仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年6月)
『顕浄土真実教行証』教文類4



  今月からいよいよ釈尊と阿難の登場です。そして、この部分こそ前回の最後の部分、現代語訳でいえば「なにをもって、釈尊が、この世にお出ましになった大事であるかということが 知られるかといえば・・・」というところです。すなわち、釈迦出世の本懐をあらわす文章ですが、「HP作成者」として、どのように受取らせていただいたかということを以下に述べさせていただきます。

【現代語訳】
 『大無量寿経』で言われている。
「阿難が申し上げた。〈世尊(つまり釈尊)は今日、喜びに満ち溢れ、お姿も浄らかで、お顔も、ひときわ光を帯びて輝いておられます。これは、お姿も、まるで、鏡の表裏に暢(とお)るがごとく光り輝いておられます。今日のごとく、けだかく超えすぐれて尊い師の様子は、いまだかって、私(阿難)が拝見したことがありません。
今日、わが師は世尊として常と異なる、まことに奇特で尊い境地に住まわれておられます。
今日、わが師は世雄として、普等三昧の境地に入っておられ、悪魔や魔王に全く妨げられない雄々しい悟りの境地に住まわれておられます。
今日、わが師は世眼として、全ての衆生を真実の救いに導く導師となっておられます。
今日、わが師は世英として、最高の智慧の状態に居られます。
今日、わが師は天尊として、天中の天、すなわち第一義天として、如来の徳を行じておられます。
過去・未来・現在のどの仏も、仏と仏が相念じあっておられるということです。今、仰ぎ見る我が師釈尊も諸仏と念じあっておられないはずはありません。でなければこのように光り輝く姿を現じられるはずがありません。
そこで釈尊は阿難にお告げになった。〈天国の神々が、汝に、今のような質問をさせたのか。それとも、自らの優れた眼によって仏である私(釈尊)の光り輝く相を問うたのか。〉と。
そこで阿難は仏(釈尊)に申し上げた。〈天国の神々が私(阿難)のところに来て、私に質問させたのではありません。私(阿難)自身が、仏(釈尊)の光り輝く、お姿を驚きをもって仰いで、そのわけを問いたてまつったのです〉と。
仏(釈尊)が言われた。〈それは素晴らしいことだ。その問いを聞いて私は大変喜ばしく思う。そなたの深い智慧と妙なる言葉をもって、衆生を救おうと、この私の五つの瑞相を問うたのだ。如来は、この上ない大悲をもって、衆生の迷いの世界を哀れみ、その故に、この世にお出ましになったわけは、仏の教えを説き述べて、衆生のために真実根本の救いを恵もうとするものである。
このような、仏が世に出られるという事柄は、はかり知れない長い時を経ても、なお難しいことであって、それはまるで、咲くことが無限に稀な優曇華が咲くようのものである。だから、今のそなたの問いは、他を利益する上で、この上もない素晴らしいことであって一切の天人や、この娑婆の人々を利益(りやく)するものである。
阿難よ、よく知るがよい。如来のさとりは、この上なき尊い智慧をそなえており、人々を、かぎりなく導くものである。この智慧は、まことに自在であり、何ものにも妨げられないのだ。

読下し古文
  『(だい)()(りょう)寿(じゅ)(きょう)』((じょう))にのたまはく「〈(こん)(にち)()(そん)諸根(一〇しょこん)(えつ)()姿()(しき)(しょう)(じょう)にして、光顔巍々(一一こうげんぎぎ)とましますこと、あきらかなる(かがみ)(きよ)(かげ)表裏(ひょうり)(とお)るがごとし。(一二い)(よう)(けん)(よう)にして(ちょう)(ぜつ)したまへること()(りょう)なり。いまだかつて(一三せん)()せず、(しゅ)(みょう)なること(きょう)のごとくましますをば。やや(一四)、しかなり。(だい)(しょう)、わが(こころ)(ねん)(ごん)すらく、(こん)(にち)()(そん)()(どく)(ほう)(じゅう)したまへり。(こん)(にち)(一五せ)(おう)(ぶつ)(しょ)(じゅう)(じゅう)したまへり。(こん)(にち)(一六せ)(げん)(どう)()(ぎょう)(じゅう)したまへり。(こん)(にち)(一七せ)(よう)(さい)(しょう)(どう)(じゅう)したまへり。(こん)(にち)(一八てん)(そん)(にょ)(らい)(とく)(ぎょう)じたまへり。(一九こ)(らい)(げん)(ぶつ)(ぶつ)(ぶつ)とあひ(ねん)じたまへり。いまの(ぶつ)(しょ)(ぶつ)(ねん)じたまふことなきことを()んや。なんがゆゑぞ()(じん)(ひかり)(ひかり)いまししかる〉と。ここに()(そん)()(なん)()げてのたまはく、〈(しょ)(てん)のなんぢを(おし)へて(きた)して(ぶつ)()はしむるや、みづから()(けん)をもって()(げん)()へるや〉と。阿難(あなん)(ぶつ)にまうさく、〈諸天(しょてん)(きた)りてわれを(おし)ふるものあることなけん。みづから(しょ)(けん)をもってこの()()ひたてまつるならくのみ〉と。   (ぶつ)ののたまはく、〈()いかな阿難(あなん)()へるところはなはだ(こころよ)し。(ふか)智慧(ちえ)(二〇しん)(みょう)(べん)(ざい)(おこ)して、(しゅ)(じょう)(みん)(ねん)せんとして、この(二一え)()()へり。(にょ)(らい)(二二む)(がい)(だい)()をもって(さん)(がい)(二三こう)(あい)したまふ。()(しゅっ)(こう)するゆゑは、(どう)(きょう)(こう)(せん)して、(ぐん)(もう)(すく)(めぐ)むに(しん)(じつ)()をもってせんと(ほっ)してなり。()(りょう)(おく)(こう)(もうあ)ひがたく()たてまつりがたきこと、なほし(二四れい)(ずい)()(とき)ありて(とき)にいまし()づるがごとし。いま()へるところは(二五にょう)(やく)するところ(おお)し、(いっ)(さい)(しょ)(てん)(にん)(みん)(かい)()す。()(なん)まさに()るべし、(にょ)(らい)(しょう)(がく)は、その()(はか)りがたくして、(どう)()したまふところ(おお)し。(二六え)(けん)()()にしてよく(二七あつ)(ぜっ)することなし〉」と。 

【HP作成者感想】
 『大無量寿経』には次のように説かれている。と親鸞は、その内容を引用します。
 釈尊の常随の弟子である阿難が、今やまさに、多くの菩薩方を前にして、『大無量寿経』を説き述べようとされる釈尊の様子が、常と異なる光顔巍巍たる奇特の相を顕しておられるのに気がつきます。そこで阿難は師の釈尊に問いかけます。「世尊は今日、喜びに満ち溢れ、お姿も浄らかで、お顔も、ひときわ光を帯びて輝いておられます。お姿も、まるで、鏡の表裏に暢るがごとく光り輝いておられます。今日のごとく、けだかく超えすぐれて尊いありさまは、いまだかって、私(阿難)が拝見したことがありません。」 そして、さらに続けて
(1)「今日、わが師は常と異なる、まことに奇特で尊い境地に住まわれておられます。」
(2)「今日、わが師は世雄として、仏の住まう所に住しておられます。」
(3)「今日、わが師は世眼として、全ての衆生を真実の救いに導く導師となっておられます。」
(4