべき 業縁(ごうえん)なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」とおほせのさふらひしかば、われらが、こころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、おほせのさふらひしなり。
 そのかみ、 邪見(じゃけん)におちたるひとあって、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の (ごう)とすべきよしをいひて、やうやうに、あしざまなることのきこへさふらひしとき、 御消息(ごしょうそく)に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」とあそばされてさふらふは、かの 邪執 (じゃしふ)をやめんがためなり。まったく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。 持戒・持律( じかい・じりつ)にてのみ本願を信ずべくは、われら、いかでか、生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、 げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを。
 また、「うみ・かわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。 「さるべき 業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人はおほせさふらひしに、当時は 後世者(ごせしゃ)ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にわりぶみをしてなむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに 賢善精進(けんぜんしょうじん)(そう)をほかにしめして、うちには 虚仮(こけ)をいだけるものか。
 願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。されば、よきことも、あしきことも、 業報(ごうほう)にさしまかせて、ひとへに、本願をたのみまひらすればこそ、他力にてはさふらへ。『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみ(身)なれば、すくはれがたしとおもふべき」とさふらうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も 決定(けつじょう)しぬべきことにてさふらへ。
 おほよそ、悪業・煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち、仏になり、仏のためには、五劫思惟 (ごこうしゆい)の願、その (せん)なくやましまさん。
 本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・ 不浄具足(ふじょうぐそく)せられてこそさふらうげなれ、
それは願ほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪はほこらぬにてさふらうべきぞや。かえりて、こころをさなきことか。




[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注および中村元著『仏教語辞典』より  ・本願ぼこり:阿弥陀仏の本願にあまえてつけあがること
  ・宿業:(1)過去の世における行い (2)人間がいかんともしがたい根源的な力
  ・宿善:(1)過去世につくられた善 
      (2)人の一代に限って今までにつくった善根を指すことも
  ・さんさふらう:“さに候”の音便でさんそうろう
  ・領状:承諾すること
  ・業縁:過去の行いが原因となって、現在の結果が生ずること
  ・そのかみ:そのむかし
  ・当時:今の時代
  ・わりぶみ:紙に書いて貼りだすこと
  ・虚仮:うそ、いつわり
  ・業報:行いのむくい
  ・罪業のみなれば:罪業の身なれば  ・煩悩・不浄具足せられて:心のけがれと身のけがれをつけていること

【HP作成者感想】
 この第十三条は、二つの部分で私たちに問題提起をしている章だと思います。
 まずその一つは、唯円が親鸞から聞いたという宿業という事柄です。「よきこころのおこるも、宿善(しゅくぜん)のもよほすゆへなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり」と言い、さらに、「故聖人のおほせには『卯毛・羊毛(うもう・ようもう)のさきにいるちりばかりも つくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべし』とさふらひき。」といって宿業という事柄がわれわれの全ての行動を一挙手一投足まで決めていると主張しています。この、世にも怖ろしい「宿業」という事柄を、私たちはどのように理解すればいいのでしょうか。宿業を上記『新版 歎異鈔』の脚注によれば、“過去の世における行い”、となっており、更に、中村元著の仏教語大辞典では、前記の脚注のような解釈と同時に「人間がいかんともしがたい根源的な力」とあります。仏教は因果の理法を説く宗教ですから過去におこなった事柄が原因となり、そこにいろいろな縁が加わって、現在の私たちの行動が決まるというように考えてよいでしょう。しかし、その「過去」とはいったい具体的にいつのことを指すのでしょうか?私はこれを輪廻転生における前世とはとても考えられません。これは、自分が生れてからこちらのこと、そういった過去の事柄なら納得できます、輪廻転生における前世とはとても、考えられません。現代はDNAの振る舞いが解明されてきている時代ですから、私の前世、またその前世を現在の私に繋がる過去のDNAのありようまでだったらなんとか納得できます。私の中には、過去に多くの他生物を凌駕し征服し、ある意味では殺戮してきた過去をもつDNAがあることは確かです。だから今、ここにこうして生きて存在しているからです。しかし、それにしても、私の親の、またその親の、そして何万年何十万年、いや何千万、何億年前のDNAが行なってきた事柄について、現在の私にはとうてい責任は負えません。いったいそのような得体の知れない私の前世のしわざの累積を「宿業」というならば、それが輪廻転生にもとづく「宿業」であろうと、あるいはDNAが示す過去の世の行いの「宿業」であろうと、そのようなわけのわからない宿業という怪物に私の一挙手一投足が支配されているとなると、とてもたまったものではなく、生きる意欲さえなくなってしまいます。この、考え方によっては、まことに身の毛もよだつ宿業ということがらを、どう考えたらよいのでしょうか。わたしは、ここに大逆転があると思います。しかも、仏教の根本原則である因果の理法をそのまま肯定する大逆転です。すなわち、宿業という事柄こそ、無限の因果の理法もすべて含んで、これこそ、如来の大悲の働き、すなわち如来の本願の働きなのだと、このように考えることは出来ないでしょうか。このように考えて、はじめて、私の一挙手一投足もすべて如来の大悲の中にあるといえるのではないでしょうか。如来の大悲に生かされて生きるといえるのではないでしょうか。魔物のような、わけのわからない「宿業」によって生かされているのではたまったものではありません。そうではなくて、無限の大悲の如来の妙用によって生かされて生きている、すなわち、無限大悲の如来の本願によって生かされて生きている。そして、現前の一念一念において、如来の創造力をいただいて、あたらしい人生を、絶対他力のもとで生きていく。これほどすばらしいことはないと思います。私たちは罪なる存在です。あらゆる他生物を殺戮して生きてきていることには、過去・現在を問わず厳然とした事実です。まことにかなしい存在としかいいようがありません。しかし、そのような消し難い、避けがたい罪を全部ひっくるめて、罪ごと、私たちを、大悲の中に包み込み、生かしめていただいている、私は、「宿業」をこのように考えるべきだと思っています。
 その二つ目は「本願ぼこり」の問題です。唯円はいいます。「卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべし」このように故聖人はいわれていた、したがって、罪を犯し、それを反省せず、このような罪を犯しても、仏の本願があるのだから、むしろ、仏はそのような悪人が救済の目当てだとばかり、うそぶいている、いわゆる「本願ぼこり」もこれも、すべて宿業のなさしめるところであるから、非難するほうがおかしいと言いたげです。この問題は大変難しい問題です。人間は罪なしには生きて行けません。たしかにそのとおりです。しかし、今までに、つくった罪については、悲しいことですが宿業によるといってもよいでしょう。しかし、いまからつくる罪についてはどうなのでしょうか? ましてや、本願があるからと人に悪業をすすめるなどということは、どう考えるべきでしょうか。むずかしいことです。なかなか結論は出ません。だから、これは、このような際に親鸞聖人が云われたように「くすりあればとて、毒をこのむべからず」、これにもとづき、仏を伏し拝み、親鸞聖人を伏し拝んで、聖人の仰せのとおりに、悪から遠ざかるべきでしょう。あるいはまた、次のような考えは、どうでしょうか?法然聖人、親鸞聖人の御二人こそ、あの殺伐たる鎌倉時代において、真の日本の大乗仏教を確立された方であるといえるわけですが、このお二人が確立された大乗仏教の真髄は多くの衆生を救いとることを第一義とするわけですが、このような大乗仏教の見地からも、これからの行なおうとすることがらに本願があるからと悪業をすすめるのはありえないことではないでしょうか。
 以上、今月は、大変、難解な問題がこの章の中に出ていたわけですが、上記で述べた事柄につき、皆様方の忌憚の無いご批判をいただきたいと思います。 

