★21世紀は前世紀までの物質中心、科学技術中心の考え方が見直される世紀といわれています。
★ところが、21世紀の12年目の今、この世界の情勢は決して穏やかでない深刻な状況を呈しつつあります。
★しかし、それなれば、なおのこと、今こそ、深い精神性をもったこれらのことばを、新しい世紀を築く糧としたいものです。



◎今月の言葉(2012年1月)

親鸞和讃より12


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      


  
(13)
たとひ大千世界(だいせんせかい)
みてらん火(ひ)をもすぎゆきて
(ぶつ)の御名(みな)をきくひとは
ながく不退(ふたい)にかなふなり

『名畑応順師 通訳』
かりに大千世界という広い世界に満ちている火の中をも通りぬけて、
仏の名号を聞信する人は、永遠に不退の位に契(かな)うのだ。
(火をかきわけてでも聞かねばならぬ法である。)
◎『左訓』
(左訓はほとんどのものが和讃の作者親鸞聖人の製作によるものと見られています。)
 この和讃には特に左訓といわれる語句はありません。
◎ 『柏原祐義師の「語釈」より』
 ○大千世界:一世界を千個合したものを小千世界といい、この小千世界をまた千個合して中千世界という、
  その中千世界を千個合したものを大千世界となづける。
 ○みてらん:満ちてあらんというこころ
 ○きく:阿弥陀仏の御名をきく、すなわち阿弥陀仏を信ずること。
 ○不退:くわしくは不退転といい、すでに得た功徳が転じ退くことがない位のことで、私ども   が一度(ひとたび)他力の信心を得て、正定聚の位に入れば、必ず往生成仏する位に定ま  って、さらに退(しりぞ)き堕ちることがないから、正定聚の位のことを不退の位ともいうのである。

◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 たとひ大千世界に満てらん火をも、また直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。
 阿弥陀を聞けば、また退(しりぞ)かず。
 このゆえに、心(しん)を至(いた)して稽首(けいしゅ)し礼(らい)したてまつる。

【HP作成者感想】
 この和讃の強調するところは名畑師の通訳にもありますようにもし大千世界という広い世界に満ち満ちている業火をかき分けてでも阿弥陀仏の真実の声を聞く人は、きっと正定聚不退のくらいにかなう人になるのでしょう。
これが正しい訳であると思います。
 しかし、このような想像を絶する業火をかき分けて仏の御名を聞くということが我々凡夫のままではできることなのでしょうか。
 しかし今、そのような凡夫であっても念仏を唱え自らの力ではそのような業火を超えて仏の御名を聞くことはできなくとも、仏の方(かた)から、このような凡夫をも凡夫のままで救い摂っていただけるのだと、深く信ずることができれば、すなわち信さえも仏の方から与えられるものであると信じて念仏すれば、今度は逆にこのような大千世界に満ち満ちる業火をも超えて、仏のふところへ直入(じきにゅう)することができるのではないでしょうか。
 いまここに科学的な天文学上の推測として、この太陽系の生きとし生けるものをはぐくみ育てる太陽も、今後50億年も経てばいつかは超巨星となり、われわれ地球をもその軌道もろともその業火の中に飲み込んでやがて滅んでいくということですが、それが50億年という気も遠くなるような彼方の時間であって、今生きている私たちには関わりのないことだ〔これもなさけない言葉ですが・・〕とはいっても、まことに身の毛もよだつ事柄であります。しかし、かりにそうであっても、弥陀の無限の慈悲の中におさめ摂られている信の中にあれば、そのような事態をも、じっと覚めた目で見ることができるのではないでしょうか。曇鸞大師の讃阿弥陀仏偈の上記典拠にも『阿弥陀を聞けば、また退かず』とあります。
 「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとはながく不退にかなうなり」。
 このご和讃を、現代の我々はこのように味わうこともできるのではないでしょうか。

                                      〔今月はこれで終わります。〕



◎今月の言葉(2012年2月)

親鸞和讃より13


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

  (14)
  神力無極(じんりきむごく)の阿弥陀(わあみだ)
  無量(むりょう)の諸仏(しょぶつ)ほめたまふ
  東方恆沙(とうぼうごうじゃ)の仏国(ぶっこく)より
  無数(むしゅ)の菩薩(ぼさつ)ゆきたまふ   
  (15)
  自余(じよ)の九方(くほう)の仏国(ぶっこく)
  菩薩(ぼさつ)の往覲(おうごん)みなおなじ
  釈迦牟尼如来(しゃかむににょらいげ)(げ)をときて
  無量(むりょう)の功徳(くどく)をほめたまふ   

『名畑応順師 通訳』
(14) 
 威神不思議極まりなき弥陀仏は十方無量の諸仏が
 各々自国の菩薩を励まして称嘆したまふ。
 そこで東方無数の仏国から、無数の菩薩が仏を供養し法を聞くために
 弥陀の浄土へ往き給う。
(15)
 東方を除き、その他の九方の仏国からも
 菩薩が弥陀の浄土に往って仏を見たてまつることは皆同様である。
 釈尊は大経に偈頌を説いて弥陀の無量の功徳をほめ給う。
◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                            (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
 (14)○神力無極:神通自在にましますことの極まりなきなり。
 (15)○往覲:往生して仏を見たてまつるなり。
      十方より菩薩の極楽へ参りて、弥陀を見たてまつるこゝろなり。
◎ 『柏原祐義師の「語釈」より』
 (14)○恒沙:恒河沙(ごうがしゃ、ガンジス川の砂)の略。ガンジス川の砂の数ほどの多数
 (15)○自余:そのほか。
    ○偈:大無量寿経巻下三十行の偈頌を指す。 
 
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 (14)(15)
 神力(じんりき)の阿弥陀(あみだ)は、  十方無量(じっぽうむりょう)の仏の歎(たん)じたまふところなり
 東方恒沙(とうぼうごうじゃ)の諸仏の国、 菩薩無数にしてみな往覲(おうごん)
 また安楽国の菩薩・声聞(しょうもん)・もろもろの大衆(だいしゅ)を供養し
 経法(きょうぼう)を聴受(ちょうじゅ)して道化(どうけ)を宣(の)ぶ。自余の九方(くほう)もまたかくのごとし
 釈迦如来、偈(げ)を説きて、 無量の功徳を頌(じゅ)したまふ。 ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる
 ○[語注] 経法:経典の教え            道化:仏道の教化        
       頌したまふ:讃嘆したもう
 
【HP作成者感想】
 前二首と同じく、この和讃も、この地球上のみならず、宇宙にあまねき生をうけた無数の命が神力無極の阿弥陀仏を讃嘆する様子がえがかれていると見たらいかがでしょう。
そして先ず東方の無数の星々に生きる無量無数の生命が阿弥陀仏のいます清浄国をめざして往生し、またそのほかの宇宙の全方位からも無数の生命が弥陀の教えを聴聞せんとして弥陀の国(浄土)へ往生するようすがイメージできます。
 生命は地球上だけではありません。全宇宙にあまねく遍満して与えられたるいのちと存在が弥陀を讃嘆し、そして自らそこにいること、そして宇宙全体にあまねく大きな広がりを持って存在することをこよなく讃えていることをイメージしてはどうでしょうか。そしてその壮大な肯定の功徳を、釈迦牟尼仏はこの上なくたたえほめておられることをイメージしてはどうでしょうか。生命はきっと、この狭い地球上のみでなく、宇宙のいたるところに存在すると考えられるからです。したがって、今後この作成者の感想文で無量、無数の諸仏・菩薩・衆生といえば全宇宙にあまねく満ちて生死し弥陀の国浄土へ往生し、またこの土に還相する無限のいのちを指すことにすればいかがでしょうか。

