仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2018年1月)

恵信尼の第五書簡と歎異抄第四条


 先月にも、すこし触れましたが、恵信尼の第五書簡を読んで、この中での親鸞聖人のことばと、唯円が伝える歎異抄第四条において浄土の慈悲として聖人が述べられていることばとが、伝わる経路は別々であっても、両者は全く同じ意味合いをもつことばであることは、私、ホームページ作成者にとって大きな驚きでした。ところで、歎異抄第四条において唯円が伝える親鸞聖人のことばとして「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏となりて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」には、歎異抄をよむ人々の間でいろいろ議論があるということがいわれています。今回は、第四条のこの部分について私(HP作成者)の考えを述べさせていただき、併せて恵信尼の第五書簡を味あわせていただきたいと思います。そのために、歎異抄第四条と前回表示した恵信尼公第五書簡の両方を原文で表示させていただきます。

歎異抄第四条
 慈悲に聖道・浄土(しょうどう・じょうど)のかはりめあり。
 聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
 浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心(だいじだいひしん)をもって、おもふがごとく、衆生(しゅじょう)利益(りやく)するをいふべきなり。
 今生(こんじょう)に、いかに、いとをし、不便(ふびん)とおもふとも、存知(ぞんち)のごとくたすけがたければ、この慈悲、始終(しじゅう)なし。
 しかれば、念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心(だいじひしん)にてさふらうべきと云々(うんぬん)


             恵信尼公第五書簡(原文)
 ぜん((善)しん(信))(おん)(ぼう)くわんぎ((寛喜))三年四月十四日むまの((午))時ばかりより、かざ((風邪))心ち、すこしおぼえてそのゆふ((夕))さりより、((臥)()て大事におはしますに、こし((腰))ひざ((膝))をも、うたせず、てんせい、かんびやう人((看病人))をもよせず、たゞ、おと((音))もせずして、臥しておはしませば、御身をさぐれば、あたゝか((温か))なる事、火のごとし、(かしら)のうたせ給事も、なのめならず、さて、臥して四日と申あか月((暁))、くるしきに、まはさてあらんと、おほせらるれば、なにごとぞ、たわごととにや申事かと申せば、たわごとにてもなし、ふして二日と申日より、大きやう((大経))を、よむ事ひまもなし、たまたま目をふさげば、経のもんじの、一字ものこらず、きららに、つぶさにみゆる也。さてこれこそ心へぬ事なれ、念仏の信じんよりほかには、なにごとか、心にかゝるべきと思て、よくよく案じてみれば、この十七八ねんがそのかみ((以前))、げにげにしく、三ぶきやう((三部経))せんぶ((千部))よみて、すざうりゃく((衆生利益))のためにとて、よみはじめてありしを、これはなにごとぞ、じしんけう人しん((自信教人信))なんちゆう((難中)てんきやうなむ(転更難))とて、身づから((自ら))信じ人をおし(( 教えて))へ て信ぜしむる事、まことの(( 仏)おん(恩))を、むくゐたてまつる((報い奉る))ものと信じながら、みや((名)うがう(号))のほかには、なにごとの、ふそくにて、かならず、きやう((経))をよまんとするや、と思かへして、よまざりしことの、さればなほもすこし、のこるところのありけるや、人のしうしん((執心))じりきの((自力の)しん(心))は、よくよくしりよ((思慮))あるべしと、おもひなしてのちは、きやう((経))よむことは、とゞ(( 止))まりぬ。さて、ふして(( 臥して))四日と申あか月(( 暁))、まはさてあらんとは申也と、おほせられ((仰せられ))て、やがて、あせたり((汗垂))て、よくならせ給て侯し也。
 三ぶきやう((三部経))げに(( 実に))げにしく、千ぶ(( 千部))よまんと侯し事は、しんれんば((信蓮房))うの四のとし、むさし((武蔵))のくにやらん、かんづけ((上野))のくにやらん、さぬき((佐貫))と申ところにて、よみはじめて。四五日ばかりありて、思かへして、よませ給はで、ひたち((常陸))へ は、おはしまして侯しなり。しんれんぼう((信蓮房))は、日つじ((未))とし((年))、三月三日の(( 日))に、むまれ((生まれ))て侯しかば、ことしは、五十三やらんとぞおぼえ侯。   こうちやう((弘長))三ねん二月十日   ゑ信


【HP作成者感想】
 上記タイトル「恵信尼の第五書簡と歎異抄第四条」の中の文章で「恵信尼公第五書簡」での親鸞のことば「この十七八ねんがそのかみ((以前))、げにげにしく、三ぶきやう((三部経))せんぶ((千部))よみて、すざうりゃく((衆生利益))のためにとて、よみはじめてありしを、これはなにごとぞ、じしんけう人しん((自信教人信))、なんちなんちゆう(難中)てんきやうなむ(転更難))とて、身づから((自ら))信じ人をおし(( 教えて))へ て信ぜしむる事、まことの(( 仏)おん(恩))を、むくゐたてまつる((報い奉る))ものと信じながら、みや((名)うがう(号))のほかには、なにごとの、ふそくにて、かならず、きやう((経))をよまんとするや、と思かへして、よまざりし」という部分と「歎異抄第四条」の『浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり』の部分は称名念仏のみが浄土の救いであるという点で全く同じ内容であるということに驚いたと申し上げました。「恵信尼公第五書簡」のこの部分を読むことにより、それまで「歎異抄第四条」のみを読んで『浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて・・・・』という文章の難解さにお手上げであった私ですが、すこしこのあたりの難解の扉が開きかけた思いがしました。なぜなら、「歎異抄第四条」のみならば、この「浄土の慈悲といふは念仏していそぎ仏になって・・・・」という部分、これははたして唯円が親鸞聖人のいわれたことばを正確に伝えているのだろうかという疑問の黒い雲が沸々と沸いていたからです。しかし、聖人が別のところ、すなわち、「恵信尼公第五書簡」でも同じことばを私たちに投げかけておられるのを読んで、親鸞聖人は称名念仏こそ根源的な衆生利益の行であることを、しばしば口にされていたということがわかり、唯円はやはり、親鸞聖人の思いを正確に伝えているのだなということがわかったからです。しかし、それにしても「聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。」という我々の現実感覚として非常に分かり易い文章に対して、「浄土の慈悲といふは念仏して、いそぎ仏になりて」という部分は、聖道の人々が、懸命に瀕死の人を救おうとして努力している傍らで、浄土の人は、それを見ながら、ただ念仏のみをしているのかという、まことに下世話な思いにとらわれてしまうからです。いったい、この浄土の慈悲をどのように受けとればいいのか、まことに思い悩んでしまいます。しかし、まず、歎異抄第四条の「念仏して、いそぎ仏になりて・・・」の“仏になる”のは、いのち終わってから。これは親鸞聖人が教行信証、信の巻で「念仏の衆生は、横超の金剛心を究むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」といわれていますから。すなわち、念仏の衆生は、臨終を経て、いのち終わった瞬間に大般涅槃を超証して仏になるのです。それに対して、聖人は、その前に「まことに知んぬ、弥勒大士は、等覚の金剛心を究むるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚を究むべし。」と述べています。しかし、弥勒大士が、無上覚を究めて仏になるのは五十六億七千万年後なのです。念仏の衆生が仏になるのは、弥勒大士に比べて、圧倒的に速いのです。“いそぎ仏になりて”の意味はここにあります。つまり、聖道の慈悲と浄土の慈悲は併行して起るのではないのです。危機にある人があれば聖道の人も浄土の人も一緒になって、懸命に救おうとするのです。しかし、人のすることは有限です。この慈悲始終なしです。しかし、このときです。このとき浄土の慈悲はスタートするのです。念仏する浄土の人は、念仏の生涯を送り、いのち終われば、即座に、まさに“いそぎ”仏になりて、思うがごとく衆生を利益するのです。全ての人が仏になれるように。思うがごとくです。  このことについて、思うところがあります。また、これは、丁度大無量寿経下巻の最後のあたりに書かれているように、末法の時代を経て法滅の時代となり、聖道の慈悲がすべて無効になるときがきても、なお、浄土の慈悲は残って、人々を利益するという大無量寿経下巻の最後あたりのことば、『当来(未来)の世に経道滅盡(きょうどうめつじん)せんに、われ慈悲を以って哀愍して、特にこの経をとどめて止住(しじゅう)すること百歳せん。それ衆生ありて、この経に値(あ)ふものは、意(こころ)の所願に随ひてみな得度すべし』ということばが浮かんできます。[(註)百歳=満数の意、いつまでもということ<本願寺出版「真宗聖典」より>])
 ところで、恵信尼の第五書簡と歎異抄第四条は、どちらも念仏することが最終的な衆生利益の道であることを述べているのは同じですが、一つだけ違うところがあります。それは、第五書簡には、恵信尼書簡16頁最後の行からの親鸞のことば「じしんけう人しん、なんちうてんきょうなむとて、身ずから信じ人をおしへて信ぜしむる事、まことの仏おんを、むくゐたてまつるものとしんじながら、みやうがうのほかには、なにごとの、ふそくにて、かならず、経をよまんとするや」というのが、歎異抄第四条にはありません。第五書簡に、このことばがあることは、歎異抄第四条を超える素晴らしさではないでしょうか。このことを思うと、いつか、この読書会でも、どなたかが紹介されていた、曽我量深さんのことば、『如来は我なり、我は如来にあらず、如来我となりて、我を救い給う』。および、以前の読書会でお示しした安田理深さんのことば『信心に眼が開けば地獄に落ちてもそこが浄土。信心がなければ浄土におっても地獄』。そして元をたどれば、それらは、明治の清澤満之の『臘扇忌』のことば(自己(じこ)とは()なし。絶対(ぜったい)無限(むげん)妙用(みょうゆう)乗托(じょうたく)して、(にん)(うん)(ほう)()(この)境遇(きょうぐう)(らく)(ざい)るもの、(すなわ)ち是なり。 只夫(ただそれ)絶対(ぜったい)無限(むげん)(じょう)(たく)す。(ゆえ)死生(しせい)(こと)亦憂(またうれ)ふるに()らず。死生(しせい)尚且(なおか)(うれ)ふるに()らす。如何(いか)(いわ)んや、(これ)より而下(じか)なる事件(じけん)(おい)ておや。追放可(ついほうか)なり、(ごく)(ろう)(あま)んずべし。誹謗(ひぼう)擯斥(ひんせき)許多(きょた)凌辱(りょうじょく)(あに)()(かい)すべきものあらんや)。これらのことばに通ずる、諸先輩方の自信教人信のことばであり、親鸞思想の究極の救いを表す言葉ではないかと、あらためて思うところです。

以上、昨年8月より私なりに味わわせていただいた恵信尼文書は、今月で終わります。来月からは、これも親鸞聖人の生涯に大きな影と、それを超える光をもたらした善鸞義絶にまつわるお手紙を読み進めたいと思います。親鸞が去って十年以上経た関東には、親鸞浄土教は悪人正機だからと曲解し、悪はおもうさま行なってもよいのだという放逸無慚な連中を、法然聖人や親鸞聖人が営々と培ってきた真実の浄土教に導くようにと、わが子善鸞を関東に派遣しましたところ、現地に慣れない善鸞は関東の主要な親鸞の門弟たちともうまくいかず、あげくの果てに、自分こそ父親鸞から特別な教えをひそかに伝授されているのだと、関東の古くからの念仏者にたいして、およそ親鸞浄土教とは相いれない教義を振り撒く結果となり、関東の念仏者の間に大混乱がおこることになります。このあたりの事柄を、親鸞が善鸞に与えた書簡、その混乱に巻き込まれた門弟たちに与えた書簡などをとおして読みすすめ、結果として善鸞に義絶を通告するという、親である親鸞にとっては、まことに痛恨この上ない事柄であったわけですが、それにもかかわらず、親鸞は真実の浄土教を伝えようとする強靭な自信教人信の精神のもとに、善鸞や門弟達との書簡のやりとりをしています。来月からは、このあたりの書簡を読み進めることによって、はたして、善鸞にまつわるこの事件は何だったのかを考えていきたいと思います。

 

●今月の言葉(2018年2月)
慈信坊義絶の経緯


慈信房義絶状(古写書簡第三通)
 おほせられたる事くはしくきゝてさふらう。なによりは、いみむばうとかやと、まふすなる人の、京よりふみをえたるとかやとまふされさふらうなる、返々ふしぎにさふらう。いまだかたちおもみず、ふみ一度もたまはりさふらはず、これよりもまふすこともなきに、京よりふみをえたるとまふすなる、あさましきことなり。又、慈信房(じしんぼう)のほふもんのやうみやう((名目))もくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる((夜))親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房まふされてさふらうとて、これにも常陸(ひたち)下野(しもつけ)の人々は、みなしむらむ((親鸞))が、そらごとをまふしたるよしをまふしあはれてさふらえば、今は父子の((義))はあるべからずさふらう。又、のあまにもふしぎのそらごとをいひつげられたること、まふすかぎりなきこと、あさましうさふらう。ぶの女房の、これえきたりてまふすこと、じしむばう((慈信坊))たうたる((賜うたる))ふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてさふらうめり。慈信房がふみとてこれにあり、そのふみつやつや((まったく))いろはぬことゆえに、まゝはゝにいゐまどわされたるとかゝれたること、ことにあさましきことなり。よにありけるを、まゝはゝのあまのいゐまどわせりといふこと、あさましきそらごとなり。又、この世に、いかにしてありけりともしらぬことを、みぶのにょうばうのもとえも、ふみのあること、こゝろもおよばぬほどのそらごと、こゝろうきことなりとなげきさふらう。まことにかゝるそらごとどもをいひて、六波(ろくは)()のへむ、かまくらなむどに、ひろう((披露))せられたること、こゝろうきことなり。これらほどのそらごとはこの((世))のことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり、いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいひつけたること、こゝろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふ((謗法))のとが、又五逆(ごぎゃく)のつみをこのみて、人をそむじ((損じ))まどわさるゝこと、かなしきことなり。ことに破僧(7はそう)の罪とまふすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちゝをころすなり。五逆のその一なり。このことゞもつたえきくこと、あさましさまふすかぎりなければ、いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり。三宝(さんぼう)神明(じんみょう)にまふしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさむと、このまるゝときくこそ、こゝろうくさふらえ。しむらむ((親鸞))がおしえにて、ひたちの念仏まふす人々を、そむ((損))ぜよと慈信房におしえたると、かまくらにてきこえむ

こと、あさましあさまし。


  五月廿九日            (在判)
     同六月廿七日到来
     建長八年六月廿七日註之(これをしるす)
  慈信房御返事
嘉元(かげん)年七月廿七日書写了



