★21世紀は前世紀までの物質中心、科学技術中心の考え方が見直される世紀といわれています。
★ところが、21世紀の11年目の今、この世界の情勢は決して穏やかでない深刻な状況を呈しつつあります。
★しかし、それなれば、なおのこと、今こそ、深い精神性をもったこれらのことばを、新しい世紀を築く糧としたいものです。



◎今月の言葉(2011年1月)

流罪記録


−『新版 歎異抄 現代語訳付き 千葉乗隆訳注』による−


後鳥羽院(ごとばいん)御宇(ぎょう)、 法然聖人、他力本願念仏宗を興行(こうぎょう)す。ときに、興福寺の僧侶、敵奏( てきそう)のうへ、御弟子のうち、狼藉子細(ろうぜきしさい) あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数のこと。
一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。聖人(法然)は土佐国幡多(とさ はた) といふ所へ流罪、罪名、藤井元彦(もとひこ)(おのこ) 云々、生年七十六歳なり。親鸞は越後国、罪名、藤井善信(よしざね)云々、生年三十五歳なり。浄聞房 (じょうもんぼう) 備後国。澄西禅光房(ちょうさいぜんこうぼう)  伯耆(ほうき)国。好覚房(こうかくぼう)  伊豆国。行空法本房(ぎょうくうほうほんぼう) 佐渡国。幸西成覚房・善恵房( こうさいじょうかくぼう ぜんゑぼう)二人、同遠流(おんる)に定まる。 然るに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると云々。遠流の人々、已上(いじょう)八人なりと云々。 死罪に行はるる人々、一番 西意善綽房(さいいぜんしゃくぼう)。二番 性願房( しょうがんぼう)。三番 住蓮房(じゅうれんぼう)。 四番 安楽房(あんらくぼう)二位法印尊長(にいほういんそんちょう )沙汰(さた)なり。
親鸞、僧儀を改めて、俗名を賜ふ。よって僧にあらず俗にあらず、しかるあいだ、禿の字をもって姓となして、奏聞(そうもん)()られをはんぬ。かの御申し状、いまに外記庁(げきちょう )に納まると云々。流罪以後、愚禿(ぐとく)親鸞と書かしめたまふなり。

[語註]千葉乗隆訳注『新版 歎異抄』の脚注、『千葉乗隆訳注 現代語訳付 「新版 歎異抄」現代訳部分参照結果』
および 中村元著『仏教語辞典』、より。   
*御宇: 天皇の治め給う御世
*興行: はじめて行なう
*敵奏: 仏敵として奏上
*狼藉仔細: 無謀な振舞いとして言い立てるべき事柄
*無実の風聞: 事実無根のうわさ
*無動寺: 比叡山延暦寺の一院で東塔にあった寺。
*善題大僧正: 慈円(関白九条兼実の弟)のこと
*二位の法印尊長の沙汰なり: 二位の法印尊長の裁定である。
*僧儀: 僧としてのありかた。
*禿: 戒律を守らぬ僧のこと。
*奏聞を経られおわんぬ: 上奏して許されている。
*御申し状: 「禿」と改姓するための朝廷に上申する文書。
*外記庁: 詔勅・上奏文などを起草・記録する役所。

【HP作成者感想】
 いよいよ、歎異抄もこの章で終わることになりました。この「流罪記録」の部分は歎異抄本文とは異なり、後に付け加わった部分だと見られますが、ここから私たちはどのような ことを味わうことができるでしょうか。まず言えることは、
(1)もしこの承元の法難がなかったならば、親鸞には越後や関東での辛酸をなめる生活もなく、従って親鸞の巨大な思想も生まれることなく、そして何よりも、 現代において私たちは親鸞聖人にお遇いすることができなかったのではないかということです。歴史に「もし」はないわけですが、それだけに、この承元の法難の持つ意味は大きい といえます。どのようなことが歴史に光を与えることになるのか、あるいは光を遮ることになるのか、その意味で現代においても日々の生活一つ一つを大切にしなければならないと 思うところです。
(2)つぎに思うことは、親鸞と同じように、当時の日本の各地に流された浄聞房、澄西禅光房、好覚房、行空法本房、の4人は、その後どのように過ごしたのでしょうか、それぞれに 掛替えのない生涯があったはずですが、もう記録にはまったく残っていないのでしょうか。彼らの生涯にもものすごく関心が湧きます。
(3)さらには、勿論、死罪になった4人の人物のことです。おそらく、過激な行動があったでしょうが、それぞれ法然の教えを、精一杯生きた人々であったはずです。これらの人々は もし死罪にならなかったならば、日本文化にどのような影響を与えたでしょうか。思えば、思いの尽きることがありません。
(4)さらには、最も中心人物であった法然聖人の思い、この承元の法難の結果に対する思いは如何ばかりであったでしょうか、みずからの興行による浄土宗の、しかも法然の 生涯かけた思想を精一杯生きた、これらの人々を死罪や流罪に追いやることにもなった、それを思うと悲しみは底知れないものがあったのではないでしょうか。いずれもいずれも、 歴史の中に埋没し、時代は流れ過ぎ去っていきます。なんとも切ないことです。しかし、その中をあまねく照らしている佛の慈悲の光を信じ、日々を生きて行きたいものです。
 以上で、長きにわたった歎異抄味読を終わります。未熟な限りを尽くして申し述べました。ご批判を仰ぎたいと思います。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年2月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−

                                                      

(1)
弥陀成仏(みだじょうぶつ)のこのかたは
  いまに十劫(じっこう)をへたまへり
 法身(ほっしん)光輪(こうりん)きわもなく
 ()盲冥(もうみょう)をてらすなり