                                      〔今月はこれで終わります。〕

   
◎今月の言葉(2012年3月)

親鸞和讃より14


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(16)
一一(いちいち)のはなのなかよりは

三十六百千億(さんじゅうろくびゃくせんおく)
光明(こうみょう)てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
(17)
一一(いちいち)のはなのなかよりは
三十六百千億(さんじゅうろくびゃくせんおく)
仏身(ぶっしん)もひかりもひとしくて
相好(そうごう)金山(こんぜん)のごとくなり

『名畑応順師 通訳』
(16) 
 浄土の宝蓮華の一々の華の中から
 無量無数の光明を放ち、
 その光明は朗らかに照らして
 十方世界にいたらぬくまもない。
(17)
 一々の華の光明から
 それぞれ無数の仏身が現われ、
 仏身の数も光明の数もひとしくて、
 仏身の相好はまばゆいこがねの山を
 見るようである。
◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                            (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
 (17)相好:相は大かたち、好は小かたち
◎ 名畑応順師語釈
 (16)○はな:浄土にみちる宝蓮華。
 (15)○相好:三十二相、八十種好と数えられる。相は仏身の著大な形相、好は微少な部分
 
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
(16)
一々の華に百千億の葉(よう)あり。
その葉(よう)の光明の色無量なり。 朱・紫(し)・紅(ぐ)・緑(ろく)五色(しき)に間(まじ)はり、
煒燁煥爛(いようかんらん)として日光より曜(かがや)く。
このゆゑに一心(いっしん)に稽首(けいしゅ)し礼(らい)したてまつる。
(17)
一々の華(はな)のなかより出(い)だすところの光、 三十六百(ぴゃく)有(う)千億なり。
一々の華(はな)のなかに仏身(ぶっしん)あり。 多少また出(い)だすところの光のごとし。
仏身(ぶっしん)の相好(そうごう)金山(こんぜん)のごとし。
 ○[語注] 間(まじ)はり:いりまじり、いりみだれて
  煒燁煥爛(いようかんらん):明るく輝くさま。 光り輝くさま
  稽首:頭を足につけて礼拝すること。 仏の御足をいただく。
   インドにおける最上の敬礼
【HP作成者感想】
 これらの和讃は浄土の様子をうたったものです。なんと意味深く受取れる和讃ではありませんか。
一々の華とは何をあらわしているのでしょうか。
わたしはこれは我々一人ひとりのいのちを表しているものと受取れます。
すなわち一々の華の中から三十六百千億の光明が放たれいたらぬところはさらにない。
一つ一つの華の中に全宇宙、全時空、凡ての因果が込められている考えていいのではないでしょうか。
一人ひとりのいのちの中には全宇宙、全時空、全因果が込められているいえるのではないでしょうか
すなわち全存在のひとつひとつに全宇宙、全時空、全因果がこめられている、
これはすなわち阿弥陀仏そのものがこめられている。
だから一々の存在自体のなかに三十六百千億の仏身とひかりが渾然一体となって
そのようすは金山(こんぜん)のごとくである。
これは何も空想の浄土の様子ではなく。
わたしの、そしてあなたの今あるのは、全宇宙の、全時空の、全因果の賜物であって
大きなことをいうようですが
この私の、そしてあたたの一挙手一投足は、宇宙創造の一挙手一投足であり
浄土創造の一挙手一投足なのではないでしょうか。
この一挙手一投足には全宇宙の、全責任がかかっていると見ることもできるのではないでしょうか。

                                      〔今月はこれで終わります。〕



◎今月の言葉(2012年4月)

親鸞和讃より15


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(18)
十方三世の無量慧
おなじく一如に乗じてぞ
二智圓満道平等
摂化随縁(せっけずいえん)不思議なり

『名畑応順師 通訳』
(18) 
 あらゆる諸仏は同一の真如によって
 さとりを開き
 権・実の二智を円満し、
 菩薩の仏果は平等であって、
 しかも衆生を救うためには、機縁に随い、
 差別があって、測り知られない

◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
            (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
 二智円満:二智円満はこの娑婆世界の智慧、仏道の智慧、みなさとり給うこと平等なり
 摂化随縁:おさめ化すること縁にしたがふ。
◎ 名畑応順師語釈
 無量慧:無量の智慧を体とする諸仏
 一如:真如の理
 二智:権智と実智。差別の諸法を見て衆生を済度する智慧と、平等の真理をさとる智慧。
 摂化随縁:衆を摂受し化益するのにその機縁に随うこと。
 
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚を号したまふ。
 二智円満して道平等なり。摂化縁に随うがゆえに若干なり
 ○[語注]
  摂化縁に随うがゆえに若干なり:衆生の救済は時と所すなわち縁に応じて適宜適切である 
【HP作成者感想】
 正面から、この和讃を拝読しますと、まことに難解です。
 名畑応順師の現代訳を読んでも、現代の群萌である私どもには依然として難解です。 しかし、左訓や名畑師の語釈をたよりにその意味をたどっていきますと、親鸞聖人がここで述べんと しておられることがらを、私なりにイメージできるような気がします。 
 十方三世の無量慧、すなわち、あらゆる時空に遍満する宗教的真実、これを真如というかあるいは真如を体とする阿弥陀仏というか、あるいは諸仏というか、いずれでもよいのですが、 平たく言えば“ほとけ”です。 その仏は、二智円満道平等、すなわち往相迴向と還相迴向が一体となって調和し、現実世界と浄土の世界を平等に摂取して捨て給わず。 現実世界においては本願他力の信において、自由な創造の世界が開かれ、死しては仏に摂取され浄土にあるという、そういう世界があるのではないでしょうか。いや、そういう世界があるというよりも、そういう世界なのではないでしょうか。 この生死の世界は。

                            〔今月はこれで終わります。〕



◎今月の言葉(2012年5月)

親鸞和讃より16


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(19)
佛慧功徳(ぶつえくどく)をほめしめて
十方の有縁(うえん)にきかしめん
信心すでにえんひとは
つねに佛恩報ずべし

『名畑応順師 通訳』
(19) 
 弥陀の智慧(光明)功徳を
 ほめたてまつって、
 十方世界の有縁の衆生に
 聞かしめよう。
 既に信心をえた人は常に仏恩を
 報謝せねばならぬ。

◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
佛慧功徳:大慈大悲と功徳とを。
◎ 名畑応順師語釈
 仏慧功徳:仏の智慧と依・正二報の功徳
 (注)依・正二報の功徳:依報は仏国土、正報は仏身(中村元著 仏教語大辞典より)。
    すなわち「浄土と浄土を建立された阿弥陀仏」と私(HP作成者)は理解しました。 
◎典拠: 『曇鸞大師「讃阿弥陀仏偈」』
 わが佛慧功徳を讃ずる音(こえ)、願わくはもろもろの有縁に聞かしめて、
 安楽に往生することを得んと欲するもの、あまねくみな意(こころ)のごとくにして
 障碍なからしめん。