現代語訳
 申されたこと、くわしく聞きとりました。なによりも。哀愍房とか申す人物が京都の私から手紙をもらったとか申したというのは、かえすがえすも考えられないことです。まだ顔も見たことがなく、手紙も一度だってもらったことはない。こちらからも手紙を書いたこともないのに京の私から手紙をもらったというのは、まことにあきれたことです。またあなた(信房)がいう教え(教義)のことは、その名さえ聞いたこともなく、私が全く知らないことを、わたしが、あなた(慈信)ひとりに夜、教えたなどと、人にいいふらしているといって、このことについても、常陸(ひたち)下野(しもつけ)の人々はみな、親鸞はうそを申したのだと話し合っているとか。もはや、これでは父子の義はありえないことです。また、の尼についても、思いもつかない虚言をいいふらしたこと。言葉にいえない。あさましいことです。(壬生)の女房がきて申すことには、これは慈信房からいただいたものですと持ってきた手紙、それがいまここにある。この手紙は、まさしくあなたが書いたものだが、継母に言い惑わされたと書かれてある。あさましいかぎりである。生んでくれた母の恵信尼について、継毋の尼の言い惑わしなどと、これは思いもよらぬうそである。また、どうして生れたか知りもしないことを、みぶ(壬生)の女房のもとまでも書き送るなど、想像もおよぱぬほどの虚言で、ただなさけないかぎりである。まったく、このようなうそをついて、六波羅や鎌倉などまで披露(ひろう)したとは、なさけないことである。しかし、これほどの虚言も、この世のことであるから、どうでもよろしい。それでも、うそをつくということは、なさけないことである。いかにいわんや、往生極楽の大事を(あざ)むきだまして、常陸(ひたち)下野(しもつけ)の念仏者たちを惑わし、親に虚言をなすりつけるとは、なさけないかぎりである。第十八の本願を、しぼめる花にたとえて、人々に捨てさせたということは、まさに謗法(ほうぼう)の罪をおかせるもの。また、このんで五逆(6ごぎゃく)の罪をおかし人々をあやまり惑わすなど、かなしいことである。とりわけ僧のつみというのは、五逆罪の一つである。わたしに虚言をおしつけたのは、父を殺すことであって、また五逆罪の一つである。このようなことを伝え聞くことは、あさましいかぎりであって、いうべき言葉もない。もはや、親ということはあり得ない。子とおもうことは思いきった。三宝(さんぼう)神明(じんみょう)のまえに誓言した。かなしいことである。わが法門とはちがうなどといって、常陸の念仏者たちを惑わせようとしたなどとは、聞くもなさけないこと、親鸞のさしずで。常陸の念仏する人々をつぶせといられたなどと、鎌倉に申しでたなど。あさましいかぎりである。
  五月二十九日               (在判)      同六月二十七日到来
     建長八年(一二五六)六月二十七日これを註する
 慈信房 御返事
     
嘉元三年(一三〇五)七月二十七日書写しおわる

 

【HP作成者感想】
 この義絶状に書かれている次の二つの事柄については、現在もいろいろと論議されています。すなわち
(1) この義絶状は親鸞の直筆ではなく、義絶された年から数えて49年後の1305年に 、親鸞の門弟、真仏の跡を継いだ顕智によって書写されたものであることから、親鸞が本当に作成したのかどうかという点について、いろいろ疑義が出されているということ。
(2) 慈信房善鸞が、母である恵信尼を継母であるかのようなことを言いふらしていることから、恵信尼は本当に善鸞の実母であったのかどうかという疑義があること。
以上の2点です。現在も、いろいろと議論されているようですが、どちらについても、事実としての決定的な証拠はなく、憶測の域を出でず、わからないということが、結論ではないかと思われます。 いずれにしても、これらのことは、事実かどうかという事柄であって、「こころの言葉」として、どうかということとは別の事柄であると考えます。
 ところが、この義絶状の中で、もう一つ、まことに重要な、親鸞の思想の根幹をなす事柄、すなわち「第十八の本願」について、善鸞がこれを“しぼんだ花”にたとえて、人ごとに、みな棄てさせているということ。このことは、まさに、往生極楽の大事を善鸞が言い惑わしているということであって、この事こそ、生涯をとおして説き続けてきた宗教的真実を貶める痛恨の事柄であり、義絶に値することであると考え、その決断を下したことは、まことに、もっともな事柄であって、現代も、だれも、そのことの是非に言及する人はいません。私も、親鸞が自らの宗教のいのちと考える「第十八の本願」にたいする、善鸞の仕打を許すことができなかったのは、当然の事柄であると考えます。ところが、ところがです。振り返って、私自身が、この「第十八の本願」を、ほんとうに、文言どおりに信じうるのか、信じているのか、といわれると、まことに、おぼつかないというか、いや、本当の心底を申し上げれば、とても「第十八の本願」にしろ、四十八願中のそのほかの本願にしろ、経典に記されている、その文言どおりには信じることが出来ないというのが正直なところです。まさに煩悩の眼をもってすれば信じることは不可能であるということでしょうか。また、次のような表現もあるようです。「煩悩の眼をもっては、到底、信じることはできない。だから、これは、只々、おまかせするばかりである。」、しかしこれも納得できません。すなわち信ずることができないのに、おまかせすることができるでしょうか。おまかせするという言葉の中には、すでに信じているということが前提となっているのではありませんか。また、「不条理ゆえに、我信ず」ということばもあるそうです。しかし、これは、不条理で理に合わないから、条理の物差しには適合しないから、信ずるしかない。」、これも、納得できません。すなわち、これでは、信ずるということが、何の根拠もない空虚な事柄になってしまうからです。それでは、やはり、煩悩の眼をもってしては、「本願」は信ずることができないことなのでしょうか。すなわち、「本願を信じ、念仏すれば仏になる」という歎異抄のことばは、煩悩の世界から抜けられない、生きている私には成就できないことなのでしょうか。仏の本願をしぼんだ花にたとえて、人ごとにみな棄てまいらせたという善鸞ですが、私の場合と、善鸞の「しぼんだ花」の認識とどこが違うのでしょうか。親鸞聖人のように、一途に本願を信じ、念仏する存在とはおよそかけはなれた私であることがわかります。このような、煩悩をもったままの私ですが、それでも、なんとか振り返って更に考えてみると、なにか大いなる存在によって生かされているということ、すなわち他力によって、ここにこうしていま生かされている存在としての私であるということは、太古からの因と縁によってここにこうして有らしめられているのが私であるということを考えれば、何となく、わかるような気がします。それでは、このような他力の根源である絶対無限ともいえる大いなるあるものは、私を懐き留め、摂取して捨てない存在なのか、あるいは、ほんの一時的な存在の私を、無限の闇の中に捨て去る存在なのか、どちらなのでしょうか。この時点で、煩悩をもったままの私が信じうるのは何かということを考えてみまと、それは「真実の親」としての大いなる存在ということではないでしょうか。なるほど新聞紙上などを見ますと、現実の親の中には信じることができない親は沢山います。しかし、これらは真実の親ではないといえるのではないでしょうか。では真実の親とは、どのような親でしょうか。石見の才市妙好人なども、よく「親さま」という言葉を使っています。すなわち、真実の親である阿弥陀如来を指しているのでしょう。すなわち、太古の昔、すなわち、宇宙の初めからの因と縁によって、私たちを、ここに、こうして在らしめた、「真実の親」です。この「真実の親」ならば信ずることができます。そして如来の本願は「真実の親の願い」と考えることができます。このような本願ならば、煩悩のまなこを持った私にも信ずることができます。真実の親はいのちを捨てても、子を救済するはずです。だから、そのような「真実の親の願い」である「本願」も、煩悩をもったままの私にも信じうるのではないでしょうか。したがって、「第十八の本願」をしぼめる花であるとたとえる、善鸞の見解を、危うく、避けることができるように思いました。 大変、稚拙な表現になりましたが、本願を辛うじて信じ得る私。今現在、太古からの如来のはたらき、すなわち大いなる他力によって、ここにこうして在らしめられている、一人の衆生として、生きている私。今も、そしていのち終わっても、大いなる弥陀如来に摂取されている存在としての私を感ずることができるように思うのです。


●今月の言葉(2018年3月)
慈信坊義絶の経緯2


慈信房義絶状(古写書簡第三通)
本願をしぼめる花にたとえたること
 この世に、いかにしてありけりともしらぬことを、みぶのにょうばうのもとえも、ふみのあること、こゝろもおよばぬほどのそらごと、こゝろうきことなりとなげきさふらう。まことにかゝるそらごとどもをいひて、六波(ろくは)()のへむ、かまくらなむどに、ひろう((披露))せられたること、こゝろうきことなり。これらほどのそらごとはこの((世))のことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり、いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいひつけたること、こゝろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふ((謗法))のとが、又五逆(ごぎゃく)のつみをこのみて、人をそむじ((損じ))まどわさるゝこと、かなしきことなり。



【HP作成者感想】
 先月は主に、関東に於いて、弥陀の本願を、しぼめる花にたとえ、こともあろうに、人々にも捨てさせたという善鸞の所業について、親鸞の宗教的いのちの根源を断つ許し難い事柄であるとして、やむなく義絶という事態になったことは、親鸞の善鸞に対する義絶状の中心的課題であることを、前回に、こもごも述べさせていただきました。そして、そのことについて、私は、どう考えるかということを自問して、私は果して、善鸞が本願をしぼめる花としたことについて、単純に非難することができるのかという観点から、自らの本願に対する信心のありかたを反芻し、本願という弥陀の誓願が、永劫の昔からの因果の結晶として私を、いま、ここに、このように有らしめ、摂取不捨の宗教的実体としての真実の親の願いだということで、辛くも、納得し信じることができるということを拙文で述べさせていただきました。
 しかし、その後、この問題は、全く別の観点から見るべきではないかという考えが浮かびましたので、それを、以下に述べさせていただきます。
すなわち、善鸞は親鸞の使命を受けて関東に下ったけれども、意外にも関東において、親鸞の教えを忠実に守って、それぞれの地域の教団を運営していた、親鸞の面授の門弟たちのグループからも、思っていたよりも冷たく接せられる現実に直面した可能性があります。それは、面授の弟子たちにとっては、今まで営々と築いてきた自分たちの教団の存立が、いきなり、飛び込んできた親鸞の実子善鸞の出現で、乱されないかという杞憂が、直弟子たちにあったからだと思われます。しかし、それがが事実であったかどうかは、ともかくも、後に、善鸞が、これら、直弟子のグループ(例えば性信の横曽根門徒)に対抗して、自らの門弟を獲得するためには、土地の守護・地頭など政治的権力者の力を借りて、直弟子たちの振舞を鎌倉に訴えたという善鸞の行動からも、善鸞の関東での立場を垣間見ることになります。そして、このような、土地の権力者と結んで、自らの勢力を伸長させようとしたとき、親鸞の教えにある悪人をも救うという弥陀の本願を否定することが、土地の権力者が、権力を維持するために最も求めていたことではなかったかということです。すなわち、善鸞は土地の権力者と結んで、自らの勢力を伸長させるためには、本願をしぼめる花として否定しすることが、彼(善鸞)の、宗教的立場とは別に、いわば勢力を伸長のための政治的原動力となったのではないかということです。しかし、このことも、実は、根本に還って、善鸞の本願に対するありよう、親鸞のような、体験に基づく深い受け取りがなかったことに、起因するものであると考えられます。いかがでしょうか、ご共感いただけるかどうかということは皆さまのご判断に委ねさせていただくところです。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年4月)
慈信坊義絶の経緯


善鸞義絶を性信に知らせる(親鸞聖人血脈文集「第二書簡」) 

一。この御ふみどもの (やう)、 くはしくみさふらふ。またさては慈信が法文(ほうもん)( やう)ゆへに、常陸・下野の人々、念仏まうさせたまひさふらうことの、としごろ ((年頃))うけたまはりたる様には、みなかはりあふておはしますときこえさふらふ。かへすがへすこゝろ うく((憂く))あさましくおぼへ侯。としごろ往生を一定 (いちじょう)とおほせられさふらふ人々、慈信とおなじ様に、 そらごと((空言))をみなさふらひけるを、としごろ ((年頃))ふかくたのみまいらせてさふらひけること、かへすがへすあさましふさふらふ。そのゆへは、 往生の信心とまうすことは、一念もうたがふことのさふらはぬをこそ往生(おうじょう)一定(いちじょう)とはおもひてさふらへ。光明寺( こうみょうじ)和尚( かしょう)の信の様ををしへさせたまひさふらふには、まことの信をさだめられてのちには、 弥陀のごとくの仏、 釈迦(しゃか)のごとくの仏、そらにみちみちて釈迦のをしへ弥陀 (みだ)の本願はひがごとなりとおほせらるとも一念もうたがひあるべからずとこそうけたまはりてさふらへば、 その様をこそ、としごろまうしてさふらふに、慈信ほどのものゝまうすことに、常陸(ひたち)下野(しもつけ)の念仏者の、みな御こゝろどものうかれて、はては、さしも、たしかなる 証文(しょうもん)を、ちからをつくしてかずあまたかきてまいらせてさふらへば、それをみなすてあふておはしまし さふらふときこえさふらへば、ともかくもまうすにをよばずさふらふ。 まづ慈信がまうしさふらふ法文の様、 名目(みょうもく)をもきかず、いはんやならひたることもさふらはねば、慈信にひそかにをしふべき様もさふらはず。 またよるもひるも慈信一人に、人にはかくして法文をしへたることさふらはず。もしこのこと慈信にまうしながら、そらごとをもまうしかくして、人にもしらせずしてをしへたること さふらは三宝(さんぼう)を本として三界( さんがい)の諸天・善神 四海(しかい)の龍神八部、閻魔王界( えんまおうかい)神祗冥道 (じんぎみょうどう)の罰を親鸞が身にことごとくかふりさふらふべし。 自今已後(じこんいご)は慈信にをきては子の儀おもひきりてさふらふなり。世間のことにも、 不可思議のそらごとまうすかぎりなきことどもをまうしひろめてさふらへば。出世のみにあらず世間のことにをきても、をそろしきまうしことどもかずかぎりなくさふらふなり。 なかにも、この法文の様きゝさふらふに、こゝろもをよばぬまうしごとにてさふらふ。つやつや親鸞が身には、きゝもせずならはぬことにてさふらふ。かへすがへすあさましふこゝろうく さふらふ。弥陀の本願をすてまいらせてさふらふことに人々のつき((付き))て、親鸞をもそらごとまうしたるものになしてさふらふ。こゝろうく、 うたてき((なさけない))ことにさふらふ。
 おほかたは『信抄』・『力他力の文』・ 後世(ごせ)ものがたりのきゝがき』・『念多念の証文』・ 『信鈔の文意(もんい)』・『念多念の文意』、これらを御覧じながら、 慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の弥陀の本願をすてまいらせあふてさふらふらんこと、まうすばかりなくさふらへば、 かやうの御ふみども、これよりのちにはおほせらるべからずさふらふ。また『宗のきゝがき』、 性信房のかかせたまひたるは、すこしもこれにまうしてさふらふ様にたがはずさふらへぱ、うれしふさふらふ。『真宗のきゝがき』一帖はこれにとゞめをきてさふらふ。また 哀愍房(あいみんぼう)とかやの、いまだみもせずさふらふ、またふみ一度もまいらせたることもなし、 くによりもふみたび((賜び))たることもなし。親鸞がふみをえたるとまうしさふらふなるは、おそろしきことなり。の『唯信鈔』、かきたる様あさましうさふらへば、火にやきさふらふべし。 かへすがえすこゝろうくさふらふ。このふみを人々にもみせさせたまふべし。あなかしこ あななしこ。

  五月廿九日          親鸞

 性信房 御返事
 (15)をなおよくよく念仏者達の信心は一定(いちじょう)とさふらひしことは、みな御そらごとどもにてさふらひけり。これほどに第十八の本願をすてまいらせあふてさふらふ人々の御ことばをたのみまいらせて、としごろさふらひけるこそ、あさましうさふらふ。このふみをかくさるべきことならねば、よくよく人々にみせまうしたまふべし。