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                      

◎今月の言葉(2010年5月)

歎異抄(第十四条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十四条」
  一念に八十億劫(おくこう)の重罪を滅すと信ずべしといふこと。
この条は、十悪・五逆(じゅうあく・ごぎゃく)の罪人、日ごろ、念仏まふさずして、命終 (みょうじゅう)のとき、はじめて、善智識(ぜんちしき) のをしへにて、一念まふせば、八十億劫のつみを滅し、十念まふせば、十八十億劫の重罪を滅して、往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重( きょうじゅう)をしらせんがために、一念・十念といへるか。滅罪の利益なり。いまだ、われらが信ずるところにおよばず。
 そのゆへは、弥陀の光明にてらされまひらするゆへに、一念発起(いちねんほっき)するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、すでに、定聚(ぢょうじゅ)のくらゐにおさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・ 悪障(あくしょう)を転じて、無生忍(むしょうにん )をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか、生死を解脱( げだつ)すべきとおもひて、一生のあひだ、まふすところの念仏は、みな、ことごとく、如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。  念仏まふさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそさふらうなれ。もししからば、一生のあひだ、おもひとおもふこと、 みな、生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転(たいてん)せずして、往生すべし。ただし、業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また、病悩苦痛をせめて、正念に住せずしてをはらん、念仏まふすことかたし。そのあひだのつみをば、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生かなふべからざるか。
 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のまふされんも、ただいま、さとりをひらかんずる() のちかづくにしたがひても、いよいよ、弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。
 つみを滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念(りんじゅうしょうねん)といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらうなり。

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[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注および中村元著『仏教語辞典』より   
・一念:一声の念仏   
・八十億劫の重罪:八十億劫という長い間、苦しむ重い罪   
・善智識:念仏の教えを説き導く人   
・十八十億劫:八十億劫の十倍の長さ   
・一念発起:阿弥陀仏のはからいで信心がおこること   
・金剛の信心:金剛石(ダイヤモンド)のように固い確かな信心   
・定聚:正定聚の略。正しく浄土に生まれることが定まること。   
・無生忍:無生法忍の略。さとりのこと   
・悲願:阿弥陀仏の慈悲の願い   
・われとつみをけして:自分の力で罪を消して   
・生死のきづな:迷いの世界につなぎとめる綱   
・業報かぎりあることなれば:過去の行いとさまざまな縁によって行為が束縛されるのだから   
・病悩苦痛をせめて:病気のくるしみにせめられて   
・正念に住せずして:死に臨んでただしく念仏できなくて   
・そのあいだのつみ:正念に住することができないときの罪   
・摂取不捨の願:すくいとって捨てないという阿弥陀仏の願い

【HP作成者感想】
  この第十四条のいうところは明快です、自力の念仏の無効なることを、はっきりと述べています。即ち、一念の念仏で八十億劫という長い間の重罪を滅し、十念では、その十倍の十八十億劫の間の罪を
滅するという、念仏を罪の軽重と秤にかけて、称えるという心得違いの念仏について、親鸞聖人の教えを、まったくはきちがえた念仏であり、自力の念仏そのものであると、唯円は厳しく戒めています。
 そして「まことの念仏というのは、弥陀の光明に照らされて、一念の念仏を賜った時、そのとき既に金剛の信心を賜ったのだから、かならず浄土に生れさせていただける正定聚という位に定まり、命終すれば、
もろもろの煩悩・悪障は転じて悟りの境地をたまわるのだから、一念だ十念だと、念仏の数にこだわる自力の念仏に悩まされることなく、まことの信心をいただいた上での一念の念仏には
無限の功徳があり、さらにその後の一生の間に称える念仏は、みなことごとく、このような金剛の信心を賜った如来大悲へのご恩報じ、すなわち報謝の念仏とうけとるべきなのだ。」と、親鸞聖人の
教えに基づく正しい念仏のあり方を説いています。それにしても、ここで我々は、自力の念仏は、なぜ無効なのかということを、あらためて考えさせられます。念仏に限らず、何事も自力の行ということがらは
我々一人ひとりが、現実の事柄を解決するためにはなくてはならないものです。現代では、さらに、その解決をがむしゃらな自力で解決するのではなく、科学的に因果関係を解明して解決するべきであると
よく言われます。まことにそのとおりで、この世で起こるもろもろの事柄の解決のためには、無思慮や迷信にたよることなく、合理的、科学的に解決すべきなのだと。まことにそのとおりで、この世におこる事柄
の解決は、自力の限りを尽くし、科学的に解決せねばなりません。この世に起こる問題の解決には、ゆめゆめ、この事柄をおろそかにすべきではありません。
 しかし、つぎのような事柄を考える時、科学的思考は役に立つでしょうか。
たとえば、上のような、もろもろの事柄が起こっている「世界」そのものがある意味は何か?、このことは当然、その「世界」で生きている、我々「人間」の生きている意味は一体何なのか?このわずか2つを
とりあげてみても、科学はそのことに対して答えを与えてくれるでしょうか。科学はいいます。「世界」が有ることの意味に答える?「人間の生きている意味」について考える? それは科学の役目柄ではない
科学は「世界」が有ることから出発するのであって、有ること事態はこれは自明のこと、すなわち、公理なのだと。「その意味を考えることこそ、科学にとっては無意味なのだ」と。そのように答えるでしょう。
「人間が生きる意味、ここにこうして生きている意味」これについても同じです。科学は人間が生きている、この事実から出発するのであって、なぜ生きているか、そのこと事態は問わない。そのようなことは、それぞれ
それを考える人が、それぞれの都合に会うように考えてください。と云うかも知れません。実は宗教はこの科学が答えない。すなわち答えるべき対象としない事柄、人生でいえば、人生でおこる諸々の事柄
ではなく(このことの解決は科学に任せて) 、この人生そのものの意味を問う、生きているそのこと自体の意味を問う。これが宗教の宗教たるところではないでしょうか。だから、人生の意味を問う、私の生きている意味を問う、これには自力の念仏は無効なのです。いかに自力の限りを尽くして、念仏して人生の意味、生きる意味を問おうとしても、自力の念仏は、それに答えてはくれないでしょう。ではどうすればよいか、端的にはどうにもしようはありません。すなわち自力ではどうにもし様がありません。では、どうなのか?
道元はいいます。「ただわが身をも心をも、放ち忘れて仏の家に投げ入れて仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして・・・」と。
親鸞ならばこういうでしょう「ただ仏の本願ままに、ただただ、いただいたる信心により、いただいたる念仏を称えるばかり」と。 ここにこそ、他力念仏の真実があるのではないでしょうか
 