『名畑応順師 通訳』
弥陀が成仏されてから、
既に十劫を経て現在し給う
清浄な仏身の光明は遍く暗愚の者を照らされる。
『語義』
*弥陀成仏: 弥陀が本願を成就し仏となる。
*十劫: 劫は梵語、長時と訳する。時間の最大単位
*法身の光輪: 法身は生死の苦を離れた清浄の仏身。光輪は光明を車輪に譬える。
*盲冥: 愚かで智慧の明のないもの 

【HP作成者感想】
 歎異抄では不十分ながら一応、自分の述べたい感想を思い切って述べさせていただきましたが、それに続く親鸞の言葉として、難解ではありますが和文であるところから、この親鸞思想の高峰ともいえる親鸞和讃に、その裾野でもよいから、なんとか取り付き、自らの思うところを述べ味あわせていただければ、これ以上の幸せはないものと思い、今月からとりかからせていただくことにしました。
 ただ全ての和讃について逐次あたらせていただくことは、とても私には出来そうもありませんので、私の身に合った、多少なりとも私にも味あわせていただける和讃について抜粋して述べさせて いただこうと思っています。お読みいただける方がありましたら、どうかお付き合いいただき、ご感想、ご批判をいただければ幸甚です。
 なお、抜粋させていただいた『和讃の本文』『語義』『通訳』ともに、ほとんど名畑応順師の親鸞和讃集より引用させていただいています。また親鸞聖人が本文に左訓として付しておられるものも 適宜引用させていただく予定です。更に、(1)、(2)など各和讃の左上にある番号は抜粋番号ですので、特に意味はありません、なにか振返って引用させていただくときに使わせていただきます。
 それでは今月の抜粋第一首に入らせていただきます。
 今月は『浄土和讃』の第一、『讃阿弥陀仏偈和讃』の第1首です。『讃阿弥陀仏偈和讃』というのは、元々中国の曇鸞大師が阿弥陀仏を讃嘆してつくられた「讃阿弥陀仏偈」なる古今無類のすばらしい漢詩を、親鸞聖人が当時の日本の人びとの多くが親しめるように和讃として著されたものです。 漢文では当時の一般の庶民にも、現在の我々庶民にも取り付き難いものですから、それを親鸞聖人が和文で和讃として示された ということは、なんと無限の慈愛に満ちた行為でしょうか。その意味で親鸞聖人のこの行為は、その後の日本人の歴史の大切な部分を形作ってきたといっても過言ではないでしょう。親鸞聖人のこの 佛ともいえる無限の慈愛にただただ讃嘆の合掌をするばかりです。したがって、その『讃阿弥陀仏偈和讃』の第1首であるこの和讃を難解ではありますが、どうしてもここで取り上げさせていただこうと思います。
「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」 とは、元は大無量寿経にあることばで、法蔵菩薩が衆生救済のために建てられた誓願、すなわち四十八願が成就されて今までに十劫という 途方もなく長い時間が経っているという意味です。そして現在、今も、その仏身から放たれる無限に輝く光明は私たち、すなわち生死の苦界にもがいて、暗愚としか表現のしようのない 私たち衆生を遍く照らし、自らの懐に摂取しておられる。という意味になります。すなわち正信偈にいわれる「摂取心光常照護」ということでしょうか。
 さて大無量寿経に根源を持つこのような表現をフィクションという言葉で表す考え方があるようです。なるほどこれはこの世から一歩も出ない、この世べったりの考え方からすれば、その通りなのかもしれません。 しかし、このように考える人は、自らが、今、ここに、こうして生きているという不思議を見ようとしていない、感じようとしていないのではないでしょうか。現実主義、これを合理主義とするならば このような不思議を見る眼をもたないでしょう。しかし、如何に科学的に分析し尽くしても、いま、ここに、こうして生きている自分の不思議は依然として残っています。いささか変わったことを言うといわれる かもしれませんが、宇宙は137億年前にビッグバンによって生じた。というのが現代の最先端の科学的宇宙観です。そしてその時から時間と空間が始まった。とするとその前には、いやその前は無いのです。 時間はビッグバンと共に始まったのですから。このような不思議があるでしょうか。ある意味では、この137億年昔を弥陀成仏の十劫の昔と考えてもよいのではないでしょうか。いや、これは、あまりにも 軽率な譬えであるといわれる方々がきっとあると思います。反論は致しません。反論はできませんから。それはともかく、この人生の不思議、生きてあることの不思議、生死あることの不思議を 感じなければ、この和讃の文言は一片のフィクションになるのだということは云い得ます。しかし、私は、この生きてあることの不思議を根源として、今から750年以上前に親鸞聖人が示された、この和讃の数々を 味わっていきたいと思っています。まさに“南無不可思議光”であります。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年3月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−

                                                      

(2)
智慧(ちえ)の光明はかりなし
有量(うりょう)諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かふらぬものはなし
真実明(しんじつみょう)帰命(きみょう)せよ

『名畑応順師 通訳』
智慧の光明の徳は無限であって、
有限のすべての人間に光明を蒙らせる
真実明の仏に帰順せよ。
『語義(名畑応順師による)』
*智慧:智慧は煩悩を断じた徳。光明の本体。はかりなしは限量なし。
*有量の諸相:あらゆる有限の衆生。
*光暁:光明は衆生の闇を除くので暁に譬える。
*真実明:真実の智慧の光明。
*帰命:帰の仮名「くゐ」はkwiの音、帰命は梵語、南無の訳。仏の教命に帰順する。仏をたのむこと。信心を現わす。