【HP作成者感想】
いよいよ「讃阿弥陀仏偈和讃」の最後を味あわせていただくこととなりました。
よくよく振り返ってみれば、いかに人間としての智慧・才覚がすぐれていようと
その智慧・才覚だけで、いまここに生きている根拠・生きている本当に納得できる意味はわからない。
信心をいただくとは、生きていることの意味をいただくということではないでしょうか。
親鸞聖人はそのころの超一流大学とも言うべき比叡の山で二十年という厳し修行の月日を過され、それでもなお、
自らの生きる根拠、生きる意味を掴み取ることはできなかった。
その若き日の親鸞が山を降りて吉水の法然聖人の門をたたかれ、そこに生死出ずべき道を与えていただかれた。
生れがたくして生れた自らの人生においてこれ以上の慶びがあるでしょうか。
そして生きていることの意味を弥陀の迴向によって知らされ、納得したものは、全ての人間に訪れる
死という事実をも納得することができるのではないでしょうか。
「生けらば念仏の功積もり、死なば浄土に生れなむ。」とした法然聖人のおことばが
力強く、生き生きと私たちの胸に浸み込んできます。
生に納得し、死に納得する、これほど素晴らしい現世利益はほかにあるでしょうか。
これこそ真実信心の世界です。
したがって、このようなすばらしい功徳が生れる信心を既に頂いた人は
これを十方の有縁に伝えたい、曇鸞大師がこのように讃阿弥陀仏偈で歌い上げ、親鸞聖人も同感だと
讃阿弥陀仏偈和讃で歌われているこの事実は、まことにもっともな、自然な願いではないでしょうか。
したがってこれは、「自信教人信」のまことを尽くせと、他の人に押し付けるのではなく、やむにやまれぬ
自らの実存の叫びなのではないでしょうか。 

                            〔今月はこれで終わります。〕

                


◎今月の言葉(2012年6月)

親鸞和讃より17


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(1)
 至心信楽欲生(ししんしんぎょうよくしょう)
   十方諸有(じっぽうしょう)をすゝめてぞ
  不思議の誓願(せいがん)あらはして
  真実報土(しんじつほうど)の因とする

(2)
 真実信心うるひとは
  すなはち定聚(じょうじゅ)のかずにいる
  不退(ふたい)のくらゐにいりぬれば
  かならず滅度(めつど)にいたらしむ

『名畑応順師 通訳』
(1) 
 第十八願に、わが誓願の真実を深く信じて、わが国へ生れようと思えと、
如来があらゆる衆生に呼びかけて勧められ、誓願の不思議を現わして、
(その信心を)真実報土へ往生する因とせられる。

(2)
 第十一願の意。他力真実の信心を獲る人は即時に正定聚不退の位に入る。
不退の位に入ってしまえば、必然的に涅槃に至らしめるのだ。
◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
(1) 諸有:諸有衆生というは、二十五有の衆生なり。
   二十五有:衆生が流転輪廻する生死の世界を二十五種に分けたもの。(仏教語大辞典)
         この和讃では流転輪廻する衆生のことを指している。
(2) 至心信楽の信は、信心は信なり。真実は至心のこゝろなり。
◎ 名畑応順師語釈
(1) 至心信楽欲生:第十八願の三信(三心ともいう)
          三信:至心、信楽、欲生を三心といい、この三つは
              ともに純粋の信心であるから三信という。
   すゝめて:弥陀が勧めて
(2) 真実信心:(1)の至心信楽を承ける。
   定聚:正定聚=他力念仏の人
   滅度:涅槃の訳語(nirvanaの漢訳)=生死の因果を滅したこと
       =さとり、さとりの境界。度は(彼岸に)わたる、の意。
◎典拠: (1) 第十八願には『もし私が仏になろうとするとき、十方の衆生が
 こころをこめてわが願いの真実を深く信じ、わが国にうまれようとおもい
 乃至十念を称えた結果、もし生まれなければ私は仏にならない。』といい、
 その願成就の文には『あらゆるの衆生がその名号のいわれを聞いて、信心歓喜し一度なりとも
 念仏を称えたならば、こころをこめた弥陀の迴向に依って、彼の国に生れようと願えば
 たちまち往生をすることができ、不退転に住することができる』とある。
 これらによってこの和讃をつくられたのである。(柏原祐義『三帖和讃講義』より意解)
(2) 法蔵菩薩の第十一願『もし、私が仏になるとき、国内の人々が正定聚に入り、
 かならず滅度にいたることができぬようなら、私は決してさとりを開きません。』に依られた。
                             (本願寺出版 聖典意訳 『浄土三部経』より)
【HP作成者感想】
この2首の和讃は、『浄土和讃』の内「大経のこころ」にある二つを選んだものです。
(1)は大無量寿経上巻の法蔵菩薩の四十八願中の第十八願を、
(2)は同じく第十一願のこころを親鸞聖人がよまれたものです。
さて、(1)の第十八願の文言は法然や親鸞の思想の中核を占めることばであって、
これなしには法然・親鸞の思想を考えたり味わったりすることはできません。
ですから、あまりにも重要なことばであるだけに、かえって、これを、あれこれと
あげつらうことを控える、あるいは、まったく問題とせず、そのままにしておく
傾向があるのではないでしょうか。
しかし、末法の現代に生きる私にとっては、この問題を極限まで吟味せず、
納得せずに、親鸞聖人の思想を考えることはできません。
ところが、まことに嬉しいことに、この「本願」について、私のような者にも
納得できる答えを提示していただいている書物に出遇うことができました。
それは、執筆時に四天王寺国際仏教大学名誉教授であられた金治勇師が著された
『本願の宗教』でした。しかも、私にとりましては、その序文にある文言だけで充分でした。
 次に、序文の文章とはいえ少し長くなりますがこれをご紹介いたします。
ここで金治勇師は次のように述べておられます。
『それでは「本願の宗教」とは何でしょうか。端的にいうならば、本願にめざめて
本願に生きる宗教ということでありますが、それでは本願とは何かといえば、直ちに
思い出されるのが法蔵菩薩の四十八願であります。しかし、わたしたちは四十八の
一々の願にとらわれる必要はない。大事なことは、その底に流れる根本の願いが
何であるかということです。そしてそれは、一切の衆生をして、真実永遠のいのちに
蘇らしめたいということではないでしょうか。真実のいのちとは、衆生もろもろのいのちの
根源としての大いなる久遠のいのち、すなわち「いのちのいのち」ということであります。