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                   

◎今月の言葉(2010年6月)

歎異抄(第十五条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十五条」
   煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もってのほかのことにさふらう。
 即身成仏(そくしんじょうぶつ)は、真言秘教(しんごんひけう) 本意(ほんい)三蜜行業(さんみつぎょうごう) 証果(しょうくわ)なり。六根清浄(ろっこんしょうじょう )は、また、法花一乗(ほっけいちじょう)の所説、四安楽( しあんらく)の行の感徳(かんとく)なり。これみな、難行上根( なんぎょうじょうこん)のつとめ、観念成就(かんねんじょうじゅ)のさとりなり。 来生(らいしょう)開覚(かいかく)は、 他力浄土の宗旨、信心決定(しんじんけつじょう)通故(つうこ )なり。これまた、易行下根(いぎょうげこん)のととめ、不簡善悪( ふけんぜんまく)の法なり。
 おほよそ、今生においては、煩悩・悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法花を行ずる浄侶(じょうろ) なをもって、順次生(じゅんじしょう)のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行( かいぎょう)惠解(えげ)ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、 生死(しょうじ)の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性( ほっしょう)覚月(かくげつ)すみやかにあらはれて、 尽十方(じんじっぽう)の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益(りやく )せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。
 この身をもってさとりをひらくとさふらうなるひとは、釈尊のごとく、種々の応化(おうげ) (しん)をも現じ、三十二相・八十随形好(ずいぎょうこう) をも具足して、説法利益(りやく)さふらうにや。これこそ、今生にさとりをひらく( ほん)とはまふしさふらへ。「和讃」にいはく、「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護( しんこうせふご)して、ながく生死(しょうじ)をへだてける」とはさふらうは、 信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく、生死をばへだてさふらうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。 あはれにさふらうをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひさふらうぞ」とこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか。

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[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注および中村元著『仏教語辞典』より   
・即身成仏:この身のままでさとりをひらき仏になること。
・真言秘教:空海が開いた真言宗の教え。
・三蜜行業の証果:行者が身密と口密(くみつ)と心密の三種の秘密のはたらきによって
 仏と一体になりこの身のままで仏になること。
・六根清浄:眼、耳、鼻、舌、身、意(心)を清らかにすること。
・法花一乗:『法華経』に説く一仏乗(すべてのものを仏にする)の教え。最澄が開いた
 天台宗の教えのこと。
・四安楽:心身を安楽にさせる四つの行。身安楽行、口安楽行、意安楽行、誓願安楽行で、
 心口意のはたらきにおいてあやまちを離れ、衆生をさとりに導く誓願をおこすこと。
・感徳:修行の結果として得る功徳。
・上根:能力がすぐれている。
・観念成就:心を落ちつけて、さとりをひらくこと。
・来生の開覚:来世に浄土でさとりを開くこと。
・通故:道なるがゆえ
・易行下根のつとめ:能力の劣った人の修するやさしい行
・不簡善悪:善人と悪人の区別をしないこと。
・法花:法華
・浄侶:立派な僧侶
・順次生:次の生、つまり死後
・戒行・惠解:戒律を守り、智慧をはたらかせて仏法を理解すること
・報土:浄土のこと
・法性の覚月:法性は真如(さとり)のことで、さとりを清く澄んだ月にたとえる。
・一味:同じ(同じ状態)
・応化の身:阿弥陀如来が衆生を救うために姿を変えてあらわれること
・三十二相・八十随形好:仏のもっている三十二と八十の身体的な特徴。
・弥陀の心光摂護して:仏の慈悲の光が念仏者を護って。
・浄土真宗:「浄土真宗」という宗派のことでは勿論なく、
 浄土に往生するための真実の教え




【HP作成者感想】
 第十五条の大略を述べますと
(1)煩悩具足の身をもって、真言密教でいう即身成仏のようなさとりを開くことはもってのほかである。これらはみな難行上根の人が特別の修行で達成するものである。
(2)それらに対して、来生すなわち死後に浄土に往生してさとりをひらくのが他力浄土文の教えであり、信心決定(しんじんけつじょう)の道なのである。
(3)これはまた、自らは何のさとりへの修行も出来ない、念仏という易行しかできない下根のものができることであり、善人・悪人を問わず救おうとする仏法なのである。
(4)今生において、煩悩・悪障を断ずることは大変難しいことで、真言・法華など即身成仏を宗旨とする高僧でも、現生(  げんしょう)でさとりを得ることはまことに困難なことなので順次生すなわち死後の浄土往生を祈るほどである。
(5)ましてや戒律を守ったり、仏法の智慧をはたらかせたりすることが全く無い凡夫のわれわれには現生でさとりなどということは無理なことである。
(6)しかし念仏を称え、本願の導きによって生死の苦海をわたり、来生でお浄土にうまれることができれば、仏の光明と一味となり、一切の衆生を利益することが できるようになってこそさとりを開いたといえるだろう。
(7)この身、このままでさとりを開くことが出来るという人は、釈尊のように三十二相・八十随形好といった仏の特徴を身をもって示し衆生を利益するということではないか、  そんなことは、われわれ凡夫にはありえないことだ。
(8)信心が定まれば、仏は必ず救いの手をさしのべられ、死ねば六道に輪廻して生まれかわり死にかわりをすることなく生死の苦海からはなれ浄土に往生することが約束される。
(9)とはいうものの、このことを指してさとると云いまぎらかすのだろうか、まことにあわれにもまちがった受取り方だ。
(10)「浄土に往生する真実の教えは、今生に本願を信じて、かの土に至ってさとりをひらくことだ」と亡くなられた親鸞聖人が云われている。