現代語訳
お手紙などのおもむき、くわしく拝見いしました。ところで、慈信(善鸞)が云っている法門のおもむきゆえに、常陸・下野の人々の念仏もうすありさまは、年来うけたまわっていた趣きとは、すっかり変ってしまったと聞きおよんでいます。かえすがえすも情けない、驚きいったことであります。年来、往生は定まったといっておられた人々も、慈信とおなじく、みなうそを申していたのを、長い間、信頼していたのが、かえすがえすも情けなく思われます。けだし、往生の信心というものは、一念も疑うこころのないことをこそ、往生一定とはいうのであります。明寺の和尚(善導(ぜんどう))が信のありようを説かれたことばにも、まことの信を決定してののちには、弥陀や釈迦のような仏たちが空にみちみちて、たとえ釈尊のおしえも、弥陀の本願も、すべて虚妄(こもう)であると云われても、露ばかりのうたがいもなくなる、と述べられているのでその趣きをこそ年来もうしてまいりましたのに、慈信程度の未熟ものの申すことで、常陸・下野の念仏者たちが。みんな金剛心無く心うかれ、その結果は、あれほどの確かな聖教類(しょうぎょうるい)を、一生懸命にたくさん書いて与えたのに、それをみんな捨ててしまったということ、いずれにせよ申すことばもないことであります。
 まず慈信がもうしたという教えのおもむきは、あのような教義の名前 はきいたことがなく、ましてや習ったこともないのであるから、ひそかに慈信におしえたなどありようもない。また、夜も昼も、人にかくして慈信だけに特別の教義を教えたこともありません。もし、そのようなことを慈信だけに教えながら、うそをついて隠しているようなことがあったならば宝をはじめ、界の諸天・善神、四海の竜神八部、魔王界の神祇冥道(じんぎみょうどう)の罰を、親鸞一身に、ことごとく蒙ることになるでしょう。慈信については、今より以後、父子の儀を断ちました。俗世間のことについても、思いもよらぬ虚言、申してはならないことまでも申しひろめているのですから、仏道のことのみでなく、俗世間のことにおいても、恐ろしいほどの申しようを数かぎりなく申しているのです。なかでも、その教義の内容は、伝え聞くところ、想像もおよばぬところであります。親鸞が身には、いままできいたこともなく、ならったこともないことであります。かえすがえすも、あきれるばかりにて、ただ、なさけないことであります。
 弥陀の本願を捨てた慈信房の考えに、ひとびとがつき従って、親鸞をもうそいつわりをいう者におとしいれました。 情けなく、不愉快なことであります。 たいていの人は、『信鈔』、『力他力事』、
世物語聞書』、『念多念証文』、『信鈔文意』、『念多念文意』、それらを読んでいながら、慈信の法門をきくと、おおくの念仏者がたちまち阿弥陀仏の本願を捨てたということは、いうべき言葉もないことでありますから、もはやそれらの書物のことは、これからさきは彼らには無用にしてください。   また、性信房の書かれた
真宗聞書(しんしゅうもんしょ)
』は、わたしの申している趣旨にすこしもたがわぬもので。うれしく思います。その一冊は手元にとどめおきます。また、哀愍房とかいうものは、いままで会ったこともなく、また一度も手紙を書いたこともなく、むこうから手紙をもらったこともない。親鸞から手紙をもらったといっているのは、とんでもないことでります。いまの『信鈔』の書かれている内容はひどいものですから火に焼いてください。かえすがえすも心憂(こころう)いことです。この手紙を人々にもみせられるがよろしい。

あなかしこ、あなかしこ。

  五月二十九日            親鷽

 性信房 御返事

 お、よく念仏者たちが、信心はゆるぎないといっておられたのは、みんないつわりでありました。第十八の本願を捨てた人々のことばを、ながいあいだ、これほどまで信頼してきたことが、嘆かわしいことに思われます。この手紙はかくすべきことではないから、よくよく人々に見せられるがよい。

【HP作成者感想】
 今回の性信房宛書簡は、まさに、聖人が高弟の性信房に対して、子息善鸞への痛恨の義絶状送付を知らせる書簡であり、また、これが善鸞への義絶状送付と同じ日付になっていることは、このことが、いかに聖人と関東の門弟たちにとって重大な事柄であり、また聖人と性信にとって急を要する必要事であったか、ということを表しています。善鸞宛への「義絶状」は、親鸞の思いも及ばない善鸞の教義や、行動(例えば面授の門弟たちを訴えるというような)に対する、親鸞の親としての失望と問責に満ちた内容になっているのに対して、性信宛ての書簡は、関東の信心堅固と信頼していた門弟の中に、善鸞の間違った教義によって、いとも簡単に信心が揺らいでしまっているということ対する、まことに残念な気持ちの表白であり、また、善鸞の言動によって、親鸞自身までがうそつきの汚名をきたことに対する憤りと弁明、そして、最後に哀愍房とやらが著したらしい、偽の「唯信鈔」を、ただちに焼き捨てよという激しいことばなどが、主な内容になっています。ここでは、これら二通の書簡に込められた、諸々の状況について、総合して取り上げ、検討してみたいと思います。
 その内で、義絶状にあった「本願をしぼめる花にたとえた」ということについては、1月と2月で論じたところですので、今月は、まず、義絶状は、はたして本当に聖人が書かれたものなのかという疑問が従来からあることです。今存在する義絶状は大正十年に真宗高田派の専修寺に伝わっていたことがわかったものです。ここでは、この方面の史実を常に検討しておられる、仏教者や歴史学者の論述を参考にしながら考えたいと思います。
 まず、義絶状は、親鸞聖人以外の人が偽作したものではないかという疑問です。たしかに、義絶状の最後に「嘉元三年七月廿七日書写了」とあり、これは、真宗高田派の顕智によって書写されたものであることがわかっています。そして、この嘉元三年(1305年)という年は義絶状が送られた年月日、建長八年(1256年)五月二十九日から49年の年月の隔たりがあります。なぜ49年も経ってから、わざわざ書写しなければならなかったのか。などを考えると、この義絶状の真・偽ということについて大きな疑問点の一つになることも考えられます。
◎ このことについて、仏教史学者 梅原隆章氏は、次のような点を挙げて、この義絶状は偽作されたものであることを述べておられます。
(一)この義絶状は、前半は候文であるが、後半は「…なり」という形で、文体が違う。
(二)義絶のことが二度も記るされているのは重複に過ぎる。
(三)五逆罪を以って慈信房をさばくのは親鸞らしくない態度である。
(四)義絶のことを三宝・神明に誓うのも親鸞らしくない。
◎ これに対して、仏教文学者 多屋頼俊氏は「日本古典文学大系82」において次のような点をを挙げて、この義絶状は、偽作されたものであるという根拠は薄いということを論じておられます。
 まず上記(一)や(二)に対して、 文体が乱れ、同じことを繰り返して記しているからといってそれは必ずしもこの消息が偽作であることの証明にはならないであろう。八十四歳の老人が激甚な衝撃を受けて、父子の縁を切る、というような非常特別な場合に臨めば、初めは候文で書き出しても、途中から文体が候文から、「…なり」に変ったり、同じことを二度書いたりするのも、むしろ自然なことと解することもできよう。もしこのような義絶状を何人かが偽作するとするならば、もっと整然とした文章にするであろう、ということも考えられる。
 また、この「義絶状」を書写したという顕智は、その義絶状の前・後、数年~十数年の間にも「三帖和讃」や、親鸞聖人の他の消息、あるいは「五巻書」などを書写しており、顕智は晩年になってしきりに聖人のものを書写している事実がみられることも、この義絶状が自然な形で書写されたもので、偽の書簡ではないことを物語っていると述べておられます。
◎ 歴史学者 今井雅晴氏は、偽作説の立場から、梅原氏の(一)〜(四)を挙げると共に、次のような点を挙げておられます。
それは、義絶状の最後に、聖人が義絶状を出したという「五月二十九日」の日付の次に、
「同六月廿七日到来」
「建長八年六月廿七日註之(これをしるす)
とあります。 この二行は、善鸞が、この義絶状を受け取った日付と、そのことをあらためて註記したことを記したものと今井氏は受取って、次のように、論じておられます。『「善鸞義絶状」は。五十年後に善鸞の敵方にあたる人(高田派の顕智)が写したものである、なんで敵方の人問が写すことができたのか。だいたい、義絶状がほんとうに書かれたとしても、善鸞にとって名誉なことではあるまい。破り捨てるか、そうでなくても他人にみられないようにするであろう。まして敵方の人が写せたなんて、私には「善鸞義絶状」の存在に何か作意があるような気がしてならない。』(今井雅晴著『親鸞とその家族』より)なるほど、この義絶状が親鸞から、善鸞に送られたとして、善鸞が、その義絶状の“当来日付と”、“それを註記した”記録のある書簡を、いわば善鸞が敵対していたであろう高田派の顕智が書写できるような場所にどうしてあったのか。“当来日付”とその“註記”を善鸞が記録したとするならば、いかにも奇妙なことです。
 ところがこれにも反論があります。
◎仏教史学者 平松礼三氏は、「たしかにこの註記は受信者善鸞が加えたものとしたら、実に不自然である。「なぜ注記があるのか」疑問なのは当然である。しかしそれは「善鸞が記入した注記」と考えたからであって、これが善鸞へ届けられた書状に加えられた註記ではなく、他の直弟たちに義絶の事実を周知するために作られた写しであって、これを受け取った者が「これは重要な書類だ」と感じ、さらに自分と同門の人々に告知する際の参考にと、受領月日を註記した、と見れば、何ら不自然ではない。むしろ当然の註記というべきだろう。
 繰り返すようだが、義絶状という文書は、相手に通知するだけで済む文書ではない。関係者へ告知するのが絶対に必要な文書であった。義絶状と同日付で書かれた性信房あての消息は、まさにそうした意味を込めて書かれていることはいうまでもない。そしてそのように別途消息を差し出すと同時に、義絶状の写しを作って、それを関係者へ配布した、それがこの顕智書写義絶状の底本となった書面と考えられる。」としています。

◎以上、義絶状の真・偽について、皆様はどのようにお考えになるでしょうか。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年5月)
慈信坊義絶の経緯


 今月は義絶状に記されている「ママハハ」の問題に関して、考えてみました。そのために、もう一度義絶状の本文を掲載します。したがって、2月に掲載しているこの部分の現代語訳の掲載は取りやめます。

慈信房義絶状(古写書簡第三通)
 おほせられたる事くはしくきゝてさふらう。なによりは、いみむばうとかやと、まふすなる人の、京よりふみをえたるとかやとまふされさふらうなる、返々ふしぎにさふらう。いまだかたちおもみず、ふみ一度もたまはりさふらはず、これよりもまふすこともなきに、京よりふみをえたるとまふすなる、あさましきことなり。又、慈信房(じしんぼう)のほふもんのやうみやう((名目))もくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる((夜))親鸞がおしえたるなりと、人に慈信房まふされてさふらうとて、これにも常陸(ひたち)下野(しもつけ)の人々は、みなしむらむ((親鸞))が、そらごとをまふしたるよしをまふしあはれてさふらえば、今は父子の((義))はあるべからずさふらう。又、のあまにもふしぎのそらごとをいひつげられたること、まふすかぎりなきこと、あさましうさふらう。ぶの女房の、これえきたりてまふすこと、じしむばう((慈信坊))たうたる((賜うたる))ふみとて、もちてきたれるふみ、これにおきてさふらうめり。慈信房がふみとてこれにあり、そのふみつやつや((まったく))いろはぬことゆえに、まゝはゝにいゐまどわされたるとかゝれたること、ことにあさましきことなり。よにありけるを、まゝはゝのあまのいゐまどわせりといふこと、あさましきそらごとなり。又、この世に、いかにしてありけりともしらぬことを、みぶのにょうばうのもとえも、ふみのあること、こゝろもおよばぬほどのそらごと、こゝろうきことなりとなげきさふらう。まことにかゝるそらごとどもをいひて、六波(ろくは)()のへむ、かまくらなむどに、ひろう((披露))せられたること、こゝろうきことなり。これらほどのそらごとはこの((世))のことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきなり、いかにいはむや、往生極楽の大事をいひまどわして、ひたち・しもつけの念仏者をまどわし、おやにそらごとをいひつけたること、こゝろうきことなり。第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにはうぼふ((謗法))のとが、又五逆(ごぎゃく)のつみをこのみて、人をそむじ((損じ))まどわさるゝこと、かなしきことなり。ことに破僧(7はそう)の罪とまふすつみは、五逆のその一なり。親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちゝをころすなり。五逆のその一なり。このことゞもつたえきくこと、あさましさまふすかぎりなければ、いまはおやといふことあるべからず、ことおもふことおもいきりたり。三宝(さんぼう)神明(じんみょう)にまふしきりおわりぬ。かなしきことなり。わがほうもんににずとて、ひたちの念仏者みなまどわさむと、このまるゝときくこそ、こゝろうくさふらえ。しむらむ((親鸞))がおしえにて、ひたちの念仏まふす人々を、そむ((損))ぜよと慈信房におしえたると、かまくらにてきこえむ

こと、あさましあさまし。


  五月廿九日            (在判)
     同六月廿七日到来
     建長八年六月廿七日註之(これをしるす)
  慈信房御返事
嘉元(かげん)年七月廿七日書写了

【HP作成者感想】
 次に善鸞義絶状の中に記されている「ママハハ」の問題です。義絶状についての多くの解説書では、特に論義なく“善鸞は親鸞の妻である恵信尼を指して
「ママハハ」だと言いふらしているという形で書かれています。しかし、この問題を何らかの根拠にもとづいて、恵信尼は本当に善鸞の「ママハハ」であるとか、
いや、そうではなく、恵信尼は善鸞の実母であると論じている解説書もあります。その点を紹介しながらこの問題を考えてみたいと思います。
 まず、歴史学者 I氏は、その著『善鸞とその家族』において、善鸞には恵信尼との接点がみられないということ。(例えば恵信尼文書においても、末娘の覚信尼のほかにも小黒の女房とか、栗沢の信蓮房、益方の道性など、あきらかに恵信尼の実子と考えれれる人々の名はでてくるのに慈信房善鸞の名は全く出てこない。 ) ( )内はHP作成者記述)。それどころか恵信尼のことを「ママハハ」と罵ったということに関して、50歳を過ぎていると考えれれる壮年の男(善鸞)が、こともあろうに、かりにも自分の実母との争いに、気に入らないからと云って実母に対して「ママハハ」と罵るというような、少年にも劣る言動をするかということはありえないということから、やはり恵信尼は善鸞の「ママハハ」だったのだと論じています。(実際、義絶状のころの善鸞の年齢は五十歳を過ぎていたでしょう。)( )部分はHP作成者記)。
 ところが、それに対して、やはり歴史学者H氏は、次のような論点を挙げて、この義絶状に出てくる、善鸞のいう「ままはは」は恵信尼ではありえないという論拠から、善鸞のいう「ママハハ」は恵信尼を指していないと述べています。すなわち、善鸞が「ママハハ」ということばを発したのは、善鸞と、ママハハが比較的近くにいるか、一緒に住んでいる関係において、義絶状からそう遠くない時期になされたと考えると、この時期に恵信尼は遠く越後の国にいたには間違いないと述べています。すなわち、恵信尼文書によると、この義絶状の書かれた建長八年五月から、そう遠くない七月と九月に、恵信尼は越後に居て、越後から京都の覚信尼のところへ手紙を書いています。その頃の交通事情等を考えると、そう簡単に越後から京都への移動もできないでしょうし、そのような記録もみつかっていないことを考えますと、恵信尼は京都の親鸞や、東国に行く前の善鸞のそば近くにはいなかったことになります。そうなると、善鸞が罵ったという「ママハハ」は誰かという事にもなりますし、また、ママハハに言いまどわされたといっているのは、はたして善鸞自身の事か、それとも、親鸞が「ママハハ」に言いまどわされていると善鸞が云っているのか、或いは全く、善鸞の出まかせの架空のことを言い散らしているのかということにもなります。第一、恵信尼対してにせよ、その他の架空のことにせよ、善鸞がこのような事を云い振りまいて何のメリットがあるのかということになりますが、これが善鸞が領家・地頭・名主たち土地の有力者と結託する材料としたり、鎌倉への訴えの材料にしているとなると、自己勢力を親鸞の教えから遠ざけて、自己勢力を権力者たちとむずびついて広めていこうというようなメリットさえ、直弟子の念仏者たちと対抗する手段としてはあり得ることもかも知れません。いずれにしろ750年以上前のことですので、上に挙げた色々なことも絶対的確証ともいえませんし、このあたりで、終えることが妥当であると考えます。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年6月)
慈信坊義絶の経緯