天地宇宙がそれによって貫かれているとみるとき、天地宇宙はそのままにして
一大生命体でなければなりません。われわれ人間はもとより、生きとしいけるすべての
ものは、みなそれより生まれ、それによって生かされて生きているのです。ー中略ー
人間の根本的な救済は、大いなる根源的いのちに復帰するよりほかありません。
無量寿仏といい、阿弥陀仏というのも、要はそのような宇宙を貫く根源的いのちに
名づけられた仏号ではないでしょうか。それならば本願とは、衆生個別のいのちを
根源的いのちへと引き戻す求心力とみてもよいでしょう。
それを言葉で表わせば
“われに帰れよ”との呼び声となります。「南無阿弥陀仏」が本願招喚の勅命と
いわれるのはそのゆえでありましょう。 』
 わたしは、長い間 「本願」 という、親鸞思想の根本的キーワードが分かりませんでしたが
上の金治勇師の言葉によって「本願」の真実を胸に刻んでいけるようになりました。
 しかも、この本願は十劫のという無限の過去に既に成就されているのです。
したがって、私たちは、この本願を信じ、念仏すれば、浄土に往生できるのです。
すなわち、この本願なしには納得できなかった「生死の意味」が納得できるのです。
(2) そして、(2)の和讃においては、上の(1)と重なるかもしれませんが、
第十一願からとられた
『真実の信心をいただければ、即時に正定聚のかずに入ることができ
そしてこの不退の位に入ることができれば、かならず涅槃のさとりを開くのだ。』
との文言はこの上なくわたしたちのこころをよろこびの中に納得させていくれますが
これもひとえに(1)における、本願の受け取りをいただいた結果であります。
そしてこの往生浄土の事実は決して、命終ののちのことのみではなく
この煩悩にまみれている私が現に生きている今において、かぎりなく浄土の風景を
味わせていただける事柄なのではないでしょうか。
清沢満之の『われ他力の救済を念ずるときは、われが世に処するの道開け』
とは、この事実をいっているのではないでしょうか。
そしてまた、このことは逆にいえば、
この世において、真実信心をいただき、正定聚不退の数に入ることができなければ
命終の後の浄土往生もおぼつかないのではないでしょうか。そして、この不信の状態では
またまた、生死流転の輪廻がくりかえされることになる、ということではないでしょうか。
現代において、ほとんど死語となっている『流転輪廻』ということばが、真実味をもってくる
ということでもありましょう。         皆様のご批判を仰ぐところです。


                            〔今月はこれで終わります。〕



◎今月の言葉(2012年7月)

親鸞和讃より18


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(1)
  弥陀・釈迦方便して
  阿難(あなん)・目連(もくれん)
  富楼那(ふるな)・韋提(いだい)
  達多(だった)・闍王(しゃおう)
  頻婆娑羅(びんばしゃら)・耆婆(ぎば)
  月光(がっこう)・行雨(ぎょうう)
(2)
  大聖(だいしょう)おのおのもろともに
  凡愚底下(ぼんぐていげ)のつみひとを
  逆悪もらさぬ誓願に
  方便引入(ほうべんいんにゅう)せしめけり
(3)
  釈迦・韋提方便して
  浄土の機縁熟すれば
  雨行(うぎょう)大臣證(しょう)として
  闍王(しゃおう)逆悪興(こう)ぜしむ
  
 

『名畑応順師の通訳を参考にしHP作成者が試訳』
(1)
 弥陀と釈迦は巧みなてだてで
 阿難・目連・富楼那・韋提・達多・闍王・
 頻婆娑羅・耆婆・月光・行雨等によって
 王舎城の悲劇を演じさせた。
(2)
 すなわち、弥陀・釈迦をはじめとして上記聖者たちが
 善悪・男女・父子・君臣のそれぞれとなって現れ
 地上に弥陀の本願を説くために
 凡愚底下の逆悪の罪びとであるわれわれを
 もらさず摂取する誓願に誘引したもうたのである。
(3)
 釈迦や韋提が方便して、浄土教を信受する機縁が熟すると
 雨行大臣を証人にして、闍王に逆悪を行なわしめた。

◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
(1) 行雨:或本「雨行」と注す
(2) 凡:おうよそ   愚:ただうと(われわれのことか)    
   底:われらは大海の底に沈めりとなり。   
    逆:というは五逆なり。悪は十悪なり。
(3) 熟:うむ(熟(う)む)、かなう(適(かな)う)
   證:かなう、 さとる
  興:おこす(興(おこ)す)
◎ 語釈
(1)  阿難・目連・富楼那:釈尊の弟子
   頻婆娑羅:マガダ国王(ガンジス河流域の古代インドの大国のひとつの王。この国には釈尊に関連しては竹林精舎や霊鷲山があった。)
   韋提:韋提希夫人(頻婆娑羅王の夫人)
   達多:提婆達多(阿闍世王をそそのかして阿闍世の父である頻婆娑羅王を幽閉させたとされる)
   闍王:阿闍世王(頻婆娑羅王の子息、父との諍いから父母を幽閉した)    
   耆婆・月光・行雨:阿闍世王の家臣
(2) 大聖:上に列挙する諸聖    凡愚:われわれ凡夫を指す   
   底下:至って賤しい    逆悪:五逆十悪  
(3) 浄土の機縁:浄土教を信受する機縁(機縁=時機と因縁)
   雨行大臣證として:提婆が闍王に父王に対し逆悪を行なうようにそそのかした言葉の内容を證明させて。
   雨行:行雨と同一人。
◎典拠: (1) (2) ともに、ここぞという出拠の文はない。おそらく観経一部があらわす意を探り
  また、涅槃経のこころなどによってつくられたものと考えられる(柏原祐義著「三帖和讃講義」を参照)
【HP作成者感想】
この3首の和讃は親鸞聖人が浄土和讃の内『観経意(かんぎょうのこころ)』と題して作られた和讃の中の3首です。観無量寿経からの物語のあらすじを申し上げますと、釈尊が御在世のとき古代インドのマガダ国の王 であった頻婆娑羅王をその子阿闍世が提婆達多の讒言をもとにして殺害しようと牢獄に閉じ込めます。王の妻である韋提希夫人は体に密を塗って牢獄を訪れ、夫の餓死を防ぎます。そのため阿闍世は夫人も牢獄にとじ こめられ苦しめます。結局、王は牢獄で死んでしまいます。事の発端は王と韋提希夫人の間には子供がなかった。占い師に聞くと、占い師は「今、山にこもって修行している仙人がやがて死んで王と夫人の子供として生れる べく夫人のおなかに宿る」と予言します。王は一刻も早く子供が欲しいと、仙人の死が待ちきれず、家来に命じてこの仙人を殺します。その結果韋提希夫人は懐妊しますが、この事実に占い師は驚き悔やんで「殺害され た仙人は王と夫人の子供となって生まれ、成長してきっと王を害するでしょう」と予言します。夫人は無事男の子を出産しますが、占い師の予言を恐れた王はこの子を高楼から投げ落として殺そうとします。しかし子供は 指一本を傷つけただけで生き残ります。その子が阿闍世太子であると提婆達多は阿闍世に讒言し、雨行もその事実を知っていたので証人として間違いない事だと阿闍世に伝えたのです。阿闍世は提婆の言と雨行の証明により、このことを信ずるに至り、上記のように両親を害するに至ったのです。韋提希夫人はお釈迦様に、このような讒言をしたのはお釈迦さまの従兄弟の提婆達多ではないかといささか恨み言と共に、 このような愚痴の自分たちにも救いの道はあるだろうかと教えを請います。お釈迦様は観無量寿経の後半で、このような罪悪に満ちた人間が救われる道を韋提希夫人に説かれます。このような一連の王舎城の悲劇のもつ 意味を親鸞聖人はこれら3首の和讃で示しておられるのです。「NHKこころを読む」の放送において「親鸞和讃 信心をうたう」と題して講話された上野学園大学の坂東性純師は上記のような貪欲・愚痴・瞋恚に満 ちた物語の意味を『お釈迦さまが阿弥陀さまの本願、すべての悪人を救わなければやまないという広大な誓願、つまり純粋な「救済意思」をこの娑婆世界にはっきりと示すために仕組まれた一つの巧みなお手だてであると 親鸞は見ました。』と述べておられます。親鸞聖人は、この「観経のこころ」と題する一連の和讃で、観経後半が説く難解な救済方法の記述よりも、前半の貪・瞋・痴に満ちた王舎城の悲劇に重点を置いて和讃をつくり、この悲劇 の中から、すべての悪人を救わねばやまない広大な仏の意思を強調しておられると受取るべきでしょう。しかし、ここで私たちは、このような仏の誓願をありがたいことだとのみで素通りしていいものでしょうか。 私はこれら一連の和讃で親鸞聖人は阿闍世や提婆の悪を語る中で、私の中の根源的な悪に目覚めよと説いておられるものと思います。いくらか仏教に関心があるような生活をしていても、念頭に浮かんでくるのは 貪・瞋・痴の思いばかり、さらにもっと根本的には、動植物を問わず、他の生命を貪らねば生きて行けない根源的な悪を持つ身であること。このことは、とても自然の摂理であるなどと現在の人間がいえるものでは ないということを、親鸞聖人は私たちに問いかけておられるのではないでしょうか。