唯円はこの第十五条で以上のように述べて、そのころ弟子の間で、ひそかにいわれていた、親鸞の教えは現生でさとりをひらくことだということを厳しく戒めています。
 しかし、私は、若い頃の思い出として、歎異鈔を、この第十五条の最後の部分「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひさふらうぞ」とこそ、故聖人の おほせにはさふらひしか。という部分まで読んで、がっかりして、本を閉じてしまったことを思い出します。「そうか、やっぱり、親鸞の教えでも、この生死を抱えた人間の問題の 解決は、死んでからでないと達成できないのか」とするならば「死んでからの解決を約束する仏の本願すらも信じられないではないか」といった思いでありました。今から思いますに ずいぶん自力に走った本願の受取り方だったと思います。しかし、その後、親鸞聖人の末燈鈔など、御消息を読むにつれ、現生正定聚をいうことを親鸞聖人は、晩年において 特に強調されていることをうかがい、気を取り直し、現在に至っている私であるともいえます。正直言いまして、この不浄造悪の身でもって、さとりをひらくなどということは とても思えるものではありません。しかし、さりとて、第十五条における唯円のように、「今生に本願を信じて、かの土(ここで唯円は明らかに死後の浄土を指している)にして さとりをばひらくとならひさふらうぞ」とこそ故聖人もおほせになっていたと、いとも断定的にいわれては、現生における信心の喜びも、その信心の喜びの根源である本願も色あせた ものになり、とても信ずることができません。そのような信心も本願もみな自力で承知するものではなく、与えられたものととらえるべきで、ただ信じる、ただ念仏こそ大切 である、という言い方もあるかもしれませんが、そのようにいわれても、私のような凡夫では、いったいそれはいつのことなのか、死んでからのことなのか、ということになり まだ死んだこともなく、死んだ後、帰ってきた人もないわけですから、ただただ本願を信じ念仏するということも私にとってはとても納得できないことでありました。  そうこうするうちに、親鸞聖人の和讃の中にある
  信心よろこぶ そのひとを
  ほとけとひとしと ときたまふ
  大信心は仏性なり、
 仏性すなわち如来なり

あるいは

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
  有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

など。

さらには妙好人才市翁の

さいちがごくらく、どこにある
心にみちて身にみちて、
なむあみだぶが、わしのごくらく

しゃばせかいわ、ここのこと
ごくらくせかいも、ここのこと
これわ、めのまくぎりを、ゆうこと
(目の幕切り、目の開閉の一瞬)

さいちやどこにねてをるか
しゃばの浄土にねてをるよ
をこされて、まいる、みだの浄土に

 これら親鸞聖人が創られたであろう和讃や島根県の温泉津の下駄職人、浅原才市翁がつくられた宗教詩を読むと、この人たちは現に生きている内に、信心の内に仏の予感・浄土の予感をまざまざと 懐いていたことがわかります。  なるほど、私たちは、まことに自らの依って立つところもわからない、なぜ自分がここに居るのかも定かではない、自らの生きている意味さえわからない存在であり、日々休む暇なく煩悩のとりこになって生きている存在です。いかに思考をめぐらそうと、いかなる修行をしようと、慈光隈なくあらゆる衆生を照らす 無限の能力をもった仏のさとりなど金輪際無いわけですが、しかし上の和讃や詩の中には、我々の存在が唯円が、その師から聞いたという「今生に本願を信じて、 死後にいたってはじめてさとりをひらく」という単純な構図ではないのではないかと思われるのです。この事柄は、まことに深遠な意味を持っており、このような紙面だけで おいそれと論ずるようなことがらではないのは勿論です。生涯かけて日常生活の中で悩み、苦しみ、反芻して、はじめて、生と死の関係、今生と浄土とのつながり、凡夫と仏の関係を 味わい生きて行くことであろうと思われます。
 

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                                                                                         

◎今月の言葉(2010年7月)

歎異抄(第十六条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十六条」
 信心の行者、自然(じねん)にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋・同侶 (トウホウ どうりょ)にもあひて口論をもしては、かならず廻心(えしん )すべしといふこと。この条、断悪修善(だんあくしゅぜん)のここちか。
 一向専修(いっこうせんじゅ)のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ、本願他力真宗を知らざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。
 一切の事に、あした・ゆふべに廻心して、往生をとげさふらうべくは、ひとのいのちは、いづるいき、いるほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和 (ニウワ)忍辱(にんにく)のおもひにも住せざらんさきに、いのちつきば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおはしますべきにや。
 くちには、願力(ぐわんりき) をたのみたてまつるといひて、こころには、さこそ、悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすが、よからんものをこそ、たすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまひらするこころかけて、辺地(へんぢ) (しょう)をうけんこと、もっともなげきおもひたまふべきことなり。
 信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ、願力をあをぎまひらせば、自然のことはりにて、柔和・忍辱のこころもいでくべし。すべて、よろづのことにつけて、往生には、かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと、弥陀の御恩の深重(しんじゅう) なること、つねはおもひいだしまひらすべし。しかれば、念仏もまふされさふらう。これ、すなはち、他力にてまします。しかるを、自然といふことの、別にあるやうに、われものしりがほにいふひとのさふらうよし、うけたまはる。あさましくさふらう。

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[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注および中村元著『仏教語辞典』より   
*自然に:おのずから
*同朋・同侶 :同じ教えを信ずる仲間
*廻心:心を改める
*断悪修善のここちか:自力で悪を断ち、善を修行しようとするはからいいであるよ
*一向専修:もっぱら念仏をとなえること
*本願他力真宗:阿弥陀仏の本願によって救われる真実の教え
*柔和・忍辱:どんなはずかしめにも堪える、やすらかで落ち着いた心
*願力:阿弥陀仏の本願力
*さこそ:そのように
*さすが:そうはいうものの
*辺地の生:浄土のかたほとりにある辺地、化土に生を受けること。
*かしこきおもひ:自力の賢い考え。



