仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年4月)
『顕浄土真実教行証』教文類2



  今月は前回に続いて、下記の現代語訳の上から四行目、「往相の迴向に就いて、真実の教・行・信・証がある。」という部分について、さらに掘り下げてみたいと思います。
 従いまして【現代語訳】、および【読下し古文】は同じ部分を掲載しています。

【現代語訳】
 つつしんで浄土真宗、すなわち、浄土真実の教えを考えてみるに、 二種の回向ということがある。一つには往相回向、すなわち、 私たち衆生が浄土に生れ仏になるということ。二つには還相回向、 すなわち浄土に生れて仏になった結果、如来のはたらきとして、この世に還相して 衆生の往相をたすけるというはたらきである。 そして、往相の回向について 真実の教・行・信・証がある。
 ここで真実の教えを顕せば、これはとりもなおさず『大無量寿経』である。 この経の大意は、永劫の過去からの無限の因縁によって全てをここにこのようにあらしめた、 根源の仏である阿弥陀仏が誓いを起され、広くすべての衆生のために法蔵を開いて、 われわれ凡夫を哀れんで、その開かれた法蔵の中から、功徳の宝を選び、施して下され、
 そして仏祖釈尊は、この世にお生まれになり弥陀の教えを説き明かして、諸々の衆生に 真実の往相の利益(りやく)を恵もうと思い計られたのである。このために如来の本願を説くことを、この経の本旨とし、仏の名号を、この経の根本とするのである。
 なにをもって、釈尊が、この世にお出ましになった大事であるかということが 知られるかといえば・・・

読下し古文
  つつしんで(じょう)()(しん)(しゅう)(あん)ずるに、()(しゅ)()(こう)あり。(ひと)つには往相(おうそう)(ふた)つには(げん)(そう)なり。(おう)(そう)()(こう)について(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しん)(しょう)あり。
 それ(しん)(じつ)(きょう)(あらわ)さぱ、すなはち『(だい)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)』これなり。この(きょう)(たい)()は、()()(ちかい)(ちょう)(ほつ)して、(ひろ)(ほう)(ぞう)(ひら)きて、(ぼん)(しょう)(あわ)れんで(えら)んで()(どく)(ほう)()することを(いた)す。(しゃ)()()(しゅっ)(こう)して、(どう)(きょう)(こう)(せん)して(ぐん)(もう)(すく)(めぐみ)むに(しん)(じつ)()をもってせんと(ほっ)すなり。ここをもって(にょ)(らい)(ほん)(がん)()きて(きょう)(しゅう)()とす、すなはち(ぶつ)名号(みょうごう)をもって(きょう)(たい)とするなり。
 なにをもってか(しゅっ)()(だい)()なりと()ることを()るとならば、

