仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年5月)
『顕浄土真実教行証』教文類3



  今月は同じように、下記の現代語訳の上から七行目、「ここで真実の教えを顕せば、これはとりもなおさず『大無量寿経』である。」という部分について、さらに掘り下げてみたいと思います。
 従いまして【現代語訳】、および【読下し古文】は同じ部分を掲載しています。

【現代語訳】
 つつしんで浄土真宗、すなわち、浄土真実の教えを考えてみるに、 二種の回向ということがある。一つには往相回向、すなわち、 私たち衆生が浄土に生れ仏になるということ。二つには還相回向、 すなわち浄土に生れて仏になった結果、如来のはたらきとして、この世に還相して 衆生の往相をたすけるというはたらきである。 そして、往相の回向について 真実の教・行・信・証がある。
 ここで真実の教えを顕せば、これはとりもなおさず『大無量寿経』である。 この経の大意は、永劫の過去からの無限の因縁によって全てをここにこのようにあらしめた、 根源の仏である阿弥陀仏が誓いを起され、広くすべての衆生のために法蔵を開いて、 われわれ凡夫を哀れんで、その開かれた法蔵の中から、功徳の宝を選び、施して下され、
 そして仏祖釈尊は、この世にお生まれになり弥陀の教えを説き明かして、諸々の衆生に 真実の往相の利益(りやく)を恵もうと思い計られたのである。このために如来の本願を説くことを、この経の本旨とし、仏の名号を、この経の根本とするのである。
 なにをもって、釈尊が、この世にお出ましになった大事であるかということが 知られるかといえば・・・

読下し古文
  つつしんで(じょう)()(しん)(しゅう)(あん)ずるに、()(しゅ)()(こう)あり。(ひと)つには往相(おうそう)(ふた)つには(げん)(そう)なり。(おう)(そう)()(こう)について(しん)(じつ)(きょう)(ぎょう)(しん)(しょう)あり。
 それ(しん)(じつ)(きょう)(あらわ)さぱ、すなはち『(だい)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)』これなり。この(きょう)(たい)()は、()()(ちかい)(ちょう)(ほつ)して、(ひろ)(ほう)(ぞう)(ひら)きて、(ぼん)(しょう)(あわ)れんで(えら)んで()(どく)(ほう)()することを(いた)す。(しゃ)()()(しゅっ)(こう)して、(どう)(きょう)(こう)(せん)して(ぐん)(もう)(すく)(めぐみ)むに(しん)(じつ)()をもってせんと(ほっ)すなり。ここをもって(にょ)(らい)(ほん)(がん)()きて(きょう)(しゅう)()とす、すなはち(ぶつ)名号(みょうごう)をもって(きょう)(たい)とするなり。
 なにをもってか(しゅっ)()(だい)()なりと()ることを()るとならば、