【HP作成者感想】
 信心の行者のあいだで、煩悩のわざわいで、腹をたてたり、同朋・同侶と口論したり、ちょっとしたあやまちをおこしたりしては、その都度、廻心をしなければならないというような考えが親鸞の教えを行ずる人々の中の一部にあったようですが、このようなことは全くのまちがいで、それこそ自力で悪を断ち、善を修行して救われようという間違った考えであることを唯円は指摘しています。親鸞の教えをしっかり聞けば、このような考えは、結局、弥陀の救いにあずかるためには善行功徳が必要という、自力修善の行であることがすぐわかるはずなのですが多くの人々の中には、そのような自力の考えを持つ人がやはりいたのでしょう。
 廻心というのは、そんなに軽々しく何回も起こるものではなく、生涯で唯一度、そしてこれによって、金剛不壊の信心がいただけるのだと、唯円は言います。まったくそのとおりで、たとえば法然の廻心は比叡山の延暦寺で、万巻の書を読んでも、自己の生死出ずべき道あるいは万人が平等に救われるという大乗仏教の真髄がどうしても自らの身につかず、悲歎のどん底にくれていたところが善導の観無量寿経疏に接することによって廻心し称名念仏の生涯をおくりました。また、親鸞も比叡山での生死いづべき道の模索に絶望していた時に法然の専修念仏のあることを知り、95日の六角堂における参籠、その後の吉水の法然のもとへ、また百日かようことによって、法然上人のいかれるところであれば例えそれが地獄であってもついてくという強烈な廻心の体験をし生涯を念仏広布にささげました。このように生涯一度の廻心をまことの廻心というのでしょう。また、これらの廻心にめぐり遇うのは、決して自らの力によるものではなく、すべて他力によって阿弥陀仏の本願のもとに与えられるものであることも唯円は力説しています。
 ここで私自身のささやかな廻心の体験を申し上げれば、私の場合は、2度ありました。30歳になるかならぬかの頃、自らの仕事に行き詰まり、鬱々として、仕事もずる休みとなり、絶望の淵をさまよっていたころ、それでも、仕事に行かねばとの切迫感から職場に向う道すがら、ある駅で、もうどのようにあがいても活路はみいだせないことから、それまでに明治のキリスト者内村鑑三のことばに惹かれるものをもっていましたので、いっそすべてを神のみこころのままにとの思いが湧くと同時に“なるようになる”との思いで、こころが軽くなったことを覚えています。そのまま進めば、私は少なくとも無教会派のクリスチャンになっていたかもしれないのですが、どうも、キリストの復活、十字架の贖いのことが受け入れられず日々を経過して数年の後、本多顕彰氏がカッパブックスに著わされていた新書「歎異抄入門」にめぐり遇い、その中で明治の浄土真宗の僧侶で、清沢満之師の「我が信念」の中から本多氏が引用されている文章「私が如来を信ずるのは、私の知恵の究極であるのである。少しく真面目になり来たりてからは、どうも人生の意義について研究せずにはいられないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると言うところに到達して、ここに如来を信ずると言うことが惹起したのであります。」「如来は、私に対する無限の力である。かくして私の信念は、無限の慈悲と、無限の知恵と、無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なるが故に、信念確定のその時より、如来は、私をしてただちに平穏と安楽とを得しめたもう。・・・これは私が毎日毎夜に実験しつつあるところの幸福である。来世の幸福のことは、私は、まだ実験しないことであるから、ここに陳(の)ぶることはできぬ。」 以上、本多顕彰氏が引用されている「我が信念」における清沢満之のことばを読み、まさに電光の如く、これらの言葉は、私の全身全霊を貫いたのでした。それ以後、私は「我が信念」以外の彼の文章、例えば、「絶対他力の大道」「他力の救済」を読むにいたって、ますます、彼への信は深まり、76歳になった、今現在まで彼のことばの真実を疑えぬものになりました。 私の場合、以上のことを振り返りますと、30歳になるかならずの「神のみこころのままに」と自らの力を投げ出してしまったあの駅のホームでの体験、そして清沢満之の「我が信念」の文章にめぐりあった、あの全身を貫く感動。これらは2つではありますが、2つにして1つ、私にはただ1回の宗教的な目覚めの体験と言えるのです。
 私はこの清澤のことばによって、虚心平気とまではいかずとも、少なくとも私自身の生について、そして私自身の死について、煩悩のままで、なんとか納得の気持ちが与えられたように思います。       

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                                                                                         


◎今月の言葉(2010年8月)

歎異抄(第十七条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十七条」
 辺地往生(へんちおうじょう)をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この条、なにの証文にみへさふらうぞや。学生(がくしょう)だつるひとのなかに、いひいださるることにてさふらうなるこそ、あさましくさふらへ。経論・正教(しょうぎょう) をば、いかやうにみなされてさふらうらん。
 信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生じて、うたがひのつみをつぐのひてのち、報土(ほうど )のさとりをひらくとこそ、うけたまはりさふらへ。
 信心の行者すくなきゆへに、化土(けど)におほくすすめいれられさふらうを、つゐにむな しくなるべしとさふらうなるこそ、如来に虚妄(こもう)をまふしつけまひらせられさふらうなれ。


[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注および中村元著『仏教語辞典』より   
*辺地往生:浄土のかたほとりに往生すること。
       仏智疑惑の行者がこの辺地に往生する。
*経論・正教:経典やその注釈    *信心かけたる行者:信心欠けたる行者
*つぐのひて:つぐなって        *報土:阿弥陀仏の浄土
*化土:仮の浄土            *虚妄:うそいつわり
*如来に虚妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ:
 釈迦如来にむかい、うそいつわりを言われたと申し付けておられることになるのです。

【HP作成者感想】
 この比較的短い第十七条は、要するに、そのころ関東の一部で「辺地往生をとげるひとは、最後には地獄におちるのだ」といわれていることがらの教義上の間違いを厳しく指摘していることに尽きます。
 この「辺地往生」ということがらは大無量寿経の巻下の最後に近いあたりで、釈尊が弥勒菩薩に説いておられる事柄で、「明らかに仏智の不思議を信じ、まことの信心をもって往生を願う人びと」は、たちまち七宝の蓮華の中に端座して自然に真実浄土に生まれ仏となるのに対して、「仏を信じることができない者」は500年の間、少しも仏を拝むことができず、仏の教えを聞くこともできず、聖者たちを見ることもできない疑城胎宮という辺地にとじおめられ、正しく真実の浄土に生れて仏を拝することもできない。」これを辺地往生というのでしょう。
 しかしまた、大無量寿経で釈尊は、この疑城胎宮にいる間に、この疑いが間違いであることを悔いれば、たちどころに真実の浄土にうまれることができると説かれています。
 ところで、この釈尊が大無量寿経で説かれている、この辺地往生ということを、現代のわれわれはどう受け取るべきなのでしょうか。私はこのことを、現実生活における信心の有りようを
言っているのではないかと思うのです。すなわち真実信心をいただければ、やがて仏と一体になれるという確信もでき彼土における浄土往生も確信できそうですが、真実信心をいただくことは現実感覚旺盛なわれわれには、実際の問題としてなかなかの困難、これを正信偈では、難中之難無過斯(難中の難、これに過ぎたるはなし)といわれています。ですから、このように信を疑う人は実際にはたくさんいることになります。このような真実信心にたいする疑いをもって死んでいかねばならないのは、ある意味で、永遠の無に陥る無間地獄に落ちるというふうにも考えられそうです。これは困ったことになりました。
 しかし、しかしこの心配はなさそうです。すなわち、信心をいただいた者も、信心を疑いながら死んでいった者も、いずれも仏と一体となるのですから。仏と一体となる場所は浄土しかないのですから。信、不信を問わず、念仏を唱える人は浄土往生をすると説いた一遍上人が思い出されます。ただ真実信心を幸いにもいただいた人は、生きているうちから、浄土往生を確信できるのに対して、死ぬまで疑城胎宮にとどまってしまった人は死に対する大きな不安をもって命終しなければならないでしょう、しかし命終の後は信も不信も必ず仏と一体となった同じ浄土にいることになるのだと私は確信します。でないと死ぬまで辺地にとどまる人がたとえいたとして、その人たちはいったいどこに往けばいいのでしょうか。命終の後は、信も不信も仏と一体となる浄土以外に往きようがないはずです。なぜなら、わたしたちの存在の根底こそ仏と一体となった浄土なのですから。したがって、無間地獄はあくまでも煩悩が描く、世界でしか有りようがありません。
 以上、第十七条は、短い文章ではありますが、わたしたちの往生浄土について大変重要な事柄を述べていることになります。そして、これを現代的にこの世で起こることとしてとらえて
はじめて納得がいくように思うのです。