 このところ、親鸞聖人の晩年における悲痛な事件、すなわち、上記の標題にあるように「慈信坊義絶の経緯」についての考察を掲載させていただいています。その流れとして、まず、親鸞が慈信坊善鸞に送った「義絶状」と、親鸞の関東の門弟として最も信頼し、たよりにもしていた性信への手紙に関して、その考察を前回、前々回に掲載しました。今月からは、しばらく、義絶という結果に至ったそれまでの経緯についての親鸞の手紙を読み進めながら、この750年以上前に起こった、義絶という事件が本当にあったのか、また、一部でいわれている、義絶状偽作説は本当なのかという事を、それ以前の善鸞に対する親鸞の手紙の内容を通して、考察していきたいと思っています。そこで、今月から、この義絶事件に至る経過を最初の兆候が顕われている手紙から順に、義絶という悲痛な事柄に至る経過を逐次読み進めていきたいと思っています。
 そこで、今月は『親鸞聖人御消息集(略本)第五書簡(慈信坊への書簡)』を取り上げたいと思います。『親鸞集』の著者、増谷文雄氏によれば「このころには、親鸞は、まだ善鸞の行動について充分には承知していなかったように思われる。」とあります。この手紙は関東にいる善鸞からの手紙に対する親鸞の返事でありますが、やはり、この中で親鸞は、信願坊なる人物が、仏の造悪無碍を曲解して放逸無慚な行動に走っていると通知してきている善鸞の手紙に、いささかの違和感をもっていることが、親鸞の手紙の文脈の中にあることが、それとなくわかります。それでは、まず、この親鸞の手紙を以下に記してみましょう。なお、増谷氏によれば、「この手紙の日付の九月二日とは、建長七年(1255)のことと推定される。」とのことです。

御消息集(略本)第五書簡

ふみかきてまひらせさふらふ。このふみを、ひとびとにもよみてきかせたまふべし。遠江(とおとうみ)尼御前(あまごぜん)の御こゝろにいれて沙汰(さた)さふらふらん、かへすがえすめでたくあはれにおぼへさふらふ。よくよく京よりよろこびまふすよしをまふしたまふべし。  信願坊(しんがんぼう)がまふすやう、かへすがえす不便(ふびん)のことなり。わるき身なれぱとて、ことさらにひがごとをこのみて、師のため善知識のために、あしきことを沙汰し、念仏のひとびとのために、とがとなるべきことをしらずば、仏恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。また、ものにくるうて死せんひとびとのことをもちて、信願坊がことを。よし、あしとまふすべきにはあらず。念仏するひとの死にやうも身より病をする人は往生のやうをまふすべからず。こゝろより病をする人は天魔ともなり、地獄にもおつることにてさふらふべし。こゝろよりおこる病と身よりおこる病とは、かはるべければ、こゝろよりおこりて死ぬる人のことをよくよく御はからひさふらふべし。信願坊がまふすやうは、凡夫のならひなればわるきこそ本なればとて、おもふまじきことをこのみ、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことをまふすべきやうにまふされさふらふこそ、信願坊がまふしゃうとはこゝろへずさふらふ。往生にさはりなければとて、ひがごとをこのむべしとはまふしたることさふらはず、かへすがえすこゝろへずおぼへさふらふ。詮ずるところ、ひがごとまふさん人は、その身ひとりこそ、ともかくもなりさふらはめ、すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼへずさふらふ。また念仏をとゞめん人は、その人ばかりこそいかにもなりさふらはめ。よろづの念仏する人のとがとなるべしとはおぼへずさふらふ。五濁増時多疑謗(ごじょくぞうじたぎほう)道俗相嫌不用聞(どうぞくそうけんふようもん)見有修行起瞋(けんうしゅぎょうきしん)(どく)方便破壊競生怨(ほうべんはえきょうしょうをん)』とまのあたり善導の御をしへさふらふぞかし。釈迦如来は「名無眼人(みょうむげんにん)名無耳人(みょうむににん)」ととかせたまひてさふらふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとゞめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもさふらふらん。それはかの人をにくまずして、念仏を人々まふしてたすけんと、おもひあはせたまへとこそおぼへさふらへ。
あなかしこ あなかしこ。
   九月二日            親鸞

慈信坊の御返事

入信坊(にゅうしんぼう)真浄坊(しんじょうぼう)法信坊(しんぼう)にもこのふみをよみきかせたまふべし、かへすがえす不便の事にさふらふ。信坊には春のぼりてふらひしに、よくよくまふしてさふらふ。くげ((公家))どのにも、よくよくよろこびまふしたまふべし。このひとびとのひがごとをまふしあふてさふらへばとて、道理をば、うしなはれさふらはじとこそおぼへさふらへ。世間のことにも、さることのさふらふぞかし。領家(りょうけ)()(とう)名主(みょうしゅ)のひがごとすればとて。百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし、仏法者のやぶるにたとへたるには、獅子(しし)身中(しんちゅう)のむしのしゝむらをくらふがごとしとさふらへば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげさふらふなり。よくよくこゝろへたまふべし。なほなほ御ふみにはまふしつくすべくもさふらはず。


現代語訳

 手紙(返事)をさしあげます。これを人々にも読みきかせてください。江の尼御前から心をこめた音信があったというは、かえすがえすも結構なことで心に沁みるものがあります。京都でもよろこんでいると、よくよく申し伝えていただきたい。
 願坊が云っている趣きは、かさねがさね不都合なことである。わるい人間だからといって、わざと良くない事を好み、師や善知識のためによからぬことを言いふらし、それが念仏者の罪科となることを知らなかったならば、仏恩を知らぬというもの、よくよく思いめぐらされるがよい。また。ものにくるったようになって死んだ人々のことで、信願坊のことをよしあしと申すべきではない。念仏者の死に方も、からだの病気で死ぬる人の往生がどうだこうだと申すべきではない。こころの病いをもって死ぬる人(悪人正機を誤解し放逸無慚に悪を行なおうとする人、不信で仏法を誹謗する人)は。天魔(てんま)ともなり。地獄におちもするでしょう。こころよりおこる病いとからだよりおこる病いとは別であるから、こころの病いで死ぬる人のことを、よくよく()(さだ)めるがよろしい。信願坊が言っている趣旨は、凡失は、もともと悪いのであって、思ってはならないことを好み、してはならないことをし、言ってはならないことを言ってよいのだと申されるとのこと、信願坊が言っているとは考えられない。往生にさわりかないからといって、よからぬことを好むがよいと言ったことはありません。かえすがえすも理解できないことです。つまるところは、曲ったことをいう人は、自分だけはどうともなられるがよい。そのために、すべての念仏者たちの信心のさまたげとなってはならぬと思います。また、念仏を禁止しようという人は、その人だけはどうにもなられるがよいけれども、そのために念仏生活を守っていこうとする人が罪科を蒙るようなことがあってはならない。さまざまな濁りに満ちた末法の時代には、仏法を疑い謗る人が多くなり、出家・在家を問わず争い合って教えを聞こうとしない。仏道修行をする人を見ては、瞋りの心を起し、あれこれ手だてをして仏法を破壊しようとし、競って怨みを結ぶ。」といわれた善導のおしえが眼前にしのばれるというものであります。また釈迦如来は仏法を見る眼のない人)仏法を聞く耳を持たない人」とも説いておられます。そのような人は、念仏を禁止し、念仏者を憎むなどということもありましょう。それに対しては、その人を憎まず、みんな念仏を申して救ってあげるがよいと思われます。あなかしこ、あなかしこ。    九月二日             親鸞
   慈信坊の御返事

 入信坊(にゅうしんぼう)真浄坊(しんじょうぼう)法信坊(ほうしんぼう)にもこの文を見せてください。かへすがえすも困ったことであります。信坊には春上京してきたから、よくよく申しておきました。くげどのにも、よくよくよろしく伝えてください。この人々がまちがったことを申されようとも、道理をうしなおぬようにして貰いたいものです。世間のことにも、そのようなことがあるものです。領家(りょうけ)地頭(じとう)名主(みょうしゅ)がまちがったこと(弾圧?)をするからとて人々の信心を迷わせてはなりません。仏法をやぶる人はない、仏法者がやぶるのである。それを(たと)えて、獅子(しし)身中(しんちゅう)の虫が獅子の肉をくらうがごとしと申しておりますが、いまは念仏者をば仏法者がやぶりさまたげているのです。よくよく心得ておかれるがよい。そのほか、手紙ではとても申しつくせません。

【HP作成者感想】
 冒頭にも記しましたように、この手紙のころは、まだ親鸞は、関東のその後の様子が、善鸞とのからみで、どのようになっているのか、はっきりと把握していません。おそらく、善鸞からは、関東での布教がうまくいかないこと、人々が、善鸞の言うことを、きいてくれないこと。そして、たとえば、その具体例として、信願坊なる人物なども、造悪無碍を誤解して放逸無慚な振舞いをしているといったことを親鸞にうったえてきているのでしょう。こうした信願坊のふるまいが、彼(信願坊)の念仏集団の人で、からだの病いとして、正気を失って苦痛の中に命を失った人がいることも、信願坊の造悪無碍のせいで、そのような死にかたになったのだとの善鸞のうったえに、精神的な病いと云えども、からだの病気なのだから、それがたとえ悲惨な死にかたであったにしても、放逸無慚な信願坊の間違った信心と結びつけるのではなく、冷静に、切り離して考えるべきだと、さとして、こころより起る病いとは、信心を失ってしまって、真実の念仏の教えを、誹謗し妨げるということが、こころの病なので、この点をよくよく考えるべきだとの、参考意見を、善鸞のために披露しています。とにもかくにも、善鸞からの知らせによれば、信願坊は、救われようのない放逸無慚な人物ということになっていますが、親鸞には、それまでの信願坊と接してきた経緯から、信願坊はどうしても、そのような人物とは思えないことを「凡夫のならひなれば、わるきこそ本なればとて、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことをまふすべきやうに、(善鸞が)まふされさふらふこそ、信願坊のまふしようとは、こゝろへずさふらふ。」ということばで、どうしても、善鸞のいうことに合点がいかないと、善鸞を我が子として信頼しようとする中で、親鸞は無意識に疑問を呈しています。往生にさわりがないから、放逸無慚な行動を好んでしたらよいなどとは私(親鸞)は、関東の人々に言いふらしたようなことは決してないはずだと、親鸞は言っています。そして、よくわからないままで、そのような放逸無慚な行動を行ない、人にも勧めるような振舞は、そのように振舞うひとは、ともかく、どのようになろうとも、他の多くの、親鸞のことばに正しく導かれて、真実の念仏道にいそしむ人々が、このような邪道に妨げられるとは思えないといい、また、念仏を禁止しようとするひとは、たとえ、その人はどうなろうとも、真実の念仏道に、いそしもうとする人々が、そのために罪科をうけるようなことがあってならないと誡めています。そして「五濁増時多疑謗(ごじょくぞうじたぎほう)道俗相嫌不用聞(どうぞくそうけんふようもん)見有修行起瞋(けんうしゅぎょうきしん)(どく)方便破壊競生怨(ほうべんはえきょうしょうをん)」という善導のことば、そして「名無眼人、名無耳人」をいう釈迦如来のことばを添えて、このような末法の時代に生きる人々をこそ、憎まずして、真実の念仏道に導くように我が子善鸞を諭しています。
 そして、さらに、この手紙を入信坊、真浄坊、法信坊などにもこの手紙を読んで聞かせよ、性信坊には春に京都に来た時によくよく言い聞かせていると、付け加えていますが、おそらく、善鸞はこのような親鸞面授の門弟であり、親鸞の信頼も厚い人々をも、自分の思うようにはついてこないことを理由に、造悪無碍、放逸無慚な仲間として親鸞にうったえてきていたのでしょう。そして、「このひとびとのひがごとをまふしあふてさふらへばとて、道理をば、うしなはれさふらはじとこそ、おぼへさふらへ。」と、善鸞は、これらの人々のことを悪く言うけれども、これらの人々は真実信心の道理まで失っているとは思えないと言っています。
そして、最後に「領家・地頭・名主のひがごとすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし」と、すなわち、領家・地頭・名主が、あの手、この手で、念仏集団の活動を妨げようとしても、百姓(農民を主体とする門弟の念仏者たち)は、決してそのような妨げに惑わされたり屈したりすることはないだろう」と言い、さらに、「仏法を破るひとなし、仏法者がむしろ獅子身中の虫として仏法を破るのだ」。善鸞よ、そのような仏法者には、なるではないぞ、よくよくこころえよと、善鸞がかかわって関東の念仏集団に、やがてはっきりと顕れてくる混乱を、子としての善鸞を信頼したい思いの中で、予感していることがわかります。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年7月)
慈信坊義絶の経緯


 今月は先月掲載の御消息集(略本)で、更に補足させていただくべきだと考えるところを、掲載させていただきました。
 このところ、親鸞聖人の晩年における悲痛な事件、すなわち、上記の標題にあるように「慈信坊義絶の経緯」についての考察を掲載させていただいていますが、先月から、しばらく、義絶という結果に至ったそれまでの経緯についての親鸞の手紙を読み進めながら、この750年以上前に起こった、義絶事件が本当にあったのか、また、一部でいわれている、義絶状偽作説は本当なのかという事を、それ以前の善鸞に対する親鸞の手紙の内容を通して、考察していきたいと思って読み進めています。そこで今月は、先月と同じ御消息集(略本)第五書簡の中で、私の感じ、また思った一点をのべさせていただきます。したがって、この第五書簡の読下し文と、その現代語訳は、先月のまま、おなじ文章を重複して掲載させていただいき、 【HP作成者感想】 についてのみ、新しく掲載させていただいています。