 〔今月はこれで終わります。〕
                           

  


◎今月の言葉(2012年8月)

親鸞和讃より19


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)
念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし
摂取(せっしゅ)してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
  
 

『名畑応順師の通訳を参考にしHP作成者が試訳』
十方無量の世界の念仏の衆生を照らし観られて
(おさ)めとって捨てられないから、
阿弥陀と名づけ奉るのである。
(阿弥陀の名義を讃える)
 (註) 名義:名と意味
◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
・微塵:細かなるちり      
・摂取:おさめとる、  ひとたびとりて、長く捨てぬなり。摂はおさめとる。 取は迎えとる。
◎ 語釈
十方微塵世界:十方の微塵数の世界。無量無辺の世界
◎典拠: 善導大師の著した「往生礼讃」に
「かの仏の光明は無量にして十方国(こく)を照てらすに障礙するところなし。
ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨すてたまはざるがゆゑに
阿弥陀と名づけたてまつる。 」
今は主にこの意(こころ)を顕したもうたのである。
(柏原祐義著「三帖和讃講義」を参照)
【HP作成者感想】
 今月は親鸞和讃の中の浄土和讃にある「弥陀経のこころ」と題する五種の和讃の内から一首を選びました。
 この和讃は、三世十方のあらゆる世界を自らとされる大きないのち、すなわち阿弥陀仏を讃嘆する詩(うた)と 考えていいでしょう。私たちは自分で生きているように思っているが、出る息入る息、心臓の鼓動、 はたまた現前一念の心の起滅も一つとして自らの意思ではたらいているものはないことを考えると 私たちは、すべて大きな阿弥陀仏のいのちの中で、そのはたらきそのものとして生かされていることを 実感できます。自らのはたらきのみでなく、この世に起る全ての事柄で他力すなわち弥陀のはたらきに よらずに起こるものは一つもないと俳優の三国連太郎さんも言っておられれますが、すべて因と縁によって おこることがらであり、そしてこの因縁こそ他力であるということを曽我量深師は編者 津曲淳三氏による 「曽我量深対話集」でいわれています。したがって、我々が生きているということ、世界が有りて時々刻々 はたらき変化しているということも、すべて如来大悲のはたらきとして起滅しているのだということが 実感できます。生のみがわれらにあらず、死もまたわれらなりとは、まさにこのことをいうのでしょう。 生は大悲の中にあり、死もまた大悲の中にあり、われわれは小さな自己の生死を思い煩うことは ないといえるのではないでしょうか。

                                     

〔今月はこれで終わります。〕
                           

                                        
◎今月の言葉(2012年9月)

親鸞和讃より20


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性(ぶっしょう)なり
仏性すなわち如来なり
  

 

『名畑応順師の通訳』
仏法を聞いて信心歓喜(かんぎ)する人は
仏となるに決っているから、この人をほめて如来とひとしと説かれる(華厳経)。
この大信心(他力の信心)によって仏性を開覚するから、
大信心は仏性であり、仏性は即ち如来であり涅槃である(涅槃経)。

◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
・大信心:われらが弥陀の本願他力を信じたるを大信心といふ。
      無上菩提に至るを大信心といふなり      

◎典拠
この和讃の典拠について
最初の二句は「華厳経」の入法界品 晋訳
(原文)聞↢此法↡歓↢喜信心↡、无↠疑者、速成↢无上道↡。与↢諸如来↡等
(和文)この法を聞きて信心を歓喜(かんぎ)して、 疑いなきものは、 すみやかに無上道を成ならん。 もろもろの如来と等(ひと)し
また、後半の二句は「涅槃経」の獅子吼品
(原文)大慈大悲名為↢仏性↡。何以故。大慈大悲常随↢菩薩↡、如↢影随↟形。一切衆生畢定当↠得↢大慈大悲↡、是故説言↢一切衆生悉有仏性↡。大慈大悲者名為↢仏性↡、仏性者名為↢如来↡。
(和文)大慈大悲を名づけて仏性(ぶっしょう)とす。 なにをもってのゆゑに、 大慈大悲はつねに菩薩に随(したがふ)こと、影の形に随(したがふ)がごとし。一切(いっさい)衆生、 つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。
このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。 大慈大悲は名づけて仏性とす。 仏性は名づけて如来とす。
に拠られている。
【HP作成者感想】
 親鸞聖人は大経・観経・阿弥陀経の三経を讃嘆する和讃を作られた後、三部経以外の諸経から、
自らの信心に基づいて、いくつかの和讃を造られています。
 その内の一つで、私たちの普段の浄土教への見方を超えた、目の覚めるような和讃が
今月の和讃です。
上の典拠にありますように、この和讃の前の二句は「華厳経」から、後半の二句は「涅槃経」からとられたものです。
『信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ』 親鸞聖人は、まず「華厳経」を引用して、このように説かれます。
そして後半の二句で『大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり』このように「涅槃経」には説かれているぞ、
と私たちに示しておられます。名畑応順師は、この前半の二句を『仏法を聞いて信心歓喜(かんぎ)する人は
仏となるに決っているから、この人をほめて如来とひとしと説かれる』と現代意訳されています。
『仏となるのにきまっているから』ということばをここに入れなければいけないのでしょうか。
この言葉は、命終の後、仏となるのにきまっているからということなのでしょう。
しかし、わたしには親鸞聖人はこのような挿入句をいれることが必要だと言外に思っておられるとはとても思えません。『信心よろこぶそのひと』とは、まさに『如来のいのちをいただいているとよろこんでいるその人』だと憶うのです。この世で、脈々と血潮のながれている信心の人だと思うのです。
 また、『大信心は仏性なり仏性すなわち如来なり』。大信心というのですから、如来にいただいている信心なのです。この大信心こそいま生きている信心の人にやどっている大信心なのではないでしょうか。
私にはこのようにおもえるのです。すなわち信心とは、それがたとえ大信心であっても、この世における信心なのではないでしょうか。「信心よろこぶそのひと」とはこの世において今、脈々と生きている真実信心の人ではないのでしょうか。『大信心は仏性なり、仏性すなわち如来なり』における「大信心」はこの世における「大信心」なのではないでしょうか。
 このように云うと「一益法門」の邪義であるという声が聞こえてきそうです。この世で、煩悩にまみれたこの身が
どうして『如来とひとし』といえるのか、この有漏穢身のままでの大信心がどうして仏性といえるのか。などなど。
まことにそのとおり、煩悩のかたまりである私は、まことに『如来と同じ』などといえるわけがありません。
しかし一方で大信心をよろこぶことができるならば、その人には、この世において、まがうかたなき如来のはたらきが脈々と息づいている人ではないでしょうか。それを「如来とひとし」と云ってはいけないのでしょうか。そのような大信心を「仏性」といっては、どうしていけないのでしょうか。
 私はふとこのようなことを思います。この和讃を造られた親鸞聖人の中には「信心よろこぶその人」を
まさに生きてこの世におられたころの法然上人を指しておられるのではないでしょうか。
親鸞聖人は生きて衆生済度に日々いのちをかけておられる法然上人を、如来の生まれ変わりと信じておられたのではありませんか。
ところで蓮如上人はいっておられます。浄土真宗のまことの義は「現当二益」だと、
まったく賛成です。正定聚も如来のはたらきによるもの、現世において正定聚にあるものはまさに命終すれば
真実大きな如来のいのちのなかに溶け込んで、往生浄土となる。「現当二益」です。
大信心も如来の本願力によるものであれば正定聚も如来の本願力によるこの世でのあり方であるはずです。
この世においても全てのことは如来の本願力によりもので、すべて絶対他力の掌中にあるものです。
ですから、この世において仏に遇わなければ、むしろ命終の後の往生浄土もおぼつかないのではないでしょうか。

