仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年2月)
顕浄土真実教行証文類序


【現代語訳】
(けん)
浄土(じょうど)真実(しんじつ)(きょう)(ぎょう)証文類(しょうもんるい) (じょ)
 不肖、わたくし自身が考えますに、いはかることもできない誓願は、ること、まことに難いいのしてくださるいなるであり、ものにもさまたげられずにいきわたる光は、無明による絶望ってくださるの光である。 ここに、えをかすし、(だい)()(だっ)()()(じゃ)()をそそのかして(びん)()(しゃ)()(おう)殺害させたのである。そして、浄土教の真実が顕れて、 ()(だい)()をして安養のへの往生を選ばしめたのである。これは、弥陀の意を体した聖者たちが、苦悩に沈むすべての いあげようとされたのであり、また の大 が悪逆なした者やえをる者や何とも救われようのないニヒリストをこそ おうとおいになったのである。 よって、あらゆる ()(どく)をそなえた( みょう)(ごう)は、じて を成じる智のはたらきであり、自力によっては得 難いいを いてさとりをさせてくださるまことの であるとることができる。  このようなわけで、えはにも(おさ)めやすいまことのえなのであり、 なものにも()きやすいなのである。かれたすべてのえので、 えにぶものはない。 のみの穢れた世 てて らかなさとりの いながら日々の無明な行に迷い、信ずるのはこの世のみで、まことに昏く、 真実の智慧(すく)なく、 く障り>多き者は、とりわけ 釈迦如来のお(すす)めを(あお)ぎ、ず、この最もすぐれた、まことの して、ひとえに、浄土のを奉戴し、ただこの( とうと)び生きるがよい。   ああ、この真実の親たる 弥陀の御誓いに遇うことは、いくたびねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ()ても( )ることは難中の難である。
 いがけずこの浄土(ぎょう)たなら、からの因縁 (いんねん)をよろこべ。
 もしまた、このたびいのにおおわれたなら、もとのように ()てしなくけなければならないであろう。 摂取しててないという 如来の真(おお)せであり、えてたぐいまれな正法(しょうぼう)である。 しっかり聞き思索していためらってはならない。
 ここに()禿( とく)(しゃく)は、よろこばしいことに、インド・西(さい)(いき)(せい)(てん)本の()()(がた)に、いがたいのにうことができ、きがたいのにすでに くことができた。そしてこのから 敬い信じ、まことにいことをった。そこで、 かせていただいたところをよろこび、 ()させていただいたところをたたえるのである。


読下し古文

そかにおもんみれば、 ( なん)()()( ぜい) >難 (なん)() (かい)()する( だい)( せん) ( )() (こう)(みょう ) 無明 (むみょう)(あん)( )する( )( にち) なり。しかればすなはち、(じょう) (ほう)( えん) (じゅく)して、 調(ぢょう)( だつ)(だい)() (だっ)() )、(じゃ)()( )( じゃ) ())をして(ぎゃく)( がい)(こう)ぜしむ。( じょう)(ごう) ()(あらわ ) れて、(しゃ)()()(だい ) をして(あん)(にょう )(えら)ばしめたまへり。これすなはち(ごん)() (にん)(ひと) しく ()(のう )(ぐん)(もう )()(さい ) し、()(おう )()まさしく( ぎゃく)( ほう) (せん)( だい)(めぐ)まんと( ほっ)す。ゆゑに()んぬ、(えん)( ゆう) ( )( とく)()( ごう)(あく)( てん)じて( とく)( )( しょう)()(なん)( しん) (こん)( ごう)( しん)( ぎょう)( うたがい)( のぞ)(さとり) ()しむる( しん)() なりと。
 しかれば、(しゅ)(やす)()(どん)() (せつ)(けい)なり。大聖一代(だいしょういちだい)(きょう)、このくなし。 ()()(じょう)(ねが)ひ、(ぎょう)(まよ)(しん)(まど)ひ、(こころ)(くら)(さとり)(すく)なく、(おも) (さわり) ( おお)きもの、ことに ( にょ)(らい)(しゃく)( そん) )の発遣 (はっけん) (あお)ぎ、かならず( さい)( しょう)(じき)( どう)()して、もつぱらこの(ぎょう)( つか)へ、ただこの( しん)( あが)めよ。ああ()( ぜい)(ごう)( えん)()( しょう) にも(もうあ)ひがたく、(しん)( じつ)(じょう)( しん)(おく)( こう) にも()がたし。たまたま(ぎょう)( しん)()ば、( とお)宿( しゅく)( えん)(よろこ)べ。もしまたこのたび()( もう)()( へい) せられば、かへつてまた曠>(こう) ( ごう)(きょう)( りゃく) せん。(まこと)なるかな( せっ)( しゅ) ()( しゃ)(しん)( ごん)(ちょう)() ()()(しょう)( ぼう)(もん)() して()( りょ) することなかれ。
 ここに()禿(とく)(しゃく)(しん)(らん)( よろこ)ばしいかな、西(せい)(ばん)(げっ)()(印度・西域(いんど・せいいき))の (しょう)(てん)(とう)()(ちゅう)(ごく))・(にち)(いき)()(ほん))の()(しゃく)に、()ひがたくしていま()ふことを()たり、()きがたくしてすでに()くことを()たり。(しん)(しゅう)(きょう)(ぎょう)(しょう)(きょう)(しん)して、ことに(にょ)(らい)(おん)(どく)(ふか)きことを()んぬ。ここをもって()くところを(よろこ)び、()るところを(たん)ずるなりと。