【HP作成者感想】
 前回、教巻のはじめ、【読下し古文】でいいますと「 つつしんで(じょう)()(しん)(しゅう)(あん)ずるに、()(しゅ)()(こう)あり。(ひと)つには往相(おうそう)(ふた)つには(げん)(そう)なり。(おう)(そう)()(こう)について(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しん)(しょう)あり。 」となっている部分の最後①「(おう)(そう)()(こう)について(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しん)(しょう)あり。」の部分です。たしかに①の部分は、真実の教・行・信・証 があってこそ、往相迴向が成就するわけですが、さて、ここで、還相迴向に就いて、どうして、ここで教・行・信・証との関係がいわれないのだろうということです。これが、私の小さな疑問でした。
 そこで、「還相迴向」ということがらを、もうすこし考察してみますと、曇鸞が『浄土論註』に述べているのによれば「回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。 往相とは、おのれが功徳をもって一切衆生に回施して、ともに、かの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり。 還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かふなり。 もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり。このゆゑに、回向を首として大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」というふうに往相・還相の二回向を表現しています。これは、現代語訳すれば「阿弥陀仏の回向に二種の現れ方がある。一つには往相、二つには還相である。往相というのは、自身の功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに浄土往生を成就しようと願いはたらくことである。還相というのは、浄土に生れた後、自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、迷いの世界に還つてきてすべての衆生を導き、みなともにさとりに向かわせることである。往相も還相も、みな衆生の苦しみを除いて迷いの世界を離れさせるために与えられたものである。だから天親菩薩は〈衆生に功徳を回向しようとする心を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである〉と述べておられる」となります。 ここで親鸞聖人の和讃を見ますと「南無阿弥陀仏の回向の、恩徳広大不思議にて、往相回向の利益には還相回向に回入せり」とあります。この和讃によれば「南無阿弥陀仏の回向による往相迴向によって衆生が浄土に往生するれば、その利益として還相迴向によって、衆生は、直ぐに、この世に取って返して、この世の衆生を浄土に往生させるために働く。」ということであります。
 これは、現在においても往・還二迴向のありようを説明する一般的な考え方であると考えます。すなわち、まず、往相迴向があり、ついで還相迴向があるということです。 還相迴向には、上記のよう受取り方もありますが、それに対して、往相と還相は一体のものであって、往相即還相であるという考え方もあるようですが、まだ、私の中でよく消化しきれません。消化しきれないとは大変不遜な表現ですが、正直、これだけを、いわれても自分の中に入ってこないのです。
 そこで、上記のような二種迴向の一般的な受取り方に基づいて、この往・還二迴向について、浄土に往生して仏になった元衆生は、どんな形で、この世に還ってくるのか、あまり、このあたりを詳しく解説した仏教書はないようでが、考えてみようと思います。永劫の昔から、信心をいただき、命終わって浄土に往生した衆生は無数にいるはずです。ならば、それらの浄土往生した元衆生は、例えば「霊」として、この世に還ってくるのでしょうか、そうではないでしょう。幽霊のような霊として還ってこられては、我々生きている者にとって煩わしいだけです。第一、このような幽霊まがいの霊を認めるのは仏教ではありません。また、命終わった人が再びこの世に還ってきたのは見たことがありませんし、勿論仏像として、ごろごろ還ってくるわけでもないでしょう。
 また、法然聖人や親鸞聖人、その他、七高僧など善知識としてこの世に還ってきている。これは、うなづけますが、チョット少なすぎませんか。
 更にまた、命終わって、往生した親族を考えるとき、思わず仏壇に向って手を合わして、称名念仏する、これを亡くなった親族の還相迴向と考えることもあり得るかもしれません。たしかにそうかも知れませんが、チョット、ちまちまして規模が小さすぎます。
  永劫の過去から浄土に往生して仏になった、阿弥陀仏と一体となった元衆生は、無数にいるはずです。これらの無数の元衆生はどのように、この世に還っているのでしょうか。結論から言いますと、私は、“如来の回向”として、この世に還ってきているものと思っています。すなわち、無数の如来の回向としてです。間違っているでしょうか。なぜなら、命終わって浄土に往生した衆生は仏になっているのです。仏教は衆生を仏にする教えです。元衆生は往生して、阿弥陀如来と一体になっているのです。ならば、その弥陀と一体になった衆生がこの世に還相迴向として還ってくるのは、如来の回向として還ってくる以外に考えられないではありませんか。 法然上人や親鸞聖人、その他、七高僧など善知識としてこの世に還ってきている。これも、還相迴向のはたらきとしてうなづけますし、近親者が亡くなって、遺された遺族が思わず仏壇に向って手を合わす気持ちになるのも、近親者の還相迴向のはたらきとしてうなずけます。更に、才市や庄松の行為が、人々を仏に遇わせるということが還相迴向のはたらきとなるのもうなずけます、しかし、それらは皆、それら善知識や妙好人が還相迴向のはたらきを現実に自分の力でしているのではなく、そこにはたらいているのは元をただせば無限の“如来の回向”が、その人たちに働いている結果ではないでしょうか。それどころか、この論理を推し進めれば、私たちの、出る息入る息、心臓の動き、一念一念の心の起滅も、皆、如来の回向の働きではないでしょうか。すなわち、全て生かされて生きている絶対他力の世界ではないでしょうか。