                                     〔今月はこれで終わります。〕
                           

                                                                                                
◎今月の言葉(2012年10月)

親鸞和讃20(現世利益和讃より)


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

南無阿弥陀仏をとなふれば
この世の利益(りやく)きはもなし
流転輪廻(るてんりんね)のつみきへて
定業中夭(じょうごうちゅうよう)のぞこりぬ
  

 

『名畑応順師の通訳』
名号を称えれば現世の利益が無限であって、迷界を流転する因となる罪障が消滅し
定業によって短命である場合にも若死することが免ぜられる。(念仏に延年転寿の益があるという。)


◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
 ○本和讃には特に左訓にあたる文言はありません。

◎典拠
善導大師の「観念法門」中に
(1)滅罪増上縁(めつざいじょうぞうえん)といふは、すなはち 観経(かんぎょう)の下品上生(げぼんじょうしょう)の人のごときは、 一生つぶさに十悪の重罪を造つくる。 その人病を得て死せんと欲(ほっ)するに、 善知識の、 教へて弥陀仏を称すること一声(いっしょう)せしむるに遇ふ。 すなはち五十億劫の生死(しょうじ)の重罪を除滅す。 すなはちこれ現生滅罪増上縁(げんしょうめつざいぞうじょうえん)なり。
(2)また護念増上縁(ごねんぞうじょうえん)といふは、すなはち第十二の観 (観経・意) のなかに説きてのたまふがごとし。 「もし人ありて、 一切(いっさい)の時処(じしょ)、 日夜に心を至して弥陀の浄土の二報(にほう)荘厳(しょうごん)を観想(かんそう)し、 もしは見、 見ざるも、 無量寿仏無数(むしゅ)の化仏(けぶつ)を化作(けさ)し、 観音・大勢至(だいせいし)また無数の化身(けしん)をなして、 つねにこの行人(ぎょうにん)の所に来至(らいし)したまふ」 と。 またこれ現生護念増上縁(げんしょうごねんぞうじょうえん)なり。
(以上が柏原祐義師が典拠としてあげられた文ですが、HP作成者としては、さらに同じく善導大師の「観念法門」中の下記(3)、(4)、二つの文を典拠としてあげさせていただきたいと思います。
(3)また下品下生(げぼんげしょう)の人のごときは、 一生つぶさに五逆極重の罪を造る。 地獄を経歴(きょうりゃく)して苦を受くること窮(きわ)まりなし。 罪人病を得て死せんと欲するに、 善知識の、 教へて弥陀仏の名(みな)を称すること十声(じっしょう)せしむるに遇ふ。 声々(しょうしょう)のうちにおいて八十億劫(こう)の生死(しょうじ)の重罪を除滅す。 これまたこれ現生滅罪増上縁(げんしょうめつざいぞうじょうえん)なり。
および
(4)また弥陀の浄土の依正二報(えしょうにほう)の荘厳(しょうごん)を称揚(しょうよう)し礼讃(らいさん)し、 また三昧(さんまい)の道場に入るを除きて、 日別に弥陀仏を念ずること一万して、畢命(ひつみょう)相続するものは、 すなはち弥陀の加念を蒙(こうむ)りて罪障を除くことを得。 また仏、 聖衆(しょうじゅ)とつねに来たりて護念(ごねん)したまふことを蒙むる。 すでに護念を蒙むりぬれば、 すなはち延年転寿(えんねんてんじゅ)、 長命(じょうみょう)安楽なることを得う。 因縁の一々つぶさには譬喩経(ひゆきょう)・惟無三昧経(ゆいむさんまいきょう)・浄度三昧経等に説きたまふがごとし。 これまたこれ現生護念増上縁なり。
【HP作成者感想】
名畑応順師が訳されている「南無阿弥陀仏を称えれば、この現世での利益は無限であって、迷界を流転する因となる罪障が消滅する」という、この和讃の初めから三句の意味はよくわかります。
すなわち、典拠となる上記善導大師の「観念法門」の(1)および(3)の文「弥陀仏を称すること一声(いっしょう)せしむるに遇ふ。 すなはち五十億劫の生死(しょうじ)の重罪を除滅す。」を参照すれば、親鸞聖人がこの初めの三句を上記典拠の(1)および(3)によってつくられていることが素直にうけとれます。しかし、この和讃の第四句目「定業中夭のぞこりぬ」、この部分を名畑応順師の訳で「定業によって短命である場合にも、若死にすることが免ぜられる」というところは正確に和讃の意を汲んだ訳であることに変わりはないのですが、現代の人間としてどのようにこれを受け取ればいいのでしょうか。これは上記善導大師の「観念法門」中の「護念得長命増上縁」にあたる文で、具体的には上記典拠の(4)の内の「すでに護念を蒙むりぬれば、 すなはち延年転寿(えんねんてんじゅ)、 長命(じょうみょう)安楽なることを得。」に拠られているということはわかりますが、実際に名号を称えれば定業によって人生途中で夭折して短命であるときまった者も長命になるというということは、とうてい現代人の私にはとても信じられず、むしろこれでは安っぽい現世利益宗教がいうことのように受取れます。また、それがいくら真実信心を得たならばという仮定のもとであっても、「真実信心を得たならば、定業で短命と決った人も長命をいただくことができる」と解する場合も、とても頷けるものではありません。いったこの部分は現代的にはどのように解釈すればいいのでしょうか。
 私はこのことがらを次のように受取ればいいのではないかと思っています。すなわち、人間はもって生れた凡夫としての感覚では10歳で死のうと、30歳で死のうと、50歳で死のうと、70歳で死のうと、いやそれどころか90歳を超えても、もっと生きたいという思いにかられるのではないか、とすれば、その人にとって、いくつで死んでも短命であり、中夭であるということになるのではないか。すなわち、人間はいくつで死んでも中夭であり、そのひとにとっては短命であるということではないでしょうか。しかし、そのような人にとって、南無阿弥陀仏を称え、真実信心の人になれば、生きている今も、そして命終った後も、他力の源泉である個人を超えた大きないのち、すべての事柄の生成流転の源泉としてのおおきないのちのいのちの中で生き、そして摂取されているのだから、小さな個人のいのちの問題はたちどころに解消するのではないでしょうか。そのことをこの和讃では「南無阿弥陀仏を称ふれば、定業中夭のぞこりぬ」という言葉で表わしているのではないでしょうか。すなわち、いつまでも生きたいというはかない希望よりも、流転輪廻の繋縛から解放され、自然法爾に生死する世界が開けることを指し示しているのではないでしょうか。このような世界が開けた人を正定聚・等正覚の人というのではないでしょうか。
 ところで、文明本の現世利益和讃は15首あり、この和讃を含めて、多くが冥衆護持の益、すなわち観音・勢至、普賢・文殊、弥勒等の諸大菩薩や、梵天・帝釈天や大魔王にいたる一切の善悪の鬼神に至るまですべての冥衆が信心の人をかげとかたちのごとく護ろうと誓い、諸仏護念の益、すなわち十方諸仏も百重千重に囲繞(いにょう)して信心の人をよろこび護りたまふという、そのような和讃で構成されています。これら冥衆や諸仏も、すべて
大きな「いのちのいのち」である阿弥陀仏のもとで、信心の正定聚のひとの御同朋御同行として、生死世界いずれにおいても、かげとかたちのごとくに信心の人とともにあると受取ればいいのではないでしょか。