【HP作成者感想】
 以上でいよいよ、教行信証最初の文章『顕浄土真実教行証文類序』の読みに入りました。 『教行信証』は教巻・行巻・信巻・証卷・真仏土巻・化身土巻の六巻から成っていますが、この序文は、まさに、この六巻全体の序文です。  さて、ここで親鸞聖人は、驚くべきことに、私たちの予備知識も何も顧慮しないで、いきなり親鸞浄土教の本旨ともいうべき事柄を、この序文にぶつけてきています。  
 すなわち、現代語版『顕浄土真実教行証文類序』の最初の4行の文章は、煩悩に煩わされ、生死の闇に迷う衆生を真実平安の世界に導くものは、弥陀の本願と光明だというのです。それでは、煩悩に煩わされ、生死の闇に迷う衆生とは何かということになりますが、これは、とても人様を材料にして語るようなことがらではありませんので、結局自分を材料にして申し上げる以外にありません。
 私の場合、若い時分から小・中・高の学校の教員をする中で、まことに平凡を地に行くような生活を送ってきましたが、それでも親鸞が『一念多念文意』という書物の中で自らを振り返って語っているように『凡夫といふは、無明煩悩われらが身に満ちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ心多く、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とゞまらず、消えず、絶えず』と語っているとおり、私自身も、特に仕事に打ち込まねばならない現役年齢の時代には、まさにその標本のような生活、難度の海をアップ、アップしながら生活をしていたというしかありませんでした。 そしてまた、まだ幼く、性に目ざめる中学生のころから、「自分もいつか必ず死ぬんだ、死ねば全く虚無になり、世界も無く自分も無く・・・・」と思うと、その底無しの奈落に落ちていくような恐怖に、その当時住んでいた小さな家の一階と二階を上がり降りして、恐怖の静まるのを待っていたことを思い出します。性の目覚めは決して華やかなものではなく、死の自覚にふるえあがるような時期でもありました。  申し上げたいことは、「臨終の一念に至るまで消えず絶えない煩悩の煩いや、無限の奈落に落ちて行くような死の虚無の恐怖」、このような、どうしようもない相(さが)の全てを委ねるしかないのが、ここにある難度海を度するという大船であり、無明の闇を破するといえるなら、そのような弥陀の光明であるとしか言いようがありません。親鸞聖人の場合は、私のように弱々しいものではなく、もっと力強く、このことを最初の4行で顕しておられるのが、なんとも力強い限りで、そこに親鸞聖人の強固な「信」の世界が広がっているのを感じます。
  ところが、この序文に於いて、次の文章は突然に変わって、親鸞は阿闍世、提婆達多、韋提希、頻婆娑羅王が登場する古代インドのマガダ国の醜悪な五逆の事件が起こったのは、これは浄土の教えを説き明かす機縁が熟した結果だと語ります。この事件の概略を簡略に記しますと、マガダ国の王子阿闍世が提婆達多にそゝのかされて父の頻婆娑羅王を殺害するという五逆の罪を犯し、母の韋提希を幽閉しますが、釈尊は韋提希を教え導き、無生法忍という浄土を見る眼を与えます。また信巻の最後のあたりでは釈尊が阿闍世を仏の道に導き、救うという物語が描かれています。そして、親鸞は、この事件の真の意味を、五逆の罪を犯したものなど、仏の教えから最も遠い悪人の救済のために仏・菩薩が阿闍世などの登場人物に化身して、一連の逆悪な事件を演じたのだと語ります。そして更に、親鸞は「弥陀仏の名号こそ悪を転じて徳をなす智慧のはたらきであり、得難い金剛の信心は疑いを除き、さとりを得させるまことの道であると知ることができる」と説きます。
 ところで、 私は今まで、上の「転悪成徳」の言葉を、“悪を転じて徳成す”という意味に受け取っていました。しかし、いくらなんでも「悪が徳となる」ということは考え難く、悪は悪たる限り悪であって、悪が直接に徳となるということは納得できるはずがありません。ここで注目すべきは、親鸞聖人は、この「転悪成徳」を“悪を転じて徳を成す”と受取っておられると云うことです。 すなわち、親鸞聖人は漢文の添え仮名でも、この部分を「徳と成す」ではなくて、「徳を成す」としておられることです。ここで、あらためて考えることは、親鸞聖人は、この序文の本日読んだ文章の部分だけでも、生死に迷う無明の闇を照らす智慧の光明や、煩悩に死ぬまで煩わされる者を救い上げる本願、更には、金剛の信心のもととなる名号のはたらきとは何かということを、その意味内容は、私たちには、まだ、さだかならずとも、親鸞浄土教の本典である『教行信証』を読むにあたって、先ず私たちに提起しておられるのではないかと受取ることができます。
では、名号が「悪を転じて徳を成す」正智であるとは、どのように私たちはうけとるべきか、これはやはり、常に悪に走ろうとする煩悩にみちた凡夫である私たちを「仏」にする。このように親鸞聖人は「転悪成徳」ということがらを受取っておられたのではないかと思うところです。
 この後の文章は、釈尊の導きに発し、七高僧を経て、脈々と伝えられた真実の浄土教をたたえる文章がつづき、親鸞聖人ご自身も、聞きがたかった真実の浄土教に、今、会うことを得た仏恩の深さに、限りなき感謝と讃嘆の言葉を綴って、教行信証全体の序文としておられます。

今月は以上で終わります。