御消息集(略本)第五書簡

ふみかきてまひらせさふらふ。このふみを、ひとびとにもよみてきかせたまふべし。遠江(とおとうみ)尼御前(あまごぜん)の御こゝろにいれて沙汰(さた)さふらふらん、かへすがえすめでたくあはれにおぼへさふらふ。よくよく京よりよろこびまふすよしをまふしたまふべし。  信願坊(しんがんぼう)がまふすやう、かへすがえす不便(ふびん)のことなり。わるき身なれぱとて、ことさらにひがごとをこのみて、師のため善知識のために、あしきことを沙汰し、念仏のひとびとのために、とがとなるべきことをしらずば、仏恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。また、ものにくるうて死せんひとびとのことをもちて、信願坊がことを。よし、あしとまふすべきにはあらず。念仏するひとの死にやうも身より病をする人は往生のやうをまふすべからず。こゝろより病をする人は天魔ともなり、地獄にもおつることにてさふらふべし。こゝろよりおこる病と身よりおこる病とは、かはるべければ、こゝろよりおこりて死ぬる人のことをよくよく御はからひさふらふべし。信願坊がまふすやうは、凡夫のならひなればわるきこそ本なればとて、おもふまじきことをこのみ、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことをまふすべきやうにまふされさふらふこそ、信願坊がまふしゃうとはこゝろへずさふらふ。往生にさはりなければとて、ひがごとをこのむべしとはまふしたることさふらはず、かへすがえすこゝろへずおぼへさふらふ。詮ずるところ、ひがごとまふさん人は、その身ひとりこそ、ともかくもなりさふらはめ、すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼへずさふらふ。また念仏をとゞめん人は、その人ばかりこそいかにもなりさふらはめ。よろづの念仏する人のとがとなるべしとはおぼへずさふらふ。五濁増時多疑謗(ごじょくぞうじたぎほう)道俗相嫌不用聞(どうぞくそうけんふようもん)見有修行起瞋(けんうしゅぎょうきしん)(どく)方便破壊競生怨(ほうべんはえきょうしょうをん)』とまのあたり善導の御をしへさふらふぞかし。釈迦如来は「名無眼人(みょうむげんにん)名無耳人(みょうむににん)」ととかせたまひてさふらふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとゞめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもさふらふらん。それはかの人をにくまずして、念仏を人々まふしてたすけんと、おもひあはせたまへとこそおぼへさふらへ。
あなかしこ あなかしこ。
   九月二日            親鸞

慈信坊の御返事

入信坊(にゅうしんぼう)真浄坊(しんじょうぼう)法信坊(しんぼう)にもこのふみをよみきかせたまふべし、かへすがえす不便の事にさふらふ。信坊には春のぼりてふらひしに、よくよくまふしてさふらふ。くげ((公家))どのにも、よくよくよろこびまふしたまふべし。このひとびとのひがごとをまふしあふてさふらへばとて、道理をば、うしなはれさふらはじとこそおぼへさふらへ。世間のことにも、さることのさふらふぞかし。領家(りょうけ)()(とう)名主(みょうしゅ)のひがごとすればとて。百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし、仏法者のやぶるにたとへたるには、獅子(しし)身中(しんちゅう)のむしのしゝむらをくらふがごとしとさふらへば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげさふらふなり。よくよくこゝろへたまふべし。なほなほ御ふみにはまふしつくすべくもさふらはず。


現代語訳

 手紙(返事)をさしあげます。これを人々にも読みきかせてください。江の尼御前から心をこめた音信があったというは、かえすがえすも結構なことで心に沁みるものがあります。京都でもよろこんでいると、よくよく申し伝えていただきたい。
 願坊が云っている趣きは、かさねがさね不都合なことである。わるい人間だからといって、わざと良くない事を好み、師や善知識のためによからぬことを言いふらし、それが念仏者の罪科となることを知らなかったならば、仏恩を知らぬというもの、よくよく思いめぐらされるがよい。また。ものにくるったようになって死んだ人々のことで、信願坊のことをよしあしと申すべきではない。念仏者の死に方も、からだの病気で死ぬる人の往生がどうだこうだと申すべきではない。こころの病いをもって死ぬる人(悪人正機を誤解し放逸無慚に悪を行なおうとする人、不信で仏法を誹謗する人)は。天魔(てんま)ともなり。地獄におちもするでしょう。こころよりおこる病いとからだよりおこる病いとは別であるから、こころの病いで死ぬる人のことを、よくよく()(さだ)めるがよろしい。信願坊が言っている趣旨は、凡失は、もともと悪いのであって、思ってはならないことを好み、してはならないことをし、言ってはならないことを言ってよいのだと申されるとのこと、信願坊が言っているとは考えられない。往生にさわりかないからといって、よからぬことを好むがよいと言ったことはありません。かえすがえすも理解できないことです。つまるところは、曲ったことをいう人は、自分だけはどうともなられるがよい。そのために、すべての念仏者たちの信心のさまたげとなってはならぬと思います。また、念仏を禁止しようという人は、その人だけはどうにもなられるがよいけれども、そのために念仏生活を守っていこうとする人が罪科を蒙るようなことがあってはならない。さまざまな濁りに満ちた末法の時代には、仏法を疑い謗る人が多くなり、出家・在家を問わず争い合って教えを聞こうとしない。仏道修行をする人を見ては、瞋りの心を起し、あれこれ手だてをして仏法を破壊しようとし、競って怨みを結ぶ。」といわれた善導のおしえが眼前にしのばれるというものであります。また釈迦如来は仏法を見る眼のない人)仏法を聞く耳を持たない人」とも説いておられます。そのような人は、念仏を禁止し、念仏者を憎むなどということもありましょう。それに対しては、その人を憎まず、みんな念仏を申して救ってあげるがよいと思われます。あなかしこ、あなかしこ。    九月二日             親鸞
   慈信坊の御返事

 入信坊(にゅうしんぼう)真浄坊(しんじょうぼう)法信坊(ほうしんぼう)にもこの文を見せてください。かへすがえすも困ったことであります。信坊には春上京してきたから、よくよく申しておきました。くげどのにも、よくよくよろしく伝えてください。この人々がまちがったことを申されようとも、道理をうしなおぬようにして貰いたいものです。世間のことにも、そのようなことがあるものです。領家(りょうけ)地頭(じとう)名主(みょうしゅ)がまちがったこと(弾圧?)をするからとて人々の信心を迷わせてはなりません。仏法をやぶる人はない、仏法者がやぶるのである。それを(たと)えて、獅子(しし)身中(しんちゅう)の虫が獅子の肉をくらうがごとしと申しておりますが、いまは念仏者をば仏法者がやぶりさまたげているのです。よくよく心得ておかれるがよい。そのほか、手紙ではとても申しつくせません。

【HP作成者感想】
  この手紙が出されたのは、増谷文雄師によれば、親鸞聖人が善鸞に対して義絶を通告した建長八年五月二十九日の一つ前の年建長七年の九月と考えられるとのことです。この時期には、いわば親鸞の名代として派遣された善鸞が関東でどのような状態に置かれ、またその状況下でどのようにふるまっているのかを把握し尽くしていない時期であることは、前回で、こもごも記載させていただきました。
 本日は、親鸞聖人のこの手紙の中で、注目すべき点を一点挙げて、それについての私の考えを申し述べたいと思います。
 それは上記の読下し文19行目~23行目までのことば、 (1)『詮ずるところ、ひがごとまふさん人は、その身ひとりこそ、ともかくもなりさふらはめ、すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼへずさふらふ。』また(2)『念仏をとゞめん人は、その人ばかりこそいかにもなりさふらはめ。よろづの念仏する人のとがとなるべしとはおぼへずさふらふ。』という親鸞の(1)および(2)のことばです。この中で、親鸞聖人は、いずれも、それぞれの後半で、自らが手塩にかけた関東の念仏信仰をひたむきに生きる人々の障害や咎になってはならぬと述べていますが、それらの前半においては、(1)では『ひがごとまふさん人は、その身ひとりこそ、ともかくもなりさふらはめ』といい、(2)では『念仏をとゞめん人は、その人ばかりこそいかにもなりさふらはめ』と、言い放っています。もちろん、この手紙で日付を記した「九月二日  親鸞」の行から手前、6行目からの子息の善鸞に言い聞かすことばで、放逸無慚な行ないでひがごとを云ったり、念仏信仰を弾圧して念仏をどゞめようとする人、すなわち「名無眼人、名無耳人」にたいして、かようなるひとにて、念仏をもとゞめ、念仏者をもにくみなんどする人々にたいしても『それはかの人をにくまずして』すなわち、このような人々を憎まずして、念仏信仰を営む中で『念仏を人々まふして、たすけんと、おもひあはせたまえとこそおぼへさふらへ』と、放逸無慚にひがごとをする人々や、念仏を弾圧する人々をも念仏信仰の中で救済していくようにしてほしいと述べていますが、これは、上の(1)、(2)のことばで言い放っている親鸞の突き放したことばとは随分矛盾しています。しかし、私は、この(1)、(2)の前半のことばと最後に善鸞にどのような人びとをも救いの対象にしなさいという、正反対とも取れる言い方に何とも言えない味わいを感じます。すなわち、真実の宗教者、親鸞聖人は、いわゆる世にいう人格者とは関係ないのだ。自らが手塩にかけた関東の念仏者集団の障害になったり、念仏者集団を咎に陥れ弾圧しようとする人々は、どのような先行きになろうとも、私は知るところではないと突き放す親鸞聖人、私はこの親鸞聖人に何とも言えない親近感を感じます。すなわち、真実の宗教者は、俗にいう終始一貫したロボットのような世にいう人格者ではないということです。しかし、その人間性の中に深い宗教的真実の海がたたえられているという事ではないでしょうか。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年8月)
慈信坊義絶の経緯


 今月は先月掲載の御消息集(略本)で、更に補足させていただくべきだと考えるところを、掲載させていただきました。
 このところ、親鸞聖人の晩年における悲痛な事件、すなわち、上記の標題にあるように「慈信坊義絶の経緯」についての考察を掲載させていただいていますが、先月から、しばらく、義絶という結果に至ったそれまでの経緯についての親鸞の手紙を読み進めながら、この750年以上前に起こった、義絶事件が本当にあったのか、また、一部でいわれている、義絶状偽作説は本当なのかという事を、それ以前の善鸞に対する親鸞の手紙の内容を通して、考察していきたいと思って読み進めています。今月は、新しく、御消息集第六書簡です。増谷文雄師によれば、前回掲載させていただいた御消息集(略本)第五書簡の二箇月あとのものであるということです。この中で、ますます、関東の門弟集団の動揺が伝えられる中で、大部の中太郎入道の門徒九十人余が、それまでの念仏は無駄な、いたずら事だったと、忠太郎入道を捨てて
善鸞についたという噂が京都の親鸞に伝わってきます。これはいったいどういう事なのだと親鸞は善鸞に問い詰めます。今回は、このあたりのことについて、調べましたところを、以下に書かせていただきます。

御消息集(略本)第六書簡

  九月廿七日の御ふみ、くわしくみさふらひぬ。さては御こゝろざしの銭伍貫文(ぜにごかんもん)、十一月九日にたまはりてさふらふ。 さてはゐなかのひとびと、みな年来念仏せしは、いたづらごとにてありけりとて、かたがたひとびとやうやうにまふすなることこそ、かへすがえす不便(ふびん)のことにこそきこへさふらへ。やうやうのふみどもをかきもてるを、いかにみなしてさふらふやらん、かへすがえす、おぼつかなくさふらふ。慈信坊のくだりて、わがきゝたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏は、みないたづらごとなりとさふらへばとて、ほぶの中太郎のかたの人は九十なん人とかや、みな慈信坊のかたへとて中太郎入道をすてたるとかや、きゝさふらふ。いかなるやうにてさやうにはさふらふぞ。詮ずるところ信心のさだまらざりけるときゝさふらふ。いかやうなることにて、さほどにおほくのひとびとのたぢろきさふらふらん。不便のやうときゝさふらふ。また、かやうのきこへなんどさふらへばそらごともおほくさふらふべし。また親鸞も偏頗(へんぱ)あるものときゝさふらへば、ちからをつくして『信鈔』・『後世(ごせ)物語』・『自力他力の文』のこゝろども、二河(3にが)譬喩(ひゆ)なんどかきて、かたがたへひとびとにくだしてさふらふも、みなそらごとになりてさふらふときこへさふらふは、いかやうにすゝめられたるやらん。不可思議のことゝきゝさふらふこそ不便(ふびん)にさふらへ。よくよくきかせたまふべし。 あなかしこあなかしこ。

  十一月九日           親鸞

 慈信御坊

 仏坊・信坊・信坊、このひとびとのことうけたまはりてさふらふ。かへすがへすなげきおぼへさふらへどもちからをよばずさふらふ。また余のひとびとのおなじこゝろならずさふらふらんも、ちからをよばずさふらふ。ひとびとのおなじこゝろならずさふらへば、とかくまふすにをよばず、いまは人のうへもまふすべきにあらずさふらふ。よくよくこころえたまふべし。
                                   親 鸞
慈信御坊


現代語訳

 九月二十七日のあなたの手紙、詳細に見ました。また、こころざしの銭、五貫文、十一月九日に頂戴しました。
 さて、田舎の人々が皆、年来(親鸞の教えによって)念仏をしてきたのは無駄なことだったと、あちこちで言っていると聞いていますが、かえすがえす気がかりなことです。いろいろの書を書いてあげたはずですが、それらを、どのように読んでいたのか、ほんとうに様子がよくわからず心配です。
 慈信坊が関東に下って、自分が聞いた教えこそ本当で、日頃の、あなたがたが聞いている念仏行は、皆、無益なことだというので、大部の中太郎のところの九十何人とかが、中太郎入道を捨てて、慈信房のもとは走ったと聞きました。一体どうして、そのようなことになったのか、つまるところ、信心が定まっていなかったということだが、どんなわけで、そのように多くの人々が動揺してしまったのでしょうか、困ったことだと聞いている。また、このような噂の中には、つくりごとも多いことだろう。私、親鸞にも偏った点もあると聞いたから、力を尽して『唯信鈔』、『後世物語』、『自力他力の文』の、こころなど、更に『二河白道』などを書いて、あちこちの人々へ与えたのも、みな、無駄なことになってしまったと聞いているが、一体、どのように教えを説かれたのか、どうして、そのような、わけのわからないことになったのか、なんとも、わけのわからない困ったことです。よくよく、そのあたりの事情を聞かせてほしい。
あなかしこ、あなかしこ
十一月九日
                                 親鸞
真仏房、性信房、入信坊、これらの人たちのこと、うけたまわりました。返す返す、嘆かわしいことだが、今の私には力及ばぬことだ。また、そのほかの人々が、あなたに同心しないということも、私の力の及ばぬことです。しかし、人々が必ずしも、あなたと同心ではないということも、とやかく、いうべきではないでしょう。そのあたりのこと、よくよく心得てください。
慈信御房
                                  親鸞


末燈鈔 第十七書簡
他力のなかには自力とまふすことは候とききさふらひき。他力のなかにまた他力とまふすことはききさふらはず。
他力のなかに自力とまふすことは、(ぞう)(ぎょう)(ざっ)(しゅ)定心(じょうしん)念仏(ねんぶつ)をこゝろにかけられてさふらふ人々は、他力のなかの自力のひとびとなり。
他力のなかにまた他力とまふすことはうけたまはりさふらはず。
 なにごとも(せん)信房(しんぼう)のしばらくゐたらんとさふらへば、そのときまふしさふらふべし。あなかしこ あなかしこ

(⑤ぜに)弐拾貫(にじゅっかん)(もん) 慥々給候(たしかにたしかにたまはりさふろふ)(あな)(かしこ)(あな)(かしこ)