典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
智慧の光明、(はか)るべからず。
故に仏を 又 無量光と(ごう)す。
有量(うりょう)の諸相、光暁(こうきょう)(こうむ)
()の故に 真実明(しんじつみょう)稽首(けいしゅ)したてまつる。  

【HP作成者感想】
 浄土真宗のお寺での集まりなどの時や、家庭でのお経読誦の時、正信偈というお経がよく上げられます。この正信偈の全文が読み終えられたあとで、南無阿弥陀仏の称名念仏とともに読誦するのが、この讃阿弥陀仏偈和讃の最初の6首です。その第2首目が本日の和讃になります。その意味で、これら6首の和讃はたいへん馴染みのある、こころ休まる和讃です。とりわけこの(2)の和讃は親鸞聖人はもとより、この和讃の典拠となった「讃阿弥陀仏偈」の作者曇鸞大師の滋味あふれるお心が伝わってくるような和讃です。
「智慧の光明、量りなし」。如来の智慧は無限である。まったくそのとおりです。それに対して我々衆生はどうでしょうか。自らの生きる意味も、死ぬ意味も定かならず、ただ巷に日々右往左往するだけではありませんか。まさに限りある猿智慧しかもたない有量の諸相のひとつです。この有量の諸相の一挙手一投足を自らとし生かしめ、死なしめ、自らの中に包み込む無限の慈悲、これこそ智慧の光明量りなき如来であり私ども衆生の根源ではありませんか。この無限の慈悲と無限の智慧の光明は、この暗愚の闇にさまよう衆生自身の丁度夜の闇を破る暁の限りなき光ではありませんか。まさにこの真実の光に帰命すべきであり、ぜずには居れないのであり、いや帰命せざらんとして、既に帰命しているのだと私は思います。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年4月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(3)
解脱(げだつ)光輪(こうりん)きはもなし
光触(こうそく)かふるものはみな
有無(うむ)をはなるとのべたまふ
平等覚(びょうどうかく)帰命(きみょう)せよ

『名畑応順師 通訳』
解脱の徳ある無辺の光を身に蒙るものは
すべて、有・無の偏見を離れるとお説きになる。
平等覚の仏に帰順せよ。

『語義(名畑応順師による)』
*解脱:解脱は業の繋縛(けばく)を脱した徳。
     仏のこの徳が衆生の悪業煩悩を除く。
*きは:きわまり。際限。
*光触:光を身に触るるというこころなり。
*有無ー:我あり法ありとする見解と我もなく法もなしとする見解。二つの邪見
*平等覚:諸法の平等を覚り、平等の慈悲で衆生を救う弥陀仏。
*帰命:帰の仮名「くゐ」はkwiの音、帰命は梵語、南無の訳。仏の教命に帰順する。仏をたのむこと。信心を現わす。  

【HP作成者感想】
 親鸞和讃はどの和讃もそれぞれ深くすばらしい真実を表現しているのですが、その中でもこの和讃は特別の味わいをもって私たちの心を真実に引き込む力をもっているように思います。そこで、それはいったいどこにそれを感じさせる言葉があるかといいますと、やはり「有無をはなる」というところにあるのではないでしょうか。「光触かふるものはみな 有無をはなるとのべたまふ」、すなわち、われわれの生きざまは、四六時中この「有無」にこだわって生きているのではないでしょうか。生きる感覚は“有”の感覚、死の感覚は“無”の感覚。すなわち生死の感覚を四六時中身にまとって、生を尊び、死を忌み嫌う。仏法はそのような生のみに執着するわれわれの心を、生死の偏見から離れ、生死を併有する我々である事実を述べているのではないでしょうか。そして最後の行、“平等覚”、これと四つに組んで、その意味を模索するとなると、難しさを通り越して、我々の手に負えない意味をもっています。すなわち我々は所詮、理想的平等ということはありえない代物だからです。“平等覚”は阿弥陀仏の別号(別のなまえ)であるのですが、まさにそのとおり、阿弥陀仏は讃嘆すべきもので、解釈するものではないということだと思います。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年5月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(4)
光雲無碍如虚空(こううんむげにょこく)
一切(いっさい)有碍(うげく)にさはりなし
光澤(こうたく)かふらぬものぞなき
難思議(なんしぎ)帰命(きみょう)せよ

(5)
清浄光明(しょうじょうこうみょう)ならびなし
遇斯光(ぐしこう)のゆへなれば
一切(いっさい)業繋(ごうけ)ものぞこりぬ
畢竟依(ひっきょうえ)帰命(きみょう)せよ  

『名畑応順師 通訳』
(4)
普遍の光明は、何ものにも碍げられることなく
すべてのものに恵みを与え給う。
不思議の弥陀をたのみとせよ。
(5)
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、
この光に値遇すればこそ、すべての繋縛も除かれる。
究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。