【HP作成者感想】
 二種回向の真実を説かれた親鸞聖人は、次に前回、教巻の、【読下し古文】でいいますと「 それ真実(しんじつ)(きょう)(あらわ)さぱ、すなはち『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』これなり。 」となっているところから始まる部分です。
 この経の大意はとして、「阿弥陀仏はすぐれた誓をおこされて、(古文では「弥陀誓いを超発し)」のところです。ここで、ふと気になることは、『大無量寿経』に書かれている内容では、誓いを起されたのは法蔵菩薩ではないのかということです。だから、法蔵菩薩の本願成就とか、法蔵菩薩の建てられた本願とか、そういう風に、普通は言います。ところが、親鸞聖人がここでも、言っておられ、一般的にも本願のことをいうのに「弥陀の本願」と思わずいうことがあります。言った途端に「あれ、『大無量寿経』にも本願は法蔵菩薩が発(おこ)されたのに、どうして法蔵菩薩の本願と云わずに弥陀の本願と云っているのだろう」と、その瞬間に何となく思っている自分に気が付きます。ところが、また、そのすぐ後に、弥陀の本願という言葉が出てしまいます。たしかに法蔵菩薩は、修行の結果、覚りを開かれ阿弥陀仏になられたわけですので、阿弥陀仏と法蔵菩薩は、覚りを開かれているか、開かれていないのかは別として、名前が変わっているだけで同じだということになります。だから、法蔵菩薩が発(おこ)された本願は、阿弥陀仏が発(おこ)された本願ということにもなりますので、どちらも同じということになりますが、なぜ、親鸞聖人はここで、「弥陀、誓を超発し」と、あえて言っておられるのかということを、金子大栄師は、その著『教行信証講読』において問題提議されています。
 師によれば、「本願」という、『大無量寿経』、および『教行信証』の根幹ともいうべき事柄を、「法蔵菩薩が発(おこ)された本願」とのみ表現することは、「HP作成者」の下世話な言葉でいえば、いささか名前負けしているということです。つまり、法蔵菩薩というわけですから、我々と同じ、いまだ、覚りを開いていない存在として、如何に法蔵菩薩が後に阿弥陀仏になられたとしても、菩薩の時点では、彼は単に非常に優れた人、スーパーマン、天才であっても、この人(菩薩)が誓いを発(おこ)されたといっても、浄土教徒は、まあ素晴らしいと感嘆するけれども、それだけで終わり、聖道門の修行者では、我々も法蔵菩薩に負けずに修業にいそしまねばと、奮発の材料にするぐらいに留まる。そのようなことでは、とても、私たちが真実根底から、更に言えば、未来永劫に救われる力(本願力)をもつ「本願」とは言えない。そのために、親鸞は、ここで「弥陀、誓を超発し」と、単に発(おこ)したのではなく、“超”という字をつけて、“超発”しということばで表現しておられる。そのことにおいて初めて『大無量寿経』が、真に私どもの救いを完成させる真実の教えであるということができる。このように金子大栄師は表現しておられます。 なるほど、私たちを真に未来永劫、救うことのできる「本願」とは、宇宙開闢以来、無限ともいえる(137億年?)年月の因と縁を重ねて、はじめて我々が今、ここに、このように存在していることになった根源、いわば真実の親の願いとしての“弥陀”超発の本願でなくてはならない。 単に二元的、対象的存在としての法蔵菩薩という、いわば我々と同じ立場の存在では、いかに彼が秀才、天才、スーパーマンであっても、その彼が発(おこ)した「本願」だけでは、われわれを未来永劫の救いに導く「本願」とはいえないということになるのではないでしょうか。ここで、ふと思いますことは歎異抄第四条で「今生に、いかに、いとをし、不便(ふびん)と思うとも存知のごとく、たすけがたければ、この慈悲始終なし(一貫しない)、しかれば念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にて、さふらふべきと云々」という親鸞のことば、更には、歎異抄第2条で、「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ、信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にて、まします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。」という同じく親鸞のことばの深い意味にも通ずるのではと思うのですがいかがでしょうか。