  十一月廿五日                親 鸞




【HP作成者感想】
 今回の書簡は善鸞が九月七日に書いてよこした手紙への返事と、十一月九日に届いた善鸞からの、こころざしの銭五貫文を、まちがいなく受取ったとの通知とを兼ねたものです。そして、この書簡においても、早速、関東の念仏集団の乱れについて言及すると共に、一体、どのように、法然・親鸞の浄土教を伝えているのかということを善鸞に尋ねています。そして、この書簡の中核をなす最も具体的で大きな事実は、大部の中太郎入道のもとで念仏教義を聞いていた九十何人もの門徒の人たちが、中太郎のもとから、善鸞のもとへ走ったということを聞いているが、一体それはどういうことなのかと問い詰めています。
そして、聞くところでは、どうやら善鸞が、自分が父の親鸞から直接聞いた教義こそが、まことの教えで、今まで、あなたがたが聞いてきた中太郎入道の教えは無益な、いたずらごとであったと人々に吹聴しているからだとのこと、一体、これは、どういうことなのかと詰問しています。その詳細は勿論、七百五十年以上の年月の闇に包まれていますが、このあたりを調べましたところ、評論家の唐木順三氏が『親鸞の一通の手紙』という小論の中で、上記に掲載した『末燈鈔第十七書簡』を引き合いに出して、次のようなことを書いておられるそうです。つまり、この手紙は親鸞の直弟である真仏からの手紙に対する返事なのですが、先ず、銭二十貫文という大変大きな額のこころざしを受け取ったということに対する礼状であるとともに、その次に珍しく親鸞が感情をあらわにして、「他力の中の他力といったようなことは聞いたことがない」と真仏に書き送っているくだりです。どうやら、これは「他力の中でも、さらに他力の法文があると聞いたが、そのような秘法があるならば、ぜひ、私にも、ご伝授いただきたい。」という真仏からの要請であったあのではないかというのが、唐木氏の推論です。即ち、このようなことを真仏が親鸞に要請してきたということの背後には、善鸞が私こそ、父親鸞から、まことの教えを、ひそかに伝授されたので、私のいう、これこそ「他力の中の他力の法文だ」と、まことしやかに人々に言いふらしたために、その一つの顕れとして、大部の中太郎入道の門徒多数が善鸞のもとへ走るというようなことも起こったと考えられます。このような噂を聞いた真仏が、その財力にものを言わせて、二十貫文という高額なお金と共に、その秘法の伝授を願い出てきたのではないかということです。これに対して親鸞は、その予想もしない善鸞の言動に真底から腹を立てて「他力の中の他力」などということは聞いたことが無いといった感情的なことばとなったのではないかと、私(HP作成者)も思うところです。しかし、それと同時に、御消息(略本)第六書簡の後半には「それらはうわさだから、つくりごとも少なくあるまい」といった、子息善鸞を少しでも信頼したいという、親鸞の藁をもつかむような期待も、かいま見ることができます。そして、関東と京都という、当時の距離の遠さと、自らの年齢(とし)極まったじょうたいから、「なんとかしたいけれども、力及ばぬことである」との親鸞のいらだたしさと愛憎入り混じった気持ちを見る気がします。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年9月)
慈信坊義絶の経緯


  今月は、あたらしく、『御消息集(略本)第四書簡』に入りたいと思います。
 この手紙は、先月までのように善鸞や、性信といった特定の人物に宛てたものではなく、「念仏のひとびとの御中へ」といった、宛先で、聖人が手掛けた関東の念仏者の多くの人が読んでほしいという意味をこめて、宛てた手紙です。そして、その内容は、根本は、関東の人々に伝えてきた、浄土念仏の教えの根幹を、正しく、間違いなく、受取っておほしいという気持ちから書かれたものですが、内容的に二つに分かれます。まず、第一は、仏・菩薩を軽んじ、よろずの神祇・冥道をあだどることへの注意であり、第二は、仏のことばである造悪無碍を誤って受取って放逸無慚に振る舞う人々に対する忠告です。それでは、原文の記述からはじめます。

御消息集(略本)第四書簡

 まづよろづの仏・菩薩をかろしめまひらせ、よろづの(じん)()(みょう)(どう)をあなづりすてたてまつるとまふすこと。この事ゆめゆめなきことなり。世々(せぜ)生々(しょうじょう)無量(むりょう)無辺(むへん)の諸仏・菩薩の利益(りやく)によりて、よろづの善を修行せしかども自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫(こうごう)多生(たしょう)のあひだ、諸仏・菩薩の(おん)すゝめによりて、いま、まうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまひらせてさふらふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだにまふさんは、ふかき御恩をしらずさふらふべし仏法をふかく信ずるひとをば天地におはしますよろづの神は、かげのかたちにそへるがごとくしてまもらせたまふことにてさふらへば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまふさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祗等だにもすてられたまはず、いかにいはんや、よろづの仏・菩薩をあだにもまふし、おろかにおもひまひらせさふらふべしや。よろづの仏をおろかにまふさば、念仏を信ぜず弥陀の御名をとなへぬ身にてこそさふらはんずれ。詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとにふれて、念仏の人々におほせられつけて、念仏をとゞめんと、ところの家・地頭・名主の御はからひどものさふらふらんこと、よくよくやう((様))あるべきことなり。そのゆへは、釈迦如来のみことには、念仏する人をそしるものをば名無(みょうむ)眼人(げんにん)」とゝき、「名無耳人(みょうむににん)」とおほせおかれたることにさふらふ。善導(ぜんどう)和尚(かしょう)五濁増時多疑謗(ごじょくぞうじたぎほう)道俗相嫌不(どうぞくそうけんふ)(よう)(もん)見有修行起瞋毒(けんうしゅぎょうきしんどく)方便破壊競生怨(ほうべんはえきょうしょうをん)」とたしかに釈しおかせたまひたり。この世のならひにて念仏をさまたげん人は、そのところの領家(2りょうけ)地頭(じとう)名主(みょうしゅ)のやうあることにてこそさふらはめ、とかくまふすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし不便(ふびん)におもふて、念仏をもねんごろにまふして、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるき人はまふされさふらひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。 つぎに念仏せさせたまふひとびとのこと。弥陀の御ちかひは煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)の人のためなりと信ぜられ候はめでたきやう((様))なり。たゞしわるきものゝためなりとて、ことさらにひがごとをこゝろにも思ひ、身にも口にもまふすべしとは・浄土宗にまふすことならねば、人々にもかたること候はず。おほかた、煩悩具足の身にて、こゝろをもとゝのへがたくさふらひながら、往生をうたがはずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識もまふすことにてさふらふに、かゝるわるき身なれば、ひがごとをことさらにこのみて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしとまふすことは、ゆめゆめなきことなり。弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまひらせて仏恩を報じまひらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとゞめらるゝことに沙汰しなされてさふらふらんこそ、かへすがえすこゝろへずさふらふ。あさましきことにさふらふ。ひとびとのひがさまに御こゝろへどものさふらふゆへに、あるべくもなきことゞもきこへさふらふ。まふすばかりなくさふらふ。たゞし念仏の人、ひがごとをまふしさふらはゞその身ひとりこそ地獄にもおち天魔ともなりさふらはめ、よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼへずさふらふ。よくよく御はからひどもさふらふべし。なほなほ念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じとかせたまふべし。
あなかしこ あなかしこ。


現代語訳
 まず、阿弥陀如来、釈迦如来ではなく、他宗で、崇められている様々な仏(たとえば薬師如来や大日如来など)、あるいは、法然・親鸞浄土教にはあまりでてこないけれども、他宗で崇められている多くの菩薩がたを軽んじ、さらにまた、天地の神々(たとえば、梵天、帝釈天、堅牢地祇など)、更には冥道の神仏(たとえば閻魔大王)などをあなどるということは、けっしてあってはならないことです。生まれ変わり死に変わりしている内に数かぎりない仏・菩薩の恩恵をこうむって、よろずの善を修業したけれども自力の善では、結局生死出づべき道に出会うことが出来なかったがゆえに、遠い昔より諸仏・菩薩の御勧めによって、いま、やっと、遇い難い弥陀の御誓に遇うことが出来た深いご恩を知らずに、その諸仏・菩薩を侮り、悪く言うのは恩知らずというものです。また、仏法を深く信じる人を、天地のよろずの神々は、影の形に添うように護ってくださるわけですから、念仏を信じる身で、このような天地の神々を捨ててしまおうと思うことは、ゆめゆめ、あってはならないことです。天地の神々に対してさえ、そうなのですから、ましてや仏・菩薩を仇にも云い、おろそかにしてよいはずがありません。よろずの仏を粗略におもうようなことでは、念仏も信ぜず、弥陀の御名をとなえようとしない身でもあるということです。要するに、いろいろ嘘をいい、念仏者の悪いところをあげつらって、念仏を妨げようとする領家・地頭・名主などが計略することは、よくあることです。どうして、そうなのかという、わけは、釈尊が言っておられるように、念仏するひとを、そしるような者をば、真実を見る眼のない人、真実の言葉を聞く耳をもたない者といわれている通りです。善導大師は、このことを「さまざまな濁りに満ちた時代には、仏法を疑い謗ることが多くなり、出家の者も、在家の者も、争い合って仏の教えを聞こうとすることなく、修行している人を見ては、怒りの心を起し、手を尽して仏法の邪魔をしては、互いに怨みを持つのである。」と確かに言われていたことです。この世のならいで、念仏を妨げようとする人は、その土地の領家、地頭、名主などの権力者であって、それには、それなりの理由があるようなのは、分かりきったことで、そのようなことを、一々とりあげてとやかくいっても仕方がないでしょう。むしろ、念仏する身であれば、そのような真実を見る眼、真実の言葉を聞く耳を持たない人をば、あわれみ、気の毒におもって、いっそう、こころをこめて念仏して、念仏を妨げようとする人にも仏の救済があるように願えと昔の人はいっています。よくよく、このあたりを考えられるがよろしい。
 つぎに、念仏者自身のことですが、弥陀の御誓いは、煩悩具足の者のためであると信ずることは、まことに結構なことですが、ただ、悪人のためのものだということで、ことさらに、自分で、わざわざ、よくないことを心に思いつき、それをそのまま、自分の方から、振舞ったり、人に云ったりするべしと、法然上人の浄土宗では決して教えていないことで、人々にそのような事を、云い広めるというようなことは決してありません。むしろ、煩悩具足の身で、こころを整えて、善きことがなかなか出来ない身ではあるが、このような者でも、弥陀は見捨てずに往生させて下さると信じなさいと、念仏の指導者も、多くの優れた念仏者も申されるているはずのことです。ところが、それをしも、どうせ自分は悪人だからと、そして仏は悪人を優先して救うのだといっていると自分勝手に考えて、人にもそのような事を勧めて、放逸無慚に振る舞って、師や、仲間の優れた念仏者にまで、罪科を負わせるということはゆめゆめあってはならないことです。遇い難き弥陀の御誓いに、今、遇って、その御恩を報じようと思うべき身で、わざわざ念仏を停止させられるような行ないをすることこそ、返す返す心得がたいことで、なんともなさけないことであります。人々が、このようなまがった考え方をなさるので、あるべからざることも噂されるのです。全く申しようもありません。ただし、念仏する人で、上のような、まがったことを申すような人がいるならば、その人一人が地獄にも落ち、天魔ともなるのは仕方ないとして、全ての念仏者に、その罪科が及ぶのは、とうてい納得できません。よくよく、分別しはからってください。なおなお、多くの念仏するひとびとに、この文を見せて説明してください。      あなかしこ、あなかしこ

【HP作成者感想】
 この手紙は大きく分けて、前半は、関東の念仏衆徒の振舞の中で、弥陀一仏を尊崇するあまり、他宗が崇めている仏・菩薩を軽んじたり、神祇・冥道をないがしろにする振舞いに対する忠告です。これは、他宗派の仏・菩薩や神祇・冥道をないがしろにすることは、当然、そのような宗派の人々や、神祇・冥道を尊重する当時の風潮から、そのような念仏者の振舞が、その土地の政治的権力者からも弾圧の材料にされるということもあります。そして、その理由だけではなく、親鸞聖人は神祇といわれる天の神(梵天・帝釈天)や堅牢地祇といわれる地の神、或は冥道を代表する閻魔大王などは、みな、仏法者を護る善神であるという考え(護法善信説)をとっておられましたから、阿弥陀一仏だけを崇めて、他はみな排除するという軽薄な考えは、お持ちではありませんでした。すなわち、いろいろな仏さま、すなわち諸仏や他宗派でことのほか崇められている菩薩方も阿弥陀仏を称讃し、そして梵天・帝釈天・閻魔大王・諸権現などといわれる存在も、みな阿弥陀一仏をあがめ、仏法を護る神々であると捉えておられましたので、それら仏・菩薩や天親・地祇をないがしろにしてはいけないと、この手紙の中で、誡められています。すなわち、阿弥陀仏を中心にして、阿弥陀仏以外の全ての諸仏も、そして諸菩薩も、さらには天神・地祇も阿弥陀仏を讃嘆する存在として、阿弥陀仏を信ずる念仏者を護る存在であるから、私たちは決して、これらの存在をおろそかにしてはいけないという親鸞聖人のこゝろを、私たちのこゝろとすることができます。それは、歎異抄第七条にも、「信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍すること無し。」といわれているように、天神地祇の護法のこころを読み取ることができますし、阿弥陀仏を信じ、そのこころをひとつにさせていただくことができる念仏する人間として、魔界外道もおそれることがないという気持ちになります。
 さて、この手紙の後半の内容は、造悪無碍という仏の言葉を間違って受取って、放逸無慚な行動や考えをふりまく連中についての、親鸞聖人のこころからの忠告です。この問題を私たちはどのように受け取ればいいのか、大変難解な問題です。すなわち、法然・親鸞浄土教の教えは、悪人正機なのだから、悪は率先して行なってもよいのだと考えて、自分でも放逸無慚に悪を行ない、他人にも、そのように行なうことを勧めるというところに問題があります。考えてみれば、これこそ、まさに他力迴向によって生死しているのが、私たち衆生であることを、気づかず、弥陀の本願を無視し、忘れ果ててしまった、自分が、自分がという自我のみの徒になり果ててしまったということであって、これこそ、親鸞聖人が最も否定される事柄であると考えます。
 悪の問題は、この世における、最も基本的、根底的な問題であり、今後も考え続けねばならない問題であると考えます。

今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年10月)
慈信坊義絶の経緯


  今月は、『御消息集(略本)第二書簡』です。
 この手紙は、あらためて、親鸞の最も古くからの弟子で、法友といってもいい飯沼の性信にあてたよろこびの手紙です。おそらく、善鸞側の奸策によって、対立する性信房などに対し、彼等は造悪無碍を標榜して放逸無慚な振舞いをしている連中であるとして鎌倉に訴え出たのでしょう。それに対して性信は鎌倉に於ける審問においても、自分たちは決して世の中を乱すような集団ではないと、親鸞の教えによる深い宗教的洞察力と、理智にもとづく説明によって、罪なしという判定が下り、帰宅をゆるされた結果を心からよろこぶ親鸞の記述から始まります。