 さて、そういえば、法蔵菩薩の一部始終、すなわち、ある国の王様であった法蔵菩薩が人生の矛盾を感じて、何とか正覚をとりたい、そして正覚をとって、、人々と共に仏になりたい。すなわち、我(法蔵菩薩)も衆生も真実の救済にあずかりたいと誓いを立て、この誓いが成就しなければ、私(法蔵菩薩)は仏にならないと世自在王仏に教えを乞い、五劫の永い間の修業を経て、誓いが成就して十劫の昔に阿弥陀仏になられた。そしてそれ以来、絶えることのない弥陀大悲の回向、すなわち如来の回向をこの世に降り注いでおられる。つまりこの法蔵菩薩の衆生救済の一部始終、これこそ、この世の初めの往・還二種回向のはじまりの象徴と私は考えます。そして、それ以来、無数の衆生が阿弥陀如来の大悲という回向をいただいて浄土に往生し、阿弥陀仏と一体となり、この世に如来の回向として還ってきて、現世の衆生の真実の救済のための働きをする。そうすると、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられた結果の如来の回向も、衆生が浄土に往生して阿弥陀仏と一体となった後に、この世に還ってくる如来の回向も、みなこの世に還ってくるということにおいて、還相迴向であることに変りありません。すなわち,如来の回向は、すべて如来の還相迴向であるということになります。それはそうです。如来の回向は、すべてこの世に回向するのであって、この世以外のどこに回向するというのでしょうか。この世以外のどこにも回向する場所はありません。だから、如来の回向は全て、この世に還ってくる還相迴向であることがはっきりします。
 そこで、「教巻」初めの6行の最後の文章を吟味してみましょう。①「往相の迴向について“真実の”教・行・信・証あり」ということばについて、“真実”とはどのような意味に受け取ればいいでしょうか。私が考えますに、聖徳太子に「世間虚仮、唯仏是真」という言葉があります。この言葉は「真実は世間ではなく、唯(ただ)、仏のみが真実である」と受取ることができます。すなわち“仏”こそが“真実”であるということになります。そして、この場合の“仏”とは単なる静止した我々とは別の対象仏ではなく、私(私たち)を包み込んで(摂取して)、私(私たち)に直接はたらく“全てのはたらき”であると私は考えます。すなわち親鸞浄土教的にいえば、“仏”とは“如来の回向”であるということになります。つまり、真実とは仏のことであり、仏とは如来の回向のことであるならば、“真実の”とは“如来の回向の”ということになります。したがって①の文章は、②「往相の回向について“如来回向の”教・行・信・証あり」ということになります。そして更に“如来の回向”は、全て“還相迴向”であるということであれば②の文章は更に、③「往相迴向について“還相迴向の”教・行・信・証あり。」ということになり、往相回向と還相迴向は、ここで一体となります。すなわち、往相迴向が成就するためには真実の教・行・信・証が必要という事であるとともに、その教・行・信・証は還相迴向そのものであるということになります。ということは、親鸞聖人は最初から①の文章の中に還相迴向という言葉をちゃんと入れておられたというふうに解釈してもよいということになります。これで、私(五島)の、「還相迴向と教・行・信・証との関係をあらわす文章はどこに行ったのか」という違和感も解消したということになります。如何でしょうか。みなさまのご吟味を乞うところです。
 そして、更に、法蔵菩薩は永劫の昔に衆生救済の誓い(本願)を立てられ、阿弥陀仏となって、今も如来の回向として、われわれ衆生の救済のはたらきをしておられる、ということですが、それでは一体、この法蔵菩薩の救済とはどういう救済なのでしょうか。 それは商売繁盛ということでもなく、家内安全ということでもなく、医者が匙を投げた難病快癒ですらないでしょう。 私が思いますに、それは、私たち衆生の一人一人を、永劫の昔からの無数の因と縁の連鎖によって、今、ここにこうして有らしめているという、他力真実の究極の親の願い、それは、大いなるいのちの中に生きても死んでも私たちを摂取して包み込んでいるぞ、ということ、この真実を知らしめるのが、私たち衆生を救済するということではないでしょうか。「顕浄土真実教行証文類」の“真実”の意味でもあります。ならば、それは、私たちを生死を問わず、底無しの虚無から救い出すこと、そのことが、法蔵菩薩の、ひいては如来の私たち衆生に対する救済であるということではないでしょうか。親鸞聖人の「本願力にあいぬれば虚しくすぐるひとぞなき、功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし」という和讃は、まさにこのことを顕しているのではないでしょうか。 “本願力”とは、私たち衆生を底無しの生死の虚無から救い出そうとする、真実の親のはたらき、すなわち如来のはたらき、つまり如来の無限の回向のことではないでしょうか。  そして、それは、私たち衆生が、今、ここにこうして有ることに納得し、生死を問わず、それぞれの、ありように納得して生死するということではないでしょうか。

今月は以上で終わります。