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                                                                                         


◎今月の言葉(2010年9月)

歎異抄(第十八条)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「第十八条」
 仏法のかたに、施入物(せにゅうもつ)の多少にしたがって、大・小( ぶつ)になるべしといふこと。この条、不可説(ふかせつ)なり、不可説なり。 比興(ひきょう)のことなり。
 まづ、仏に大・小の分量をさだめんこと、あるべからずさふらうか。かの、安養(あんにょう)浄土の教主の 御身量(ごしんりょう)をとかれてさふらうも、それは、方便報身( ほうべんほうじん)のかたちなり。法性(ほっしょう)のさとりをひらひて 長短方円(ちょうたんほうえん)のかたちにもあらず、( しょう)(おう)(しゃく )(びやく)(こく) のいろをもはなれなば、なにをもってか、大小をさだだむべきや。念仏まふすに、化仏(けぶつ)をみたてまつるといふことのさふらうなるこそ、大念(たいねむ)には大仏をみ、小念には小仏をみるといへるか、もし、このことはりなんどにばし、ひきかけられさふらうやらん。
 かつは、また、檀波羅蜜(だんばらみつ)の行ともいひつべし。いかに、たからものを仏前になげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その(せん)なし。一紙・半銭( いっし はんせん)も仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくは、それこそ願の本意にてさふらはめ。すべて、仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋(どうホウ)をいひをどさるるにや。 <


[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注および中村元著『仏教語辞典』より   
*仏法のかた:仏法にたずさわる道場や道場主
*施入物:布施として納める金品
*大・小仏:大きい仏と小さい仏
*不可説なり不可説なり:言うべからざるとんでもないことである。
*比興のこと:道理にあわないこと
*安養浄土の教主:阿弥陀仏のこと
*御身量:阿弥陀仏の身長
*方便報身:阿弥陀仏の仮の姿。
*法性:仏の本性。
*化仏:衆生を救うために相手に応じていろいろな姿を現す仏。
*もし、このことわりなんどにばしひきかけられさふらうやらん
 :もしかして、この事柄などにでもや、関係づけているのでありましょうか
  :「ばし」は語勢を強める助詞
*檀波羅蜜の行:仏典にある「布施の行」
*いひつべし:いうこともできよう
*信心かけなば:信心欠けなば
*ことよせて:かこつけて

【HP作成者感想】
 自分が参加している宗教的集団において、その道場や道場主に施入する金品の 大小によって、浄土に往生すれば大きな仏になったり、小さな仏になったりするという、考え方がが唯円の頃の関東の念仏集団の中であったのでしょうか。およそ、現代の宗教的感覚では、 まことに幼稚であるとしかいいようのないことです。・・いや、待ってください、現代でも神社仏閣にお賽銭をあげるときに、百円玉ひとつのときと千円札や、時には万札を上げるときに心の中で、いささかその違いを意識することはないでしょうか。それによって御利益の大小をひそかに値踏みしているというのは、現代にもありそうです。
 唯円はこのような行為をきびしく批判しています。まことの信心をいただいた慶びににもとづいて 布施するという真実信心の行為とあまりにも隔たっているからです。現代の現実社会でもよく話題になる“贈収賄”の行為、これはなかなか効果があるので、法律で大きなものは禁止されていますが 小さなものは、よくあるでしょう。これと、効果をあてにした宗教的施入行為とを同じ俎板に乗せるのはいけないでしょうか。どちらも“効果を当てにしている”ことには変わりがないでしょう。  しかし、このように言い切って第三者顔をしてるのもいやなものですね。実際に信心が個人の事柄の内は、そうではなくても、信心集団になるとなんらかの現世における運営上の経済的必要性 が出てきて、その中には、施入物をあてにする指導者や、それによって自らの立場を強めようとする構成員もでてくるのではないでしょうか。すなわちそのような施入行為が、信心や信仰のよろこびに もとづく仏典上の布施の行為といいきれないものが、現代においてもあるのではないでしょうか。しかしまた、一方で、信心が個人の内での反芻におわったら真実の宗教的実存は成り立たないでしょう。 人びとと共に、大乗的に歩むのが真実の大乗仏教でもあります。この点をこころに懸け自らをいましめることがこの第十八条から教えられることではないでしょうか。

〔今月はこれで終わります。〕

                                                                                                                                                                         

◎今月の言葉(2010年10月)

歎異抄(後記ー1)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「後記ー1」
 右条々は、みなもって、信心のことなるより、ことおこりさふらうか。
 故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、 御相論のことさふらひけり。そのゆへは、「善信(ぜんしん)が信心も、聖人の御信心も、 ひとつなり」とおほせのさふらひければ、勢観房(せいくわんぼう)念仏房(ねんぶつぼう)なんどまふす御同朋達、もってのほかにあらそひたまひて、 「いかでか、聖人の御信心に、善信房の信心、ひとつにはあるべきぞ」とさふらひければ、「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、 (ヒトツ)ならんとまふさばこそ、ひがごとならめ、往生の信心においては、まったく、ことなることなし、 ただひとつなり」と御返答ありけれども、なを、「いかでかその義あらん」といふ疑難(ぎなん) ありければ、(セン)ずるところ、聖人の御まへにて、自他の是非をさだむべきにて、 この子細をまふしあげければ、法然聖人のおほせには、「源空(げんくう)が信心も 、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり、されば、ただひとつなり。別の信心にておはしまさんひとは、 源空がまひらんずる浄土へは、よもまひらせたまひさふらふはじ」とおほせさふらひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ 御こともさふらうらんとおぼへさふらふ。いづれも、いづれも、くりごとにてさふらへども、かきつけさふらうなり。

[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注、中村元著『仏教語辞典』、および<br>
『千葉乗隆訳注 現代語訳付 「新版 歎異抄」現代訳部分参照結果』より。   
*御弟子そのかずおはしけるなかに、:お弟子が多数おられましたが、
*おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、:法然聖人と同じ信心の人はすこししかおられませんでしたのか、
*源空がまひらんずる浄土:源空(法然)が参らせていただく浄土
*当時:現在=唯円が今直面している現在