『語義(名畑応順師による)』
(4)
*光雲無碍如虚空:
  光明の普遍するさまを大空の雲に譬える。
  無碍は衆生の煩悩悪業にさまたげられない。
  その徳を障碍のない虚空に喩える。
*光澤:澤はうるおい、雲に潤いがあるので、光雲の縁語となる。
*難思議:不思議に同じ。弥陀の別号(べつのなまえ)
(5)
*遇斯光のゆへなれば:
 この光明に遇う。弥陀の本願を信ずる意。
*業繋:罪業に束縛されること。
*畢竟依:究極の帰依処。最後の拠り所。
[左訓] 清浄:すみきよし、貪欲の罪を消さんれうに清浄光明といふなり。
     遇斯光:この光にあふものは
     畢竟依:法身のさとり残るところなく極まり給ひたりといふこころなり
【HP作成者感想】
 遇(あ)い難くして遇うことができ、聞き難くして聞くことを得たうえで、いただいたる信の世界はまことに虚空(こくう)のごとく限りなく自由無碍(じゆうむげ)である。今月はこの信の世界を詠(うた)った(4)、(5)の和讃を 二つ一緒に味わいたいと思います。
 「光雲無碍如虚空」、名畑応順師の語義解釈により、光明の普遍するさまを大空の雲にたとえ、そして煩悩悪業に碍げられない自由無碍の世界を虚空に譬え、さらには光澤の“澤”を“潤い”として、雲に潤いがあるごとく、仏の遍き慈光を渇中の水の如く潤いという意味をこめて表しています。しかもこの“光澤をかふらぬものぞなき”。すべの衆生が弥陀の慈光に浴しているのです。ふしぎなことです。“信”の目から見れば、信、不信を問わず、すべての衆生が救いに浴しているのに対して、“不信”の目から見ればすべての衆生に救いなどはなく、見えるのはやがてくる死の無間地獄(むげんじごく)のみであることです。
 (5)の和讃も同じです。この慈光に遇い、浴すことができれば、一切の煩悩の罪の繋縛(けばく)も解き放たれ、自由無碍の世界に生死することができますよと曇鸞大師は讃阿弥陀仏偈によって、そして親鸞聖人はそれを和讃にして人々に語り続けておられます。

〔今月はこれで終わります。〕


◎今月の言葉(2011年6月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(6)
佛光照曜最第一(ぶっこうしょうようさいだいち)
光炎王佛(こうえんのうぶつ)となづけたり
三塗(さんづ)黒闇(こくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)帰命(きみょう)せよ

(7)
道光明朗超絶(どうこうみょうろうちょうぜつ)せり
清浄光佛(しょうじょうこうぶつ)ともうすなり
ひとたび光照(こうしょう)かふるもの
業垢(ごう)をのぞき 解脱(げだつ)をう 

『名畑応順師 通訳』
(6)
この仏の光明の輝きは第一に勝れているので
光炎王仏と名づける。
三塗の迷闇をも照破される。
大応供の弥陀をたのみとせよ。
(7)
仏の悟道(ごどう)から放たれる光が明朗(みょうろう)であるから、
清浄光佛と申す。
ひとたびこの光明に照らされると、悪業煩悩が除かれ、
解脱涅槃を得しめられる<br><br>

『語義(名畑応順師による)』
(6)
*三塗:火塗・刀塗・血塗(地獄・餓鬼・畜生。塗(づ)は途、道の意)
*大応供:衆生の供養を受けるに相応した仏。弥陀の別号(別のなまえ)
(7)
*道光:仏道のさとりから放つ光明
 この光明に遇う。弥陀の本願を信ずる意。
*清浄光佛:清浄無垢な心から現れる光明の仏。
*業垢:悪業と煩悩。
[左訓] 解脱:さとり、さとる。悪業煩悩を除き、解脱をう。
     解脱というは仏果に至り、仏になるをいう

◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
(6) 佛光照曜して最第一なり、
  故に佛を又光炎王と号(なづ)けたてまつる、
  三塗の黒闇光啓(こうけい)を蒙(こうむ)る、
  是の故に大応供を頂礼したてまつる。
(7) 道光明朗にして、 色(しき)超絶したまへり、
  ゆゑに仏をまた清浄光と号(なづ)けたてまつる、
  一たび光照(こうしょう)を蒙(こうむ)れば、
   罪垢(ざいく)除(のぞこ)りてみな解脱を得う、
   ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる。

【HP作成者感想】
(6) まず「佛光照曜最第一」ですが、これは真実の心に立ち返ってみれば、仏の光は我々衆生の生死を無限に包む光であるということでしょうか。そうして、その仏さまのありさまを
光炎王佛となづけるというのです。光炎王佛で連想させられるのが、真言系のお寺などに鎮座する背に火炎を背負う不動明王の姿ですが、光炎王佛の無限の光と不動明王の火炎とは全く意味が違い、不動明王の火炎を背負う姿は火炎三昧とか火生三昧などといって、身から火を出し罪障を滅する禅定(瞑想・精神集中)を表す姿だそうですが、光炎王佛というのは
はじめに記したように、我々衆生を包む無限の光なのですから怒りも罪障も超えた無限の慈悲といってもよいでしょう。まあいえば、太陽にも例えられるかもしれませんが、あとの和讃にも
でてきますように、その仏の有様は「超日月光」ともいわれるのですから、太陽をも超えた光そのものといってもよいと言えます。そうして、我々生死の迷妄をあらわす三塗の黒闇も
その無限の慈悲の光で包まれるといえるのではないでしょうか。私は、こどもの頃、よく賽の河原のありさまをご詠歌で聴きましたが、あの川原の石の白々としたイメージと
その背後に流れる三途の川の暗い暗いイメージが重なって何ともいえない暗い気持ちになったものですが、後年になって、この和讃の「三塗の黒闇ひらくなり」の一句を読むたびに、どれだけ安らかで明るい気持ちになったかしれません。正信偈を称えたあとの5句の和讃の最後に、この和讃が出てまいりますが、いつもこの幼児体験とそれを啓く佛の智慧と慈悲に、曇鸞大師ではないですが、頂礼せずにはおれません。
(7)「道光明朗超絶せり」とは(6)の三塗の黒闇をひらく弥陀の光でもあります。曇鸞大師の讃阿弥陀仏偈には「色超絶せり」とあります。色とは我々の五感にかかるものでしょうから、世のあらゆる事柄のことでしょう。したがって、このことは弥陀の慈悲と智慧の光はこの世のあらゆる事柄を超えているということになります。そしてひとたびこの光に包まれたる者は、もはや退くことなく、業垢の世界にあって、他力金剛の信の中に住まうことなるといえますし、また逆に他力の信の中にあれば弥陀の慈悲と智慧の光は自ずからこの身を包むことになるともいえるでしょう。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年7月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(8)
光明(こうみょう)てらしてたへざれば
不断光佛(ふだんこうぶつ)となづけたり
聞光力(もんこうりき)のゆへなれば
心不断(しんふだん)にて
往生(おうじょう)