 さて、ここで「弥陀が誓いを超発」されたあとの文章にうつりますが、広くすべてのひとびとのために法門の蔵を開き(広く法蔵を開き)、愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され(古文では「凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。」)となります。ここで、「法門の蔵(法蔵)」とは一体何か、「功徳の宝」とは何かということですが、先ず『教行信証講読』における金子大栄師は「ひろく法蔵を開き」とは、正しく本願の行相(ありさま)である、本願それ自らの展開である。これ即ち経文における四十八願である。四十八願の建立(こんりゅう)は広く法蔵を開けるものである。」といわれています。
 次に「功徳の宝」とは何かですが、これについて、同じく金子師は「誓いを超発された弥陀、法蔵を開いた弥陀は、凡小を哀れむがゆえに、大いなるいのちである弥陀自身をお与えになる。しかし弥陀は凡小の我々にとって、この世ではない彼岸の存在である。従って、現実の我々の生命となるには、現実における弥陀自身、すなわち「如来の名号(南無阿弥陀仏)」を功徳の宝として我々凡小に施されるのだ。」とされています。すなわち、功徳の宝とは「如来の名号」ということになります。
  安田理深師も『大無量寿経』の中にある、全ての諸仏が名号を称することを願う第十七の本願と、そのことを重ねて誓う『大無量寿経上巻』の中の『重誓偈(じゅうせいげ)』という偈文(詩文)の中に「衆のために法蔵を開いて広く功徳の宝を施(ほどこ)そう(爲衆開法蔵、広施功徳宝)」とあることから「功徳の宝」とは名号のことであろうとされています。
  次いで、この文章では釈尊が登場します。『釈尊はこの世にお出ましになり、仏の教えを説いて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお思いになったというものである。(古文は「釈迦世に出興して・・・・恵むに真実の利をもってせんと欲(おぼ)すなり」)』という部分です。すなわち、この文の前半で「弥陀は四十八願という法蔵を開いて、衆生に「功徳の宝」として名号(これは弥陀自身)を施そうとされた。そのことを、釈尊は、この世の私たち衆生に広く知らせ(光闡)て、まことの利益(りやく)を恵みたいと思われ、この世に生まれられたというものです。ここで「まことの利益(りやく)をめぐみたい」すなわち古文では「恵むに真実の利をもってせん」とは、どういうことを指しているのかということです。 安田理深師は、「まことの利益(真実の利)」とは「無上仏道の成就」ということだ」と述べています。それでは、このことは更にどういうことかということですが、最終的に「真実の利」とは「人間が人間自身に安んずるということが最後の答えである。」と述べておられます。まことに「私たち人間が、私たち人間自身に安んずる」こと以上「真実の利」はないのではないでしょうか。
  次に、「如来の本願を説きて経の宗致とす・・・・仏の名号をもって経の体とするなり。」
 この部分は、「HP作成者」としましては、次のような文章でも表されるのではないかと思います。すなわち「真実の親の願い(つまり本願)を説きて経(大無量寿経)のかなめとし、その願いの根源たる真実の親自体(すなわち名号)をもって経の本質(すなわち体)とする。」  ところで、以上の「HP作成者」の表現ですが、「HP作成者」によれば、本願とは、この私を宇宙開闢以来無数の縁起によって、私をして、ここにこうして在らしめた真実の親の願いであり、その願いの根源、すなわち、真実の親自身こそ、名号ではないかと思っているのですが、すこし不満足な点があります。それは上の「 」内の文章では、まず“本願”すなわち“真実の親の願い”が先にあり、その願いの根源、すなわち名号が後で出てくるという点です。普通ならば、私たちが、ここに、こうして、今、ある事の根源、真実の親、すなわち名号が先ずあって、その根源たる名号の願いが本願として、その後に述べられるべきであるのに、それが逆になっている点です。すなわち、私「HP作成者」の上の文章では、「親の願い」が先で「その願いのもとたる親自身があと」となり、なんだか無理をしている感があることです。しかし、曽我先生は『本願に先立って名号がある』といわれていると安田理深師が述べておられるのを見ますと、たとえ「親の願い」が先で「願いのもとたる親」の記述が後になっても、それは記述上のあとさきのことであって、曽我先生の言われるように、大無量寿経では「本願に先立って、名号がある」という厳然たる言葉によって、記述のあとさきは問題とならないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。『教行信証講義』を著した山辺習学師が『大無量寿経』のどこを叩いても“名号”と出てくるといわれるのも、この事ではないかと思うところです。
 以上、金子大栄師、安田理深師、山辺習学師の講述を参照させていただいた「HP作成者」ですが、以上の文は、あくまでも三師の講述を受取らせていただいた「HP作成者」の考えとして述べているものです。

今月は以上で終わります。