【HP作成者感想】
 今月から、歎異抄最後の長文である「後記」に入らせていただきました。さて、一度にこの全文を取り上げるには、その文章の長さのために消化不良におちいることも考え、 前から約三分の一弱の部分について私の及ぶ限りの力で味あわせていただくことにしました。
 この段落で唯円は「いづれも、いづれも、くりごとにてさふらへども、」と云っていますが、決してくりごとではない、信心の根本を述べた大変重要な部分であると思いました。まず言えることは、 善信(ぜんしん)が信心も、聖人の御信心も、 ひとつなり」と主張する善信房(親鸞)に対して、「もってのほか」といきまく 勢観房・念仏房などの御同朋は、信心とは関係のない、目下が目上に対して失礼だとか、弟子が師匠に対して不遜だとかといった、世俗の観点からのみの論争にしてしまっていることです。 このように信心の問題を単なる世俗の観点のみから見ることは、宗教を病気快癒とか、家内安全、商売繁盛など世俗の利益の手段とするものと見る見方と共通しています。
 上のような考え方が間違った受け取り方であるというのは、とりもなおさず、真実の宗教、真実の信心とは、まさしく“生死出ずべき道”すなわち、人間を生死の不条理から救い上げようとするいとなみに ほかならないと考えるからです。更に、その延長で考えられることは、真実の宗教は社会改革を目的にするものでもなければ、慈善事業を推進することでもないと思うのです。キリスト教の立場で言えば、 パウロの「もはや、我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」ということであり、このことは善信房の「善信が信心も、聖人の御信心も、ひとつなり」との主張とぴったり一致します。その意味で 真実の宗教の底に流れるものは、一つ、すなわち“生死出ずべき道”の体現であると思うのです。

〔今月はこれで終わります。〕



◎今月の言葉(2010年11月)

歎異抄(後記ー2)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「後記ー2」
 露命(ろめい)わづかに、枯草(コサウ)の身にかかりてさふらうほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと、御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをも、まふしきかせまひらせさふらへども、閉眼 (へいがん)ののちは、さこそ、しどけなきことどもにてさふらはんずらめと、なげき存じさふらひて、かくのごとくの義ども、おほせられあひさふらうひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることのさふらはんときは、故聖人の御こころにあひかなひて、御もちゐさふらう御聖教(おんしようぎょう )どもを、よくよく御らんさふらうべし。おほよそ、聖教には、真実・権仮(ごんけ)、ともにあひまじはりさふらうなり。権をすてて実をとり、()をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。 かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじくさふらう。
 大切の証文ども、少々ぬきいでまひらせさふらうて、()やすにして、この書にそえまひらせてさふらうなり。
 聖人のつねのおほせには、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆゐ)の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人 (いちにん)がためなりけり、されば、それほどの(ごふ) をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐(ごじゅくわい)さふらひしことを、 いままた案ずるに、善導(ぜんだう)の「自身は、これ、現に、罪悪生死の凡夫、曠劫( くわうごふ)よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転(るてん)して、 出離(しゅつり)の縁あることなき身としれ」といふ金言(キムゲン )に、すこしもたがはせおはしまさず。
 されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。

[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注、『千葉乗隆訳注 現代語訳付 「新版 歎異抄」現代訳部分参照結果』
および 中村元著『仏教語辞典』、より。   
*露命:露のようにはかない命
*枯草:底本の左訓に「カレタルクサ」とある。
*あひともなはしめたまふひとびと:ともに念仏の道を歩まれる方たち
*御不審:疑問
*閉眼:死ぬこと
*さこそ:さぞかし
*しどけなきことども:しまりがないこと。ここでは異義がはびこることをいう。
*ずらめ:だろう
*かくのごとくの義ども*いままで述べた異議
*おほせられあひ:言い合い。言い争い。
*いひまよはされんなんど:言いまどわされるなど
*御聖教:ここでは聖覚の「唯信鈔」、隆寛の「自力他力事」「後世物語」などをさす
*真実・権仮:真実と方便:真実の教えと真実の教えにみちびくための手立てとなる教え
*かまへてかまへて:よくよく注意して
*みだらせたまうまじく:教えを乱れさせないように
*大切の証文ども:大切な証拠となる親鸞聖人のことば
*目やす:基準
*五劫思惟の願:五劫という長い間の思案の末に建立された衆生救済の願い
*業:ここでは、悪業、惑いの行い
*曠劫:遠い昔
*出離の縁:迷いの世界から離れる手がかり
*ひきかけて:引き合いに出して
【HP作成者感想】
 今月は先月に引き続いて歎異抄「後序」のなかの文章です。特にここでは親鸞聖人のことばとされる「弥陀の五劫思惟( ごこうしゆゐ)の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人(いちにん) がためなりけり、されば、それほどの(ごふ) をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という部分を中心に考えてみたいと思います。
 このことばについては、昭和38年8月の「中外日報」に掲載されたといわれる、有名なドイツの哲学者ハイデッガーが、この「親鸞一人がためなりけり。」ということばに大変な感銘を受けたといったことがよく言われていますが、私が、ここで言いたいのは、そのことではなく「親鸞一人がためなりけり。」と言われた親鸞聖人の言葉と、弥陀の本願の関係のことなのです。親鸞聖人はどのように、この“弥陀の本願”をうけとっておられたのだろうかということの答えが、この「親鸞一人がためなりけり」という言葉にあるように思うのです。親鸞聖人の信心の骨子は弥陀の本願であります。そして、その骨子となる弥陀の本願は仏説無量寿経(大無量寿経)のなかに、法蔵菩薩の五劫思惟の深い思案の末の衆生救済の誓いとして述べられているものであります。親鸞聖人やその師の法然聖人の生きられた鎌倉時代にはお経に対する尊崇の念は現代に比べてはるかに強いものがあったといわれています。ところで法然上人や親鸞聖人は、この衆生救済の本願が無量寿経といわれるお経の中に書かれているから、そのことだけで一も二もなく信じられたのでしょうか。私はそうではないと思っています。その理由を申し上げます。親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟( ごこうしゆゐ)の願をよくよく案ずれば、ひとへに、親鸞一人(いちにん) がためなりけり。」といわれましたが、法蔵菩薩が発願され、それを完成するための幾多の尊い修行の末に成就され、阿弥陀如来となられた四十八願の その中で、最も重視される第十八願の主要部分は「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんおもひて乃至十念せん。もし生まれずば正覚を取らじ」となっています。すなわち、弥陀の救いの対象は十方の衆生なのです。あらゆる衆生なのです。しかるに親鸞聖人はここで「親鸞一人がためなりけり」と述懐されています。すなわち、親鸞聖人は十方の衆生を救済の対象とする第十八願をそのままではなく、親鸞一人がためなりけりと受け取られています。ここには親鸞聖人の深い信心と思索の結晶があるのでしょう。すなわちここでいえることは、たとえお経に対する尊崇の念がこよなく強くとも、親鸞聖人は、弥陀の本願を、お経のままに受け取られたのではなく、自らの血の出るような生死出ずべき道をもとめる欣求浄土の願いを通して、他力による救いとして受け取られたのだと思います。すなわちお経にそれが書いてあるからというだけで、こよなくこれを信じておられたのではなかった。親鸞聖人は、やはり根源的には自己の有限のいのちを振り返り、生死出ずべき道である自己の実存を求めるこのうえなく強烈な日常の精神活動を元として、弥陀の本願に対されたとき、そこに自力の計らいではとても及びもつかない弥陀のこの上なき慈悲を感じられたのだと思います。それなればこそ、 800年の親鸞思想の歴史を形作る、聖人の自力をはなれた強い他力の信心が形成されたと考えるのですがいかがでしょうか。  そして更にいうなれば、この本願への強い帰依は、なによりも「親鸞一人」から始まる上のことばの後半で、「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と述懐されていることです。すなわち、本願への信の根底に、自己のこの上なき現実生活における罪業に対する強烈な自覚があったことです。すなわち、本願の信のよろこびと自己のこの上なき罪業の自覚とは表裏一体として、親鸞聖人の強烈にして深い信心を形成していることであります。このことも、親鸞聖人が弥陀の本願を、単に無量寿経に書いてあるからと言う理由だけで信じておられたのでは決してないということを物語っていることになるのではないでしょうか。