御消息集(略本)第二書簡
 六月一日の御文(おんふみ)、くわしくみさふらひぬ。さては鎌倉にての御うたへのやうは、おろおろうけたまはりてさふらふ。この御文にたがはずうけたまはりてさふらひしに、別のことはさふらはじとおもひさふらひしに、御くだりうれしくさふらふ。おほかたは、このうたへのやうは。御身(おんみ)ひとりのことにはあらずさふらふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このやう((様))は、故聖人の御とき、この身どものやうやう((様々))にまふされさふらひしことなり。こともあたらしきうたへにてもさふらはず。性信房ひとりの沙汰あるべきことにはあらず、念仏まふさんひとは、みなおなじこゝろに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまふすべきことにはあらずさふらふべし。念仏者のものにこゝろえぬは性信坊のとがにまふしなされんはきはまれるひがごとにさふらふべし。念仏まふさん人は性信坊のかたうど((方人))にこそなりあはせたまふべけれ。・姉・妹なんどやうやうにまふさるゝことは、ふるごとにてさふらふ。さればとて念仏をとゞめられさふらひしが、世にくせごと((曲事))のをこりさふらひしかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こゝろにいれて、まふしあはせたまふべしとぞおぼへさふらふ。御文のやう、おほかたの陳状よく御はからひどもさふらひけり。うれしくさふらふ。(せん)じさふらふところは、御身にかぎらず、念仏まふさん人々は、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家(ちょうか)の御ため国民(くにたみ)のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはゞ、めでたふさふらふべし。往生を不定(ふじょう)におぼしめさん人は、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。わが御身の往生を一定(いっじょう)とおぼしめさん人は、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏(あんのん)なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼへさふらふ。よくよく御案さふらふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼへずさふらふ。なほなほとく御くだりのさふらふこそ、うれしふさふらへ。よくよく御こゝろにいれて往生一定とおもひさだめられさふらひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、こと((異))事はさふらふべからず。御念仏をこゝろにいれてまふさせたまふべしとおぼへさふらふ。
あなかしこ
あなかしこ。
  七月九日              親鸞

 性信の御坊 


現代語訳
 六月一日のお手紙、くわしく読ませていただきした。
鎌倉での訴訟の様子は、大体のところは、この手紙の内容と違わずに聞いていましたので、変わったことは、よもやあるまいと思っていましたが、無事郷里に帰られたとのこと、うれしく思います。大体、あなたに降りかかった、この訴訟の趣きは、あなた一人のことではありません。すべての浄土念仏者にふりかかる災禍であると考えます。このような有様は、故法然上人の膝下にあった時にも、この私などにも、さまざまな非難のことばを身に受けたことでもあります。こと新しい訴えではありません。性信房ひとりが、とやかく訴えられるといった趣きの事ではありません。すべての念仏者に、ふりかかることなのです。今回あなたが訴えられたことで、あなたを冷笑できることではありません。
念仏者の中にも、ものごとの道理がわからぬ人があって、性信房の咎だと言うことは、心得違いもはなはだしいことです。念仏者は、みな性信房の味方であってしかるべきです。ましてや、今回のことで、性信房の母や姉妹まで、いろいろ悪く言われるのはもってのほかのことですが、こういったことは昔からよくあることです。かっては念仏が(朝廷によって)停止(ちょうじ)されるといったことがありましたが、こんどは、その停止の命令を出した中心人物が流罪になるといったことが起りました。それにつけても、念仏を深くたのんで、世の安穏ということに心をいれて、念仏生活をするように申し合わせていただきたいと思います。お手紙の内容で、おおくの訴状にたいする、おおかたの陳述書、よく理を通し、工夫して、おはからいになりました。うれしく思います。詮ずるところ、あなたに限らず、念仏を申す人々は、わが身のためとは思わず、おおやけの御ため、たみ、百姓のために念仏申し合わせ候えば、すばらしいことであります。往生がまだ定まっていない人は、まずは自分の往生のことを思って念仏されるがよく、また、自身の往生は定まっていると思われる人は、ほとけの御恩を常に思って、世の中安穏なれ、仏法ひろまれと、感謝の念仏を心がけるようにしてください。その他に、別のはからいは無用であろうかと思います。それにつけても、すみやかなご帰還を嬉しく思います。往生一定であると、こころに深く思い定められ、仏の御恩を深く心にとどめられたなら、、他のことに心を配ることはありません。ただ御念仏を心からて申されることだと思います。 あなかしこ、あなかしこ。
七月九日                             

親鸞

性信の御坊

【HP作成者感想】
 まず、この手紙の現代語訳の中で、訳者によって同じ手紙の文章に対する受取り方が異なるため、違った訳となり、このことが、現代語訳によっては、現代の我々にも、内容的に意味がはっきりしない結果となっているところもあります。そのあたりを、まず、上の書簡原文にもとづいて検討していきたいと思います。
(1)上記原文、上から9行目「御身をわらひまふすべきことにはあらずさふらふべし。」ですが、これは、性信房が訴訟を起こされた、訴訟の対象となり、こともあろうに鎌倉幕府に呼び出されて審問された、ということに対して、まわりの者が、なんという愚か者だと言わんばかりに冷笑するということでしょうか。しかも、この文章の前に「念仏もうさんひとは、みなおなじこゝろに御沙汰あるべきことなり。」とあることから、この度の訴訟事件で性信を冷笑した人は、性信とおなじ念仏者たちだったということをあらわしており、念仏者の中にも、そのような人間もいるという現実を、この手紙はよく顕しているといえます。
(2) 上記原文13行目 「・姉・妹なんどやうやうにまふさるゝことは、ふるごとにてさふらふ」。 このことばをどう解釈するかですが、ある著者の現代語訳では「母・姉・妹などがいろいろと申されるは、むかしのことであります。」となっていたり、また、別の訳者でも「母・姉・妹などがいろいろといわれることは、過去の出来事で、今は関係のないことです。」と同じような訳がなされていますが、昔、母や姉妹に何かあったのかもしれませんが、どうも、手紙を読む者として、釈然としない。そこで、石田瑞麿師の『親鸞とその妻の手紙』の、この部分の現代語訳を参照しますと、次ように訳されています。「本人ばかりか、母・姉・妹などまでが、さまざまにいわれることは昔からよくある事であります。」、すなわち、「ふるごと」という部分を、性信坊の母・姉妹など特定の人物にあてはめるのではなく、「昔から、不心得な人間がいて、このようなことは、よくあったこと」と訳せば、終始一貫、非常に分かり易く、筋もとおり訳し方ではないかと、上記現代語訳でも、この線で訳させていただきました。
(3) 次に、分かりにくいのが、すぐそのあとの、原文14行目からはじまる「さればとて念仏をとゞめられさふらひしが、世にくせごと((曲事))のをこりさふらひしかば」の部分です。この部分の現代語訳としては、①「過去に念仏を停止されたことが、世に違法のおこることとはなったのですから」 とか ②「かっては念仏を停止するなどという世にもとんでもないことがありましたから、」などという現代語訳がなされている場合もありますが、これでは、念仏を停止されたことと、世にくせごとがおこったこととがどうつながるのか、現代語訳されていても、かえって意味が取りにくいことになります。その点、「念仏を停止されたこと」を、朝廷の上皇による法然浄土教の承元の法難のことであると推定し、「世にくせごと(曲事)のおこりさふらひし」の部分を承久の変において、その、念仏を停止した上皇が流罪の刑を受けたことととらえて、阿満利麿師がこの部分を「(朝廷)が念仏を禁止されたが、(かえって) 世間では(念仏禁止の張本人である上皇たちが流罪になるという) 普通にはありえないことがおこりましたから」と訳されているのが、史実に照らした、合理的な因果関係をあらわした文章として納得できましたので本現代語訳においても、その線で訳させていただきました。このように、はっきりと史実関係から訳さないと、場合によっては、「念仏を停止されたという事」に対する“たたり”で「世にくせごとが起った」といった、親鸞思想からは最も否定さるべき解釈もありうるということになります。従って、ここでは、やはり歴史的事実にもとづいた現代語訳が大切ではないかと思います。
(4) 最後に、これは、訳者のもっている現実の思想の違いによって、親鸞の文章が異なった受け取り方になり、そのために現代語訳も意味の違った訳になってしまうところがあります。
 すなわち、上記原文18行目終わりからの部分、③「(せん)じさふらふところは、御身にかぎらず、念仏まふさん人々は、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家(ちょうか)の御ため国民(くにたみ)のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはゞ、めでたふさふらふべし。」というところです。これは特に戦後、歴史学者の服部之総氏などは、その思想的信条から、上の③の文について、親鸞の思想や経歴から言えば、<朝家の御ため・・・・>などの文章を、まともに正面から書くはずがない、これは、きっと、親鸞が「朝家の御ために念仏するといったことは、おめでたい愚人の念仏だ」 といいたかったところで、この部分は、おそらく親鸞の、反語的な皮肉の表現なのだ、と評しています。しかし、これも、ちょっと訳者のこじつけのように思われますがいかがでしょうか。たしかに、この部分を書くについては、親鸞もかなり気にしておられたようで、「朝家のおんため」の横に「オホヤケノオンタメとマフスナリ」と左訓し、さらに「国民」の横には「クニノタミ、ヒャクシャウ」と左訓されています。このような左訓は、親鸞聖人の御消息全体の中にも、ほかに二、三箇所あるぐらいで、消息中では、あまり見受けられません。このようなこともありますが、仏教者 柏原裕泉氏は、上のような服部之総氏の考え方に対して、「ここで朝家のことがいわれるのは、善鸞訴訟事件に関連してであることは、いうまでもない。本消息は訴訟に関係した性信に対し、朝家、すなわち公的な為政者を含む国家や国民に対する念仏者の態度を示したものである。したがって、具体的には「朝家」の中に、『念仏をとどめ」る人々もふくまれている。しかし「往生を一定とおぼしめさん人」=念仏者は、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と、念仏の次元で包摂するのが「仏の御恩」に報ずる道であるとする。これは勿論、護国主義でもなく、また逆に国家権力の否定でもない。そのような世俗性は直接対象とされなかった。世俗性と出世間性とを峻別しつつ、出世間が世俗性を支えることをいうので、「仏法ひろまれ」と念仏することが、そのまま、朝家、国民、世の中の安穏を願うことを意味した。』として、性信が善鸞によって起こされたとみられる訴訟事件をよくしのいだことに関連して親鸞がこの文章を書いていると『大谷学報』の中で述べておられます。私は、この説に賛同します。したがって、上のような現代語訳になりました。                     

以上、今月は、この手紙についての解釈のわかれるような点をピックアップして述べさせていただきました。今月はこれで終わります。

●今月の言葉(2018年11月)
慈信坊義絶の経緯


  今月は、『御消息集(略本)第七書簡』です。
 この手紙は、関東の真浄坊という弟子からの手紙に対する親鸞の返信です。『親鸞集』の著者、増谷文雄氏によれば、真浄坊は現在の茨城県鹿島で、そのころ念仏集団の指導者であった順信の門弟であったらしいということです。
 手紙の内容は、関東における状況の変化で、念仏活動がしにくくなっているとの浄信坊からの手紙に対して、そのような念仏環境の変化に対して、どう対処するかを述べた聖人の手紙で、状況の変化を悲しみつつも、そのような変化にたじろがない対処をしてほしいという、聖人の願いが込められた手紙です。

御消息集(略本)第七書簡
 さては念仏のあひだのことによりて、ところせきやうにうけたまはりさふらふ。かへすがへすこゝろぐるし くさふらふ。(せん)ずるところ、そのところの縁ぞつきさせたまひさふらふらん。念仏をさへらるなんどまふさんことに、ともかくも なげきおぼしめすべからずさふらふ。念仏とどめんひとこそ、いかにもなりさふらはめ、まふしたまふひとは、なにかくるしくさふらふべき。余のひとびとを縁として、念仏を ひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ。そのところに念仏のひろまりさふらはんことも仏・天の御はからひにてさふらふべし。慈信坊がやうやうにまうし さふらふなるによりて、ひとびとも御こゝろどものやうやうにならせたまひさふらふよし、うけたまはりさふらふ。かへすがえす 不便( ふびん)のことにさふらふ。ともかくも・天の御はからひにまかせまひらせさせたまふべし。そのところの縁つきておはしましさふらはゞ、 いづれのところにてもうつらせたまひさふらふておはしますやうに御はからひさふらふべし。慈信坊がまふしさふらふことをたのみおぼしめして、これよりは余のひとを 強縁(2ごうえん)として念仏ひろめよとまふすこと、ゆめゆめまふしたることさふらはず、きはまれるひがごとにてさふらふ。 この世のならひにて念仏をさまたげんことは、かねて仏のときおかせたまひてさふらへば、おどろきおぼしめすべからず。やうやうに慈信坊がまふすことを、これよりまふしさふらふと (おん)こゝろへさふらふ、ゆめゆめあるべからずさふらふ。法門のやうもあらぬさまにまふしなしてさふらふ なり、御耳にきゝいれらるべからずさふらふ。きはまれるひがごとゞものきこへさふらふ、あさましくさふらふ。入信坊なんども 不便(ふびん)におぼへさふらふ。鎌倉にながゐしてさふらふらん不便にさふらふ。当時それもわづらふべくてぞ、さてもさ ふらふらん。ちからおよばずさふらふ。
 奥郡(おうぐん)のひとびとの、()信坊(しんぼう)にすかされて、信心みなうかれあふておはしましさふらふなること、かへすがえすあはれにかなしふおぼへ さふらふ。これもひとびとをすかしまふしたるやうにきこへさふらふこと、かへすがえすあさましくおぼへさふらふ。それも日ごろひとびとの信のさだまらずさふらひけることのあらはれて きこへさふらふ、かへすがえす不便にさふらひけり。慈信坊がまふすことによりて、ひとびとの日ごろの信のたぢろきあふておはしましさふらふも、詮ずるところは、ひとびと の信心のまことならぬことのあらはれてさふらふ、よきことにてさふらふ。それをひとびとは、これよりまふしたるやうにおぼしめしあふてさふらふこそ、あさましくさふらへ。日ごろやう やうの御ふみどもを、かきもちておはしましあふてさふらふ甲斐もなくおぼへさふらふ。『唯信鈔』やうやうの御ふみどもは、いまは詮なくなりてさふらふとおぼへさふらふ。よくよくかき もたせたまひてさふらふ法門は、みな詮なくなりてさふらふなり。慈信坊にみなしたがひて、めでたき御ふみどもはすてさせたまひあふてさふらふときこへさふらふこそ、詮なくあはれに おぼへさふらへ。よくよく『唯信鈔』・『後世物語』なんどを御覧あるべくさふらふ。年ごろ信ありとおほせられあふてさふらひけるひとびとは、みなそらごとにてさふらひけりときこ へさふらふ。あさましくさふらふ、あさましくさふらふ。なにごともなにごともまたまたまふしさふらふべし。

正月九日            

親 鸞

(しん)(じょうの) 御坊(おんぼう)