『名畑応順師 通訳』
光明が断えることなく照益し給うので不断光仏と申す。
この光明の威力を信ずるから、
凡夫の心も憶念の心として間断せずに往生する。

『語義(名畑応順師による)』
*聞光力:光明の威力を聞く。 本願力を信ずる意。

『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
 聞光力:弥陀の御誓いを信じまいらするなり。聞というはきくという。聞くというは
      この法をききて信じて常にたえぬこころなり。
 不断:菩提心の断えぬによりて不断という。
 心不断:弥陀の誓願を信ぜる心 断えずして往生すとなり。

◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 この和讃は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の十二光をたたえる偈の中の次の一偈より出典されています。
 「仏の光明は一切の時に普く照らす。故に、仏を又不断光と号す。聞光力の故に心断えずして、皆、往生を得」

【HP作成者感想】
仏の光明はこの私を照らして絶えることがないというのです。この私は常に世の雑念に囚われており気がつきませんが、仏はこの私をとらえて離さず、常に自らの中に摂取しているというのです。 このことを親鸞聖人は正信偈の中で、恵心僧都源信の言葉として
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
と顕わしておられます。このことが即ち不断光佛ということになるのでしょう。
 ところが、われわれ衆生は、仏がこのように絶えず倦きることなく照らし続けておられることに全く気がつかないのが普通です。しかし、この最重要なところを親鸞聖人は「聞光力のゆえなれば、心不断にて往生す」と自らの体験に基づき力強く詠われています。
・聞光力とは何か、これは上の左訓にもありますように、「弥陀の御誓いを信じまいらするなり」、
・心不断とは何か、これも左訓にありますように「弥陀の誓願を信ぜる心 断えずして往生すとなり」
このように、まことに力強く左訓しておられます。すなわち弥陀の誓願に対する“信”、すなわち、“信心”によって仏の無限の不断光に気づかせていただくのだと述べておられるのです。
さて、ここで厄介なのは、あらゆる実証主義、科学主義の情報を頭に溢れるほど詰め込まれた我々現代人です。 親鸞聖人が、あれほど純粋に、生涯かけて過ごされた弥陀の誓願に対する“信”の生活をわれわれも過ごすことができるのでしょうか。 少なくとも私は、すなわち私の煩悩は、この親鸞思想の根幹といえる、弥陀の本願の前で、立ち尽くしてしまうのです。
(1)それはおまえの煩悩、すなわち自力の心で、弥陀の誓願を捉えようとしているからだと、言われるでしょう。
(2)あれこれ自力をこね回して考えることが間違っているのであって、弥陀の一言「お前を救うぞ」といわれれば、即座に「はい」と答えてその仰せに従うだけでよいのだ。そしてすべてを「お任せ」の生活に入るのだ。という こ と言われる人もあります。
(3)歎異抄の第九条でも、同じような疑問を持った若き唯円坊に、親鸞聖人は「よくよく案じてみれば、天におどり、地におどるほどによろこぶべきことをよろこべない人をこそ救おうというのが弥陀の誓願だ」 といわれてもいます。  ところが、このようにいわれても、まだ、もやもやと疑いの念ばかりが、こころの中を占めるのです。「よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」と同じ第九条でいわれていますが、全くそのとおりです。 ところで、上の(1)〜(3)のことばは全て、既に“信”の中に居る人の発言だともいえます。いまだ“信”の中にいない人間にとっては、真実の“信”はわからないのです。 鎌倉時代の人々は経典に対する尊崇の念が今とは桁違いに違ったので法然聖人や親鸞聖人は、現代の我々よりもはるかに素直に真底から経典の中に没入できたのでしょうか。 しかし、歎異抄第九条にあるように、親鸞聖人の時代にも唯円坊のように、念仏申すことに素直に喜べない疑問は確かに存在したのでした。
この存在の真底からの疑問に、私たちはどのように向きあえばよいのでしょうか。
 そのような疑問、疑い、この人間存在の真底を穿つ不信という煩悩をもっている人間をこそ救わんと誓われたのが弥陀の本願であると、素直に頷くことが最も大切なのかもしれません。  
 私の場合の体験からいいますと、この煩悩まみれの現代人の私に、現代人として語りかけてくれた人が一人いました。それは明治の人、清沢満之です。彼のことば「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して、 任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ちこれなり」ということばです。この言葉は、それまで経典の中のことば、“本願”の解釈・受取りの蟻地獄の中でもがいていた私にとって、目を経典から一度離し、 今現在の自らの有りように目を向けること、自己とは一体何ものなのかということ、そして、この自己をとりまく世界とは何なのかということに目を向けることを教えてくれました。そして、そのことから、 今まで頑強に根を張っていた「私の中の自己」が如何にあやふやなものであることか、そして、このあやふやな自己などはもともと有るものではなく、もっと大きな、いや、全てのものを含む全体といっても よい清沢の“絶対無限”という大きな生命が、この私や、それどころか全ての存在の時空を包括して生きている。そのように考えれば、この小さな私は、そのような無限大の生命、清沢のいう絶対無限の 生命に摂取されているのであって、このことから逆に大無量寿経の我々を摂取してやまない無限大悲の本願が光となって私の前に、いや真只中に届けられているということがいえるのでは ないかと思うのです。いやはや、これも、結局は煩悩・自力の妄想ということになるのでしょうか・・・。
 もう一度、歎異抄第九条の『よくよく案じてみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定ととおもひたまふなり。・・・仏、かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごとし、われらがためなりけり』 という言葉に合掌し、そして、この和讃の『聞光力のゆへなれば 心不断にて往生す』の左訓、『弥陀の御誓ひを信じまひらするなり」 と「弥陀の誓願を信ぜる心断へずして往生すとなり』 に頭を垂れ称名念仏したいと思います。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年8月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(9)
仏光測量(ぶっこうしきりょう)なきゆえに
難思光仏(なんじこうぶつ)となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ
弥陀の功徳(くどく)(しょう)ぜしむ