〔今月はこれで終わります。〕


◎今月の言葉(2010年12月)

歎異抄(後記ー3)


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


「後記ー3」
 まことに、如来の御恩といふことをば、さたなくして、われもひとも、よし・あしといふことをのみまふあへり。
聖人のおほせには、「善悪のふたつ、惣じてもって存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころに、よしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、 如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常(かたくむじょう )の世界は、よろずのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ、おほせはさふらひしか。
 まことに、われも、ひとも、そらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとつ、いたましきことのさふらうなり。そのゆへは、念仏まふすについて、信心のおもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論(さうろん)をたたんがために、まったく、おほせにてなきことをも、おほせとのみまふすこと、あさましくなげき存じさふらうなり。このむねを、よくよくおもひとき、こころえらるべきことにさふらう。
 これ、さらに、わたくしのことばにあらずといへども、経釈(きょうしゃく)のゆくぢもしらず、法文 (ほうもん)浅深(せんじん) をこころえわけたることもさふらはねば、さだめて、おかしきことにてこそさふらはめども、( )親鸞のおほせごとさふらひしおもむき、百分が(ヒトツ)、かたはしばかりをも、おもひいでまひらせて、かきつけさふらうなり。
 かなしきかなや、さひはいに念仏しながら、(じき)に報土にむまれずして、辺地( へんじ)にやどをとらんこと、一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて、これをしるす。なづけて、『歎異抄』といふべし。外見(げけん)あるべからず。

[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注、『千葉乗隆訳注 現代語訳付 「新版 歎異抄」現代訳部分参照結果』
および 中村元著『仏教語辞典』、より。   
*さたなくして: よくよく考えずに
*火宅無常の世界: 火につつまれた家のように、たちまちに変転する世界
*相論をたたんがために: 議論をうちきらんがために。 論争に勝つために。
*おもひとき: 思い解き。 考えて。
*わたくしのことば: 自分勝手なことば。
*ゆくじ: 行く路。筋道。
*かたはし: ほんのすこし。
*直(じき)に: 直接に。
*一室の行者: 同じ念仏者仲間。
*外見(げけん)あるべからず: 他にみせててはならない。

【HP作成者感想】
 本日取り上げる親鸞聖人のことばは、「善悪のふたつ、惣じてもって存知せざるなり」ということばです。現代人が公の場でこのようなことを発言すれば、たちまち、マスコミの非難の的になるでしょう。このことばの意味するところを考えるには、やはり、まずもってこのことばが鎌倉時代の関東の門弟集団の中で、互いに信心のありかたを議論するとき、自分たちの主張を正当化するために、自分たちの主張は正、相手の主張は邪として、しまいには相手の主張を打ち負かすために、親鸞が説いたこともないような説をも、あたかも、親鸞が説いたかのように主張してあさましい論争になっていたことがうかがわれます。ところで、このことは、単に信心のありかたにとどまらず、一般的なことがらについても、議論、争論になれば、われわれは常に、自らは善、相手は悪ときめつけようと、必死になって争います。これは、現代においても全く変らず、人と人との争い、国と国との争いの場合も、常に、自らは善、相手は悪の論理で争われます。このような争いに対して、親鸞聖人は、自らを善とする主張の中に、最大の悪の根源があることを指し示すために「善悪のふたつ、惣じてもって存知せざるなり」といわれたに違いありません。そして、その理由として、われわれ凡夫がきめつける善悪の基準がいかにいいかげんなものか、自分勝手なものかを示し、善を主張することこそが、むしろ最大の悪であることを示すために「煩悩具足の凡夫、 火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と説かれたのだと思うのです。
 しかし、上のような解釈をすると、まず社会生活上の不安をもたれる方が必ず出てきます。そのような善悪の基準で、はたして社会が成り立つのか、善悪の基準が正しく確立されてこそ、健全な社会が成り立つのだ。という主張です。このことは一見大変正しい社会観であるともいえます。これらのことをわれわれはどのように考えればよいのでしょうか。しかし、このように考える人々は、その主張と表裏一体の部分で、自分たちは、あるいは自分は、“善”であるという考えの持ち主であるということです。この己は絶対善であるということのなかに、絶対悪が潜んでいるのだということがいえないでしょうか。このような人々の主張の中に善導大師の深い自省「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」が抜けていることを指摘したいのです。
 また、次のよう場合も考えられます。「善悪のふたつ、惣じてもって存知せず」、悪人こそ弥陀の救いの正客であるという、浄土教の長い歴史の深い思索の成果を逆手にとって、悪はいくら行なってもよいのだと解釈する考え方です。これも一見、成り立つかのような錯覚をおぼえますが、しかし、よくよく考えてみると、このように考える人の心の中には、やはり、自らを善と考え、自らを尊しとする自力の部分があるのではないでしょうか。すなわち、自らは悪を行なうに足るだけの善なる要素があると、どこかで考えているのではないでしょうか。結局、以上のことをつづめて言えば、仏ではないわれわれ凡夫は自らの善を主張するところにこそ悪の要素が潜んでいるのだという自覚こそが必要なのではないでしょうか。そして、「よろずのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」といわれるように、全て弥陀のはたらきにうちまかせて、ただ念仏することの中に日々の営みをいただいていることこそ真実なのではないでしょうか。

〔今月はこれで終わります。〕