                                    

 〔今月はこれで終わります。〕
                           

   
◎今月の言葉(2012年11月)

親鸞和讃21(高僧和讃1 龍樹菩薩より)


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(1)
南天竺(なんてんじく)に比丘(びく)あらん
龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)となづくべし
有無(うむ)の邪見(じゃけん)を破すべしと
世尊(せそん)はかねてときたまふ
  
(2)
本師(ほんじ)龍樹菩薩は
大乗無常(だいじょうむじょう)の法をとき
歓喜地(かんぎじ)を證してぞ
ひとへに念佛すゝめしむ

(3)
龍樹大士(りゅうじゅだいじ)世に出でて
難行易行(なんぎょう いぎょう)のみちおしへ
流転輪廻(るてんりんね)のわれらをば
弘誓(ぐぜい)のふねにのせたまふ

(4)
不退(ふたい)のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬(くぎょう)の心に執持(しゅうじ)して
弥陀の名号称すべし

(5)
生死(しょうじ)の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
 

『名畑応順師の通訳』
(1) 南天竺に龍樹と名づける僧がでるであろう。
 そして世の人の多くが片寄っている有無の邪見を破るであろうと、釈尊は早く予言し給う。
(2) 龍樹は大乗のこの上もない本願の法を説き、
   みずから歓喜地をさとり、(浄土に生れて成仏すべき身として、)ひとえに念仏を勧めた。
(3) 龍樹菩薩は世に出現して、
  仏法に難行易行の二道のあることを教え
  生死の迷いに流転するわれら凡夫をば、
  特に易行の本願他力に乗託させ給うた。
(4) 現身に於いて、速やかに不退の位に到らんと思う者は
  謙虚で敬虔な心を堅持して、弥陀の名号を称えよ
(5) 無辺の生死の苦海に常に沈没している我ら凡夫をば
  弥陀の本願一乗の船のみが、
  乗せて必ず渡すのであった。


◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
 (1) 南天竺に比丘あらん:これより南、海の中に楞伽山の主大鬼王あり。大乗の法を愛するによりて、釈迦如来わたらせ給ひて、法を説いて聞かせ給うついてに我入滅の後に幾いくらありて、龍樹世に出でて外道を伏すべしと、かねて説き給ふ。
 (2) 歓喜地:歓喜地は正定聚の位なり。身に喜ぶを歓といふ。心に喜ぶを喜といふ。得べきものを得てむずと思ひて喜ぶを歓喜といふ。
 (3) 大士:大きなる人といふなり。
    難行易行:〔難〕かたし、〔易〕やすし。 
    難は聖道門、易は浄土門なり。
 (4) 恭敬:つつしみうやまふ。小乗をば供養といふ。大乗をば恭敬といふ。
    執持:一たびとりて長く捨てぬにかく。不散不失に名づく。
 (5) 特に左訓はありません。