『名畑応順師 通訳』
仏の光明は思い量れないから難思光仏と申す。
十方諸仏が往生を讃嘆して、
弥陀の光明の功徳を称揚し給う。
『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
測量(しきりょう):測は計らいのきわなきをいう、量は数を知るをいうなり。
難思光仏:すべて心の及ばぬにて難思光仏というなり。
『柏原祐義著「三帖和讃講義」の辞解より』
称ぜしむ:称は称揚でほめ称えること。十方の諸仏が阿弥陀仏の広大なる功徳を
ほめたたえ給うを称ぜしむと申されたのである。称ぜしむのしむの二字は敬語であって
給うとか、せらるとかいう意である。
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 この和讃は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の十二光をたたえる偈の中の次の一偈より出典されています。
 「その光 仏を除きてはよく測るものなし。ゆえに仏をまた難思議となづけたてまつる。
  十方諸仏 往生を嘆じ、その功徳を称したまへり。ゆえに稽首したてまつる。」

【HP作成者感想】
 仏の光明は凡夫には測り知ることができない。すなわち、この世のみを絶対とする感覚からは測り知れないということでしょう。したがって如何に科学的思考をめぐらしても、 めぐらせばめぐらすほど、測り知ることはできないでしょう。この和讃の元になった讃阿弥陀仏偈においても、曇鸞大師は「仏の光は、仏を除いては測り知るものはない」と 讃じておられます。すなわち、「仏光測量(しきりょう)なきゆえに」です。したがって凡夫の私には難思光仏ということになります。この途方もなくすばらしく測り知れない 仏の光明を浴びた諸仏は浄土往生をこよなく讃嘆し、阿弥陀仏の測り知れない功徳を称讃されるのです。それでは、これは諸仏の世界のみで成り立つことなのでしょうか、 我々凡夫には縁のないことがらなのでしょうか、私はそうではないと思います。いやそうであっては仏教も信心も凡夫の私には永遠に縁のなきことになります。
 私はこのような凡夫と仏をつなぐのは「信心」であると思っています。しかし「信心」とは何か、「信心」とは何か、これほど言葉で言って、身につかぬものはないでしょう。 しかし思いますに信心を言葉でもてあそぶ前に、いったいいこの信心、信心といっているこの自分とは何か、永劫の過去からの因縁の積み重ねで今ここにこうして存在していること、 決して、自分の力でここにこうして居るのではないこと、すべて、私の存在は他力に因るものであり、いわゆる生かされて生きているのであることを納得すれば、 また、現実世界もすべて因縁に基づいて、ここにこうして自分とともにあること、すなわち他力に因ってここにあることを納得すれば、自ずと自分や、現実世界を超えた 大きないのちのなかにつつまれて今有ることに納得でき、おのずとそのような自分や現実世界を超えた大きないのちを信ずることができる、いや信ぜざるをえないはずで、 これを「信心」といっていいのではないでしょうか。したがって、仏の光は、凡夫には測量できないにしても、信ぜざらんとして信じずにはおれない「信心」をいただければ、 すくなくとも、生きてあるうちに感ずることがあるのではないかと憶うのです。したがって、凡夫であっても、「信」の世界の中で、往生を讃嘆し、大きな大きないのち 測量(しきりょう)できないいのちである、阿弥陀仏を讃嘆することになるのではないでしょうか。

〔今月はこれで終わります。〕


◎今月の言葉(2011年9月)

親鸞和讃より


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(9)
光明月日(こうみょうつきひ)勝過(しょうが)して
超日月光(ちょうにちがっこう)となづけたり
釈迦嘆(しゃかたん)じてなをつきず
無等等(むとうどう)帰命(きみょう)せよ
  

『名畑応順師 通訳』
光明がこの世の日月に超えすぐれているので
超日月光と号する
弥陀のその光明は釈迦が讃嘆してもなお説きつくせない
この無比の仏をたのめ

『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
嘆じて:ほめたまふなり
無等等:等しくひとしき人なし
『名畑応順師の「語釈」より』
超日月光:日月にこえ勝れて、時間や方処の別なく照らす光明
無等等:比類のない仏。弥陀の別名
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 この和讃は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の十二光をたたえる偈の中の次の一偈より出典されています。
「光明照曜(しょうよう)すること日月に過すぎたり。
ゆゑに仏(ぶつ)を超日月光(ちょうにちがつこう)と号(なづけ)たてまつる
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず
ゆゑにわれ無等等(むとうどう)を稽首(けいしゅ)したてまつる。」

【HP作成者感想】
“光明月日を勝過(しょうが)して、超日月光となづけたり”。これは現代人としてどのように受取ればよいでしょうか。勿論、月光はともかくも、日光は私たちの現実的生命そのものです。
太陽の光なくして、現在の地球上の生命は瞬時にも生きていくことはできません。その事実を完全に踏まえた上で、なお“光明月日に勝過して”をどのように受取るべきでしょうか。
いうまでもなく、この和讃でいう弥陀の光明は宗教的な光です。この光は単に地球上の生命に降り注がれるだけではなく、全宇宙の闇の隅々までも照らし尽くす大きないのちの光です。
また、光は我々生けるものの表面ではなく、心の奥底までも照らす光です。私たちのこころの闇を照らす光です。このように考えますと、私たち衆生は、一瞬たりとも物理的に 欠かせない太陽の光と、全宇宙の闇を照らし出し、同時に一人一人のこころの奥底までを照らす弥陀の光があってはじめて、生死の意味をその光に委ねることができるのではないでしょうか。 現代科学は宇宙開闢の時を今から137億年前というところまで突き止めています。そして、宇宙について、それ以前を考えることは無意味であるともいいます。科学はそこまでなんです。 これは科学の優劣を取り沙汰することではなくて、科学の当然の性質であって、科学はすべて「有」すなわち有るということから出発しているのです。しかし宗教的な光は有無を超えて 私たちに降り注ぐと考えてはいかがでしょうか。「解脱の光輪きはもなし、光触(こうそく)かふるものはみな、有無をはなるとのべたまふ、平等覚に帰命せよ」の和讃も同時に味わうことがで きるこの「超日月光」の和讃です。

〔今月はこれで終わります。〕

◎今月の言葉(2011年10月)

親鸞和讃より9


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(10)
安楽無量(あんらくむりょう)大菩薩(だいぼさつ)
一生補処(いっしょうふしょ)にいたるなり
普賢(ふげん)の徳に帰してこそ
穢国(えこく)
にかならず (くゑ)するなり
  

『名畑応順師 通訳』
浄土のさとりを得た無数の大菩薩は仏の候補として最高位にあり、
衆生を救う慈悲の行徳に趣き、
穢土に還って、衆生を教化(きょうげ)するのである

◎『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
 ○一生補処:極楽にまいりなば、弥陀の一の弟子となるこころなり。
 ○普賢:われら衆生、極楽にまいりなば、大慈大悲を起こして、十方に至りて衆生を利益するなり。
    仏の至極の慈悲を普賢と申すなり。
 ○化するなれ:めぐむ、あわれむ、おしう
◎ 『名畑応順師の「語釈」より』
 ○安楽:安楽浄土
 ○菩薩:無上の仏道を求める衆生
 ○一生補処:一生を過ぎれば、仏処を補う者。仏の候補者。
 ○普賢:普遍賢善の義。その功徳は世界に普ねく、その性は柔和で慈悲深い。
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
安楽の無量の摩訶薩(まかさつ)は、 みな、まさに一生(いっしょう)にして仏処(ぶっしょ)を補(おぎな)ふべし。
その本願の大弘誓(だいぐぜい)をもつて、 あまねくもろもろの衆生を度脱(どだつ)せんと欲(ほっ)するを除(のぞ)く。
これらの宝林(ほうりん)功徳聚(くどくじゅ)を、 一心に合掌し頭面(づめん)をもつて礼(らい)したてまつる。

【HP作成者感想】
 この和讃は、深く考えさせられる和讃です。
 まず、それに先だって典拠となった曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」のこの部分の意味をくみとってみましょう。
 すなわち、曇鸞大師はこの偈で、まず安楽無量の摩訶薩、すなわち浄土のさとりを得た無数の大菩薩はこの一生を過ぎればみな仏処を補う者となる、すなわち弥陀の一の弟子となると述べています。ところが、これですべてではなく、その内、弥陀の本願の大きな誓いに因って、再度この世にかえって、あまねくもろもろの衆生を度脱させようと願う者を除く。とあります。これは、曇鸞大師が大無量寿経の四十八願の中の第二十二願からこの偈を創っておられることによります。すなわち、浄土のさとりを得た菩薩は、浄土において弥陀の第一の弟子の席につく位となるが、一方で、そのような席にはじっとしておらずに、再び煩悩渦巻くこの世に還って人びとを、自分と同じように浄土に渡そうと獅子奮迅の努力をする菩薩もいるということです。このことを還相迴向というのだそうですが、この曇鸞大師の偈にもとづいて親鸞聖人はここに和讃として我々に示しておられるのです。
 しかしこの還相迴向という事柄、なかなか分かりにくいのですね。この世の命を終って浄土に参った者が、どうして、再びこの世に還って、上記語句の解説にあるような普賢の徳を発揮することができるのかということです。なかなか、この世の感覚では分からないことです。このことを理解するのに、私は、つぎのように考えればどうだろうかと思っています。たとえば親鸞聖人や法然聖人、そのほか、生きておられる時には、人びとに生涯かけて“仏の道”をといた方々はすでにこの世において菩薩であったわけで、そのような方々は命終の後は浄土において必ず弥陀の第一の弟子(弥陀と一体)となっておられると考えていいでしょう。これらの人びとは亡くなられて1000年近いこの現代においても、たとえば親鸞聖人ならば「教行信証」や、いま読み進めている「浄土和讃」など、あるいは生前に語られた言葉の数々で、私たちを浄土へ導いておられる。この事実は、還相迴向でなくで何でしょうか。還相迴向の事実以外には考えられません。これをお読みの方のご批判を仰ぐところです。
 以上のようなことで、私は曇鸞大師、親鸞聖人が示されている、今読み進めている和讃を、命のみなもととして味わっていきたいと思っています。

〔今月はこれで終わります。〕


◎今月の言葉(2011年11月)