現代語訳
 さて、念仏生活のために、その土地にいづらくなったとうけたまわりました。
かえすがえす心苦しいことです。つまるところ、そのところの縁が尽きたということでありましょう。念仏生活を妨げられるなどと申すことは、いずれにしろ嘆くことではありません。 念仏を禁止しようという人こそ、どのようになろうとも、念仏する人は、何が苦しくありましょうか。ましてや、他の念仏に縁のない人をたよって念仏を広めようと、おはからいになること は、ゆめゆめあってはなりません。その土地に念仏がひろまるということも、仏・天のおはからいなのです。
 慈信坊が、いろいろと申したことによって、人々のこころが、いろいろと変わってしまったよし、うけたまわりました。かえすがえす、こころの痛むことです。
ともかくも、この際、仏・天の御はからいに、おまかせになることです。その処の縁が尽きたということでありましたならば、いずれ別の土地に、移って念仏生活を続けられるように、 どうか、はからってください。慈信坊が申していることを信頼して、今後は、念仏には関係がないが、政治的には力があるからというような人を頼って、念仏を広めなさいといったような ことを、私から申したことは断じてありません。間違いも、はなはだしいというべきです。
 この世のならいとして、念仏を妨げようとすることが起るのは、かねて仏が説いておられることですから、けっして驚き怖れることはありません。いろいろと慈信坊が申しているこ と を、私親鸞が申したことだとお思いになったりすることは、ゆめゆめあってはなりません。慈信坊は、仏の教えなども、思いもよらないふうに申しています。御耳にいれらるべきではありま せん。ひどい間違いもいっているらしいことが、関東からの便りとして聞こえてきています。きわめて心が痛むことです。
 入信坊なども、気の毒に思っています。訴訟事件のことで、鎌倉に長居しているらしく、まったく気の毒です。今は、それも病気をしているからだとか。そうでもありましょう。 しかし、こちらから、なんとも力が及びません。
 奥郡の人々が慈信坊に騙(だま)されて、信心が、みな、動揺してしておられるとのこと、かえすがえす心苦しく、悲しく思っています。私、親鸞が、人々をだましたように、 きこえているとのこと、かさねがさね、悲しく、心苦しく思っていますが、これというのも、日頃から人々の信が、本当に定まっていないということの顕れであるとも思われます。 かえすがえす、困った難事であります。
 慈信坊が申すことによって、人々の日頃の信心が、たじろいたりすることも結局は人々の信心が真実でないことの顕れです。そういう意味では、かえって、信心のまことがはっきりして 、よいことでもあります。ところが、それ(慈信坊が申している事)を、人々は、私(親鸞)が申したように互いに思われているのは、とんでもない嘆かわしいことです。 (そのような人々は)日ごろ、さまざまな聖教を書き写し持っておられたのに、その甲斐もなくなったと思われます。『唯信鈔』や、そのほか、さまざまな書物も、 いまは無駄になってしまったようです。たびたび、書き写された仏の教えも、みな無駄になってしまいました。慈信坊に、みな従って、すぐれた書物も皆で捨ててしまったとのこと、 まことに、どうしようもなく悲しいことです。よくよく『唯信鈔』・『後世物語』など、御覧になってください。
 年来、信心をいただきましたと、云い合っていた人々は、みな、そらごとを言っていたと、わかりました。なんとも、あさましく、嘆かわしいことです。何ごとも何ごとも、また、 また申し上げましょう。
正月九日

 親鸞

真浄御坊


【HP作成者感想】
 この書簡の大筋は、最初に申し述べておりますが、具体的に本文を読めば読むほど、最晩年の親鸞聖人の悲痛な気持ちが伝わってきます。関東に起こった造悪無碍を誤解した 放逸無慚な行ないをする連中のことは、これと同じことが若き日以来、法然教団にも起こっていたことで、格別にめずらしいことではなかったかも知れませんが、このことに関連して、 正信念仏の意図を正しく伝えるべく関東に派遣した、実子、慈信坊善鸞が、こともあろうに、自己の立場を強めようとするあまり、正信念仏を正しく受継いでいると思われる性信や真仏、 さらには順信などの集団までも、放逸無慚な連中として、敵にまわして、自分(善鸞)が、実子として、「他力中の他力の教え」を、ひそかに夜、親鸞から受け継いでいるといった虚偽を 言いふらしたり、実は、本願はしぼんだ花にもたとえられる荒唐無稽なことがらだと教えたり、 更には仏の悪人正機の教えを充分に理解しないまま、賢善精進一辺倒に走り、あげくの果てには、関東における自分の立場を強めるために、念仏行とは無縁の領家・地頭・名主 などという土地の有力者と結んで、上記性信など、親鸞が最も信頼している門弟たちまで、鎌倉に訴え出るといった行動にはしる結果となり、そのために、関東の念仏者たちのあいだに 大混乱が巻き起こる結果となったことです。そのような状況の一端として、親鸞の念仏を素直に継いで、強固に日々の念仏生活を送っている、この手紙の相手の真浄坊なども、 まわりの善鸞の間違った教えに迷ってしまった念仏者や、更には、それを良しとする、領家・地頭・名主など土地の有力者からの圧力で、彼(真浄坊)が長年住み慣れた土地に、 住みにくくなってしまった窮地を、なんとか打開させようとする親鸞の親ごころがうかがえる手紙です。 全体の手紙の流れは原文と現代語訳をお読みいただくことでご理解 いただくことにして、この手紙の現代語訳の中で、若干、訳者によって現代語訳の違いがある部分がありますので、このあとは、そのことについて、検討したいと思います。
 まず、上記原文の本文、初めから23行目にはじまる 「入信坊なんども 不便(ふびん)におぼへさふらふ。鎌倉に長居してさふらふらん不便にさふらふ。当時それもわづらふべくてぞ、さてもさふらふ らん。ちからおよばずさふらふ。」の部分です。これには現代語訳者によって、①『常陸の住人である 入信坊が、この度、善鸞が起こしたとみられる訴訟に関連して鎌倉に呼ばれ、性信と共に、親鸞の教えを正統に受け継ぐ念仏者の立場を断固として擁護したのでしょうが、 うも鎌倉に長居が続いている、どうやら、現在、それも病いを患っているらしい。おそらく、困難な訴訟解決の無理がたたったのではないか、ありうることだが、 それに対しても、今は力およばずどう助けることもできない。』といった現代語訳と、②は ①の下線部の現代語訳を『(訴訟がこじれるような)差支えがあって、鎌倉に 長逗留せざるをえないことになっている』とか『どうにもならない事情ができて長逗留せざるを得ないことになっている』といった病いとは異なるか、又は、はっきりと、 この部分の意味づけをされていない場合があります。私は、「それも、わずらうべくてぞ」といったことば、単なる煩瑣な訴訟の処理で逗留が長引いているというよりも、病いを患って、 どうしても鎌倉に長逗留せざるを得ない状態になっていると受取る方が自然だと思うのですがいかがでしょうか。
 次に、同じく、上記原文の本文、最終行、宛先を真浄坊と書かれている行から上に数えて13行目、「日ごろやうやうの御ふみどもを、かきもちておはしましあふてさふらふ甲斐もなくおぼへさふらふ。 『唯信鈔』やうやうの御ふみどもは、いまは詮なくなりてさふらふとおぼへさふらふ。よくよくかきもたせたまひてさふらふ法門は、みな詮なくなりてさふらふなり。」の部分です。 これには現代語訳者によって、直前の下線部について、①『日頃から、いろいろ、私(親鸞)がお手紙を差し上げたのを大切に持っておられた甲斐もなく、また、同じく、たびたび、 書いてさし上げた法文(聖教の文)も、みな詮なくなってしまった。』と訳されている場合と、②『日頃から、(親鸞が書き写してお送りした)書物を、更に書き写して大切に持っておられた 書物、すなわち唯信鈔をはじめ、度々、書き写して持っておられた、さまざまな聖教も、みな、無駄になってしまった。』というように、①『親鸞が書き写してお送りした手紙や聖教がみな 無駄になったのか』、②『念仏のひとびとが書き写して持っていた聖教が、みな無駄になってしまった』のか、二通りの違った訳がなされています。私は、この場合、②のように、 『ひとびとが、書き写していた聖教がみな無駄になってしまった。』と訳するべきだと思うのですが、いかがでしょうか。いずれにしても、他に傍証する資料の乏しい、 これら書簡の文章は注意して現代語訳すべきだと思います。
 いずれにしても、このような大混乱をおこした元凶が実子の善鸞であり、それを派遣した親としての親鸞の苦悩は、限りなきものであっただろうと推定されます。しかし、 この後も、屈することなく、さまざまな『西方指南鈔』などを書写したり、後世に遺る『一念多念文意』などを著したりと、まさに還相の菩薩を見る思いの強靭な活動を続けられた 親鸞聖人に、眼をみはるばかりです。

今月は以上で終わります。

●今月の言葉(2018年12月)
慈信坊義絶の経緯


  今月は、『御消息集(略本)第八書簡』です。
 いよいよ慈信坊善鸞の義絶にまつわる親鸞聖人のお手紙の紹介も今月で終ることになりました。関東の教えの乱れを正しい軌道に乗せようと自ら信頼して派遣した実子慈信坊善鸞が、親鸞の一連の手紙の内容によれば、こともあろうに親鸞が手塩にかけて育てた関東の門弟たちと争ったあげく、親鸞自身が思いもかけないような異義によって人々を集め、勢力を拡大しようとした慈信坊善鸞の行為は、親鸞をして、それが我が子の行なった行為であるだけに、なおさらの痛切な慚愧の思いに沈ませることになったことは間違いありません。しかし、信頼する門弟である性信たちの適切な行動によって、善鸞が起こしたであろう鎌倉における訴訟沙汰もようやくおさまり、性信坊も無事、鎌倉から、念仏活動の根拠地である常陸下総に帰り、念仏行に勤しむ
状態になった時の性信房に宛てた手紙です。

御消息集(略本)第八書簡
 くだらせたまひてのち、なにごとか(そうろ)ふらん。この源藤四郎殿(げんとうしろうどの)におもはざるにあひまゐらせて(そうろ)ふ。便(びん)のうれしさに(もう)(そうろ)ふ。そののちなにごとか(そうろ)ふ。
 念仏(ねんぶつ)(うった)へのこと、しづまりて(そうろ)ふよし、かたがたよりうけたまはり(そうら)へば、うれしうこそ(そうら)へ。いまはよくよく念仏(ねんぶつ)もひろまり(そうら)はんずらんと、よろこびいりて(そうろ)ふ。
 これにつけても御身(おんみ)(りょう)はいま(さだ)まらせたまひたり。念仏(ねんぶつ)(おん)こころにいれてつねに(もう)して、(ねん)(ぶつ)そしらんひとびと、この()、のちの()までのことを、いのりあはせたまふべく(そうろ)ふ。(おん)()どもの(りょう)は、()(ねん)(ぶつ)はいまはなにかはせさせたまふべき。ただひがうたる()のひとびとをいのり、()()(おん)ちかひにいれとおぼしめしあはば、(ほとけ)()(おん)(ほう)じまゐらせたまふになり(そうろ)ふべし。よくよく(おん)こころにいれて(もう)しあはせたまふべく(そうろ)ふ。(しょう)(にん)(ほう)(ねん))の二十五日の()(ねん)(ぶつ)も、(せん)ずるところは、かやうの(じゃ)(けん)のものをたすけん(りょう)にこそ、(もう)しあはせたまへと(もう)すことにて(そうら)へば、よくよく(ねん)(ぶつ)そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏(ねんぶつ)しあはせたまふべく(そうろ)ふ。
 またなにごとも、(たび)(たび)便(びん)には(もう)(そうら)ひき。(げん)(とう)()(ろう)殿(どの)便(びん)にうれしうて(もう)(そうろ)ふ。あなかしこ、あなかしこ。
 (にゅう)西(さい)御坊(おんぼう)のかたへも(もう)したう(そうら)へども、おなじことなれば、このやうをつたへたまふべく(そうろ)ふ。あなかしこ、あなかしこ。                                

親鸞(しんらん)

 (しょう)(しん)御坊(おんぼう)

現代語訳
 鎌倉から還られて後、無事お過ごしですか。
 (手紙を届けてくれるという)この源藤四郎殿が思いがけずお会いしました。その結果、あなたに手紙を届けてくれるとのこと、この好都合の便のうれしさに一言したためます。その後、変わりはありませんか。
 念仏の訴えの事、しずまった様子を、各地の人々から聞いてうれしく思っています。今はよくよく念仏の教えも広まっているだろうと喜んでいます。
 これにつけても、あなたの信心は正に定まったのです(正定聚)。この上はお念仏を、こころにいれて申して、お念仏を謗(そし)るひとびとの、この世、後の世のことをも祈ってあげてください。あなたのように見事に信心の定まった念仏者は、この上は何をなすべきかといえば、ただ、仏縁に遇うことができず、誤った思いにとらわれている世のの人々が、弥陀の御誓いに導かれるようにと思い計られることこそ仏の御恩に報じまいらせることになるのです。よくよく心にいれて、互いに、お念仏なさることです。法然聖人の御恩を偲ぶ、ご命日の二十五日の御念仏も、つづまるところは、念仏を誹謗する、このような人々が弥陀の御たすけに遇うようにとお念仏申すことにあるのですから、ますますお念仏を心をこめて申されることです。
 また、何事も、今まで度々お手紙で申し上げましが、源藤四郎殿が、あらためて、あなた届けてくださるということで、うれしさに、この手紙を書きました。
あなかしこ、あなかしこ。
 入西坊にも、何か申し上げたいのですが、同じことですので、この手紙の内容をお伝えください。 あなかしこ、あなかしこ。
                                    親鸞
性信御坊へ

【HP作成者感想】
 この手紙には日付がありませんが、性信坊が鎌倉から常陸下総に無事帰還した後、しばらく経ってからの時期のお手紙なのでしょう。手紙の内容のおおよそは現代語訳の部分をお読みいただくことにして、この手紙には大きく分けて二つの注目すべき親鸞のことばがあります。
 その一つは、原文のはじめから7行目「これにつけても御身(おんみ)(りょう)は、いま(さだ)まらせたまひたり。」 のところです。「御身(おんみ)(りょう)はいま(さだ)まらせたまひたり。」とは、いったいどのようなことをいうのでしょうか。ここでいう「(りょう)」とはいったい、どのような意味にとればいいのでしょうか。親鸞聖人は、よくお手紙の中で、この「料」ということばを使われています。そもそも「料」という漢字の意味は「米を斗(升にいれて)計る」ということから始まっているようですが、このことから「分量を計る」とか「代価」とか「等価」という意味となり、また身分の「分」の意味、更には「立場」ということから、それに「相当」すること、すなわち、この手紙の此処の部分では「あなた(性信)に相当すること」。つまりこれは「金剛の信心」ということではないでしょうか。すなわち「御身(おんみ)(りょう)は、いま(さだ)まらせたまひたり。」とは「あなた(性信)の金剛の信心はいま定まったのだ」ということでしょう。すなわち、「金剛の信心が定まった人」というのは、とりもなおさず「現生正定聚」の人であることが定まった、という意味に受け取るべきだと思います。このようにして、親鸞聖人は性信坊のそれまでの念仏者としての篤実な行動、そして、鎌倉における真の念仏者としての発言、さらには、善鸞義絶のことを性信房に知らせる手紙の中の、性信坊が書いた『真宗のききがき』などの書物の内容などから、親鸞聖人の思いとして、上記のような「これにつけても御身(おんみ)(りょう)は、いま(さだ)まらせたまひたり。」という言葉がでたものと考えられます。
 さて、この手紙で注目すべき二つ目は、そのような真の念仏者である性信房の、お念仏のあるべき様は、如何なるものか、このことを親鸞聖人は、その次に書いておられます。それは、「()(ねん)(ぶつ)はいまはなにかはせさせたまふべき。ただひがうたる()のひとびとをいのり、()()(おん)ちかひにいれとおぼしめしあはば、(ほとけ)()(おん)(ほう)じまゐらせたまふになり(そうろ)ふべし。」であり、また、法然上人をしのぶ二十五日の御念仏の精神もそうであるように、「つづまるところは、念仏を誹謗する、このような人々が弥陀の御たすけに遇うようにとお念仏申すことにある」と、お念仏を誹謗するような人のためにこそ、真っ先にお念仏に心がけて、このような人々が弥陀の御たすけに遇うようにと願うことであると心を込めて書いておられます。すなわち、煩悩に煩わされる結果、念仏者を誹謗したり、さまたげたりする人は、いまだお念仏の教えに会うことができず、心を煩わせている人々だから、まさに、このような人々をこそ、真っ先に、弥陀の御たすけに遇うように、弥陀の御誓いに遇うことができるようにと、お念仏することが、弥陀の御恩を報じまいらせることであるということを、切々の述べておられます。以上、比較的短い書簡ではありますが、親鸞浄土教の真髄をうかがわせるお手紙であります。

今月は以上で終わります。