◎典拠(高木昭良師著「三帖和讃」の意訳と解説による)
(1)および(2)の和讃:『楞伽経』巻九に「南大国中に於て、大徳の比丘有り、龍樹菩薩と名づけん。
 能(よ)く有無の見を破し、人の為に我が法の大乗無上法を説き、歓喜地(かんぎじ)を証得して安楽国に往生せん。」とあるによったもの。
(3) 龍樹の「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」の易行品(いぎょうぼん)の「仏法に無量の門有り。
世間の道に難有り易有り、陸道の歩行(ぶぎょう)は則(すなわ)ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し、菩薩の道も亦(また)是(か)くの如し。或は勤行精進(ごんぎょうしょうじん)のもの有り、或は信方便(しんほうべん)の易行を以て、疾(と)く阿惟越致地(あゆいおっちじ)に至るもの有り。」の文による。
(4) 同じく易行品(いぎょうぼん)の「若し人疾く不退転地(ふたいてんじ)に至らんと欲(おも)ふものは、応(まさ)に恭敬心(くぎょうしん)を以て、執持(しゅうじ)して名号を称すべし。」による。
(5) 同じく易行品の「彼の八道の船に乗じて、能(よ)く難度海(なんどかい)を度す、自ら度し亦た彼を度せん、我自在人を礼したてまつる」によったもの
【HP作成者感想】
 今回から高僧和讃に入りました。高僧和讃は先ず龍樹菩薩の讃嘆から始まります。今月は上記五首の和讃で、龍樹菩薩のみ教えを聞きたいと存じます。
 上掲第一首目の(1)の和讃では釈尊が、ご自分の入滅後しばらくして南天竺(南印度)に龍樹という名の菩薩が現れ、“有無”の邪見を破すだろうと予言されることが詠われています。「正信偈」では“釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見”のところです。釈尊の予言は楞伽経(平凡社「世界百科事典」によりますと、楞伽経の成立年代は紀元400年をやや下ったころとなっていますので、釈尊はもちろん、紀元150~250年頃に活躍したといわれる龍樹よりも後に成立した経といえます。)巻九にある記述です。したがって、この予言は歴史的事実ではないことはいうまでもありませんが、大切なのは龍樹の大乗仏教における偉大なはたらきを讃え、そしてそのまず第一が“有無の邪見を破す”というところにあったことを示しています。ところで“有無”はどうして“邪見”なのでしょうか、これはなかなか難解な事柄です。考えてみますに、我々人間はことばを使います。他の動物にも非常に単純なことばらしきものはあるのかもしれませんが、人間ほど多彩で複雑なことばは使えません。人間のみがこのようなことばを使います。ことばはこの上なく便利なもので、それによって人間は他の動物には見られない勝れた文明を作り上げてきました。しかし、一方で、人間はことばによって地獄を見ることにもなったのではないでしょうか。その端的な例が、この“有無”ということばにもあるのではないか。すなわち、“有”の具体的な姿が、この世のすべてであり、そして自分であると。すなわちこの世の有ることを絶対視し、かつ、自分自身の今あることも絶対視する。そしてその絶対視の対象であるこの世や自分が、死によって無に帰する。これは耐えられないことではないでしょうか。すなわち地獄です。また、“無”ということがらに、更に“永遠”とか“絶対”とかいうことばが付け加わりますと、死後の“永遠の無”とか“絶対の無”などとなり、ますます地獄のイメージが強まります。しかし“有”ということは、それほど絶対的なものでしょうか、我々の五感が感じる“有”ということがらは、分子レベルや宇宙レベル、あるいは時間レベルで考えても、また仏教的な因果論から考えても、絶対的なものとはいえず、相対的なことがらではないでしょうか。また、無にしても、まったく人間の観念的な妄想の域を出ないことがらであり、誰も経験したことはありません。龍樹はこのような人間のことばからくる一種の妄想すなわち煩悩を打ち払う論を立て、有無を絶対視する邪見を退けたのではないでしょうか。
 このような“有無”の邪見を破した後、単に自らのみが救われて満足するのではなく、(2)の和讃で示されるように、大きな船に乗ってすべての人びとが共に救われる大乗無上の法を説いて、歓喜地というさとりの世界へ人びとを導きました。これを正信偈では“宣説大乗無上法 證歓喜地生安楽”と親鸞聖人は示されています。親鸞聖人はこの「歓喜地」について、「得べきものを得てむずと思ひて喜ぶを歓喜といふ」と左訓されています。「むずと思ひて喜ぶを歓喜」とはなんとすばらし表現でしょうか。親鸞聖人の歓びがあたたかい体温となって私たちに語りかけておられる気がします。
 また龍樹は上記和讃の(3)にありますように、人間が自らの生きざまに納得し、死の必然に納得する、すなわち“さとり”の境地に至る道に、難行道と易行道があることを示しました。難行とは人間のできるあらゆる善行、苦痛をともなうあらゆる修行など、自らの極限の力をふりしぼった修行の結果で、目的の“さとり”を得る。龍樹はこれを“陸路”の苦痛を伴った行にたとえました。それに対して、自ら、そのような厳しい修行ではさとりの境地に達するのぞみのない人は仏の本願を信じ念仏するとともに、すべてを仏の迴向(はたらき)にゆだねる生き方があることを示し、水路を仏の船にすがって、ただ信心と念仏によってさとりの岸に到達することができる道を示し、これを易行道と名づけました。これが上記(3)の和讃で詠われている内容です。これを「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽 憶念弥陀仏本願 自然即時入必定」と親鸞聖人は正信偈で示されています。ところで、これは、さとりに至るには難易二道があるということを示されているように思われますが、はたしてそうでしょうか。わたしは思うのですが、如何に足掻こうとも死ぬまで煩悩の繋縛から抜け切れない人間には結局、易行による道しかないのではないか。仮に究極の厳しい難行の結果神仏をまのあたりに見たり、あるいはさとりを開くことができたというような思いに至りついたとしても、これは結局意識もうろうの状態での妄想でしかありえなのではないか。むしろ平常の意識の中において、自らは大いなるいのちに源泉を持つ他力摂取の海の中にあるという易行道の信においてのみ人間は自らのありようの真実に至るのではないかと思うのです。このことはもちろん自らの力ではなく、大いなる仏の本願他力の迴向によるものであることはいうまでもありません。このことが上記(4)の和讃で詠われている、自らの力ではなく、ひとえに仏の他力迴向による不退の位であり、これにはただただ恭敬のこころをもって、弥陀の名号“南無阿弥陀仏”を称名する以外にないのではないか。そこにおいてのみ(5)でうたわれているように、生死の苦海にひさしく沈む、煩悩具足の私たちを、弘誓の大いなる船に引き上げられてやがては弥陀の浄土に摂取される身となるのではないかと思うのですが如何でしょうか。
                                 

 〔今月はこれで終わります。〕
                           


◎今月の言葉(2012年12月)

親鸞和讃22(高僧和讃2 天親菩薩より)


-『岩波文庫 名畑応順校注 親鸞和讃集』による-
(ふり仮名は現代風の読みに変えました。)

                                                      

(1)
 天親論主(てんじんろんしゅ)は一心(いっしん)
無碍光(むげこう)
に帰命(きみょう)
本願力(ほんがんりき)に乗(じょう)ずれば
報土(ほうど)にいたるとのべたまふ

(2)
 本願力(ほんがんりき)にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし

『名畑応順師の通訳』
(1)
天親菩薩は、我は一心に無碍光仏に帰命する、
本願力にうちまかせれば(一心に無碍光佛に帰命する意)、
真実の報土に至るのである宣(の)べられる
(2)
本願力を信ずれば、空しく生死に流転する者はない。
名号の功徳がその身に満ちみちて、煩悩の濁り水をも同化して差別がない。

◎『左訓』
(左訓は本文の作者が付けたのか、後人が書き加えたのか、不明なものも多少あるが、
作者でなければ、書き得ないと考えられるものが大部分であり、いまは作者の自記とする)
                             (名畑応順校注 親鸞和讃集 凡例より))
(1)、(2)ともに左訓は特にありません。

◎典拠(高木昭良師著「三帖和讃」の意訳と解説による)
(1)
 天親菩薩の「浄土論」のはじめの「世尊、我一心に盡十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)に帰命したてまつりて、安楽国に生(しょう)ぜんと願ず」および、
同じく浄土論の偈文の最後「願わくは弥陀仏を見たてまつり、あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。」によられている。
(2)
 同じく「浄土論」の偈文の中ほど「仏の本願力を観ずるに、遇(あ)ひて空しく過ぐる者なし」、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」の文によられたもの。
【HP作成者感想】
 今月は天親菩薩についての10首の和讃の内、上記(1)と(2)の和讃を選び味あわせていただくことにしました。
文明本の高僧和讃においては上記(2)のほうが(1)よりも先に記載されていますが、典拠となった天親菩薩の「浄土論」においては、むしろ「浄土論」の冒頭の偈文「世尊、我一心に盡十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」を典拠とした上記(1)を先とし、そして偈文の後半に出てくる「仏の本願力を観ずるに、遇(あ)ひて空しく過ぐる者なし」が後に出てきますので、(2)を上記ニ首の後半に載せました。
 さて、まず(1)の和讃ですが、「天親論主は一心に無碍光に帰命す」となっており、これはいかにも天親菩薩が自らの意思で無碍光佛に帰命されたように読めますけれども、無碍光佛に帰命するとは、即ち帰命せしめられたのであり、他力による帰命であると私は受取りました。そしてそのことは即ち、他力=本願力でありますから、本願力に乗托せしめらるれば、そこは既にして報土(浄土)であることになります。
 このように、仏の本願とは、すべてにおいて仏 御自らの功徳を我々衆生に迴向される事柄であり、われわれ衆生の全ては仏の本願力、すなわち他力の掌中にあることになります。その本願力によって、仏は、我々衆生を “ことごとく仏にするぞ” と根本のことばによって日々われわれ衆生を生かしめておられるわけでありますから、これは(2)の和讃で高らかに讃嘆されているように「本願力に遇いぬれば、空しく過ぐるものぞなき・・・」となるのであり、“空しく過ぐる者ぞなし”とは、まさに“功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし”ということではないでしょうか。 私はそのように受取らせていただきました。
                                           

   〔今月はこれで終わります。〕