親鸞和讃より10


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(11)
安楽国(あんらくこく)をねがふひと
正定聚(しょうじょうじゅ)にこそ (じゅう)すなれ
邪定(じゃじょう) 不定聚(ふじょうじゅ)くにゝなし
諸仏讃嘆(しょぶつさんだん)したまへり
  

『名畑応順師 通訳』
この世にあって安楽国に生れんと願う人は正定聚に住するのである。
邪定聚・不定聚の者は安楽国に居ない。諸仏は正定聚を讃え給う。

◎『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
 ○邪定・不定聚:邪定は万行万善自力の往生、観経の説。不定聚は阿弥陀経のこころ
           行は不可思議なれども、われら自力に修行するあひだ不定聚と説く。

◎ 『名畑応順師の「語釈」より』
 ○正定聚:他力念仏の人
 ○邪定 :諸行往生の人
 ○不定聚:自力念仏の人

◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 敢(すす)みて安楽国に生ずることを得れば、みなことごとく正定聚に住す。
 邪定・不定聚その国になし。諸仏ことごとく讃じたまふ。
 ゆえに頂礼したてまつる。

 
【HP作成者感想】
 この和讃をよくよく味わうと、曇鸞大師の作られた偈と親鸞聖人の和讃の間にはまことに大きな違いがあることがわかります。
曇鸞大師は上の偈の第一行目で、「安楽国に往生することを得れば、みなことごとく正定聚に住す」といわれています。
すなわち、曇鸞大師は正定聚すなわち必ず仏となることの確定を安楽国すなわち浄土に往生した後であるとされています。 ところが親鸞聖人の和讃では「安楽国をねがふひと 正定聚にこそ住すなれ」となっています。すなわち、安楽国をねがう人なのですから これはとりもなおさず、今現在、この娑婆に生きている人を指しています。勿論「安楽国をねがう人」とは如来迴向による 真実信心をいただいた他力念仏に生きる人です。ここにおいて親鸞聖人は正定聚すなわち浄土往生が如来により約束されるのは まさに、現世において、すなわち現生正定聚であることを、はっきりと述べておられます。これは依拠された曇鸞大師の元の偈には 無かったことです。まことにこの和讃一つをとってみても、親鸞聖人が師の法然上人と同じく鎌倉期のすばらしい宗教的革命児であったことがわかります。
 次に、「邪定、不定聚くにになし」すなわち、自力の諸行往生を願う邪定聚や、自力の念仏で往生を願う不定聚の人は安楽国には 一人も居ない、したがってこれらの人々は真実の浄土には往生できないということになります。 それでは何故、他力念仏の正定聚の人がまさしく真実の浄土に往生できるのに対して、自力の諸行往生、すなわち邪定聚の人や 自力念仏の不定聚のの人は真実の浄土に往生できないのでしょうか。これは浄土往生ということはまさしく、この世を超えた 永劫の過去から働く本願他力の迴向によるものでなくてはならないからです。自力で往生を願うということは、結局この世の枠の中で、 この世の法則の中で往生に励むばかりですので、この世の枠と法則に縛られてしまう結果となり、この世を超えた、本願他力の迴向に 遇うことができないからではないでしょうか。
 本願他力とはあくまでこの世、すなわち娑婆の法則にまみれながら、この世を超えた本願力によって生死することなのではないでしょうか。 親鸞聖人はこの和讃でこのような、本願力によって生死する正定聚の人々を“諸仏讃嘆したまへり”という言葉で結んでおられます。

〔今月はこれで終わります。〕


◎今月の言葉(2011年12月)

親鸞和讃より11


−『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による−
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)


                                                      

(12)
已今当(いこんとう)の往生は
この土(ど)の衆生(しゅじょう)のみならず
十方仏土(じっぽうぶつど)よりきたる
無量無数(むりょうむしゅ)不可計(ふかけ)なり
  

『名畑応順師 通訳』
過去・現在・未来の三世にわたって、浄土に往生する者は、
この世界からの衆生ばかりでなく、十方の仏土から来生(らいしょう)して、
その数は計り知れない。

◎『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
 ○已今当の往生は:過去に生まる、今生に生まる、未来に生まるゝなり
 ○已:すでに、過去 
 ○今:今生、いま
 ○当:未来
 ○無量無数:はかりなし
 ○不可計:数ふべからずとなり

◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 十方仏土の菩薩衆およびもろもろの比丘、 安楽に生ずるもの、
無量無数にして計るべからず。
已生・今生・当もまたしかなり。
みなかつて無量の仏を供養し、 百千堅固の法摂取す。
かくのごとき大士ことごとく往生す。 このゆゑに阿弥陀を頂礼したてまつる。

【HP作成者感想】
 なんと広大無辺の情景ではありませんか! 
この和讃は宇宙いっぱいに広がる阿弥陀仏の慈光とその光を浴びて救われていく衆生の有様をうたっています。
しかも已・今・当、すなわち過去・現在・未来をとおして永遠の輪の中の無数の衆生の往生の有様をこの和讃はうたっています。
 現代の天文学をはじめとした科学的知識から、この大宇宙には地球だけでなく、無数の星々、無数の銀河系の中に無数のいのちが息づいている可能性を我々はイメージできます。
我々の地球のみでなく、この時空の数え切れないいのちが已・今・当にわたって無限のいのちの阿弥陀仏の慈光の中に摂取されていく。この有様は壮麗と言おうか、なんとも言葉に尽くせません。このような情景を、この和讃は讃嘆しています。なんと素晴らしいことであり、これ以上に尽くす言葉はありません。。

〔今月はこれで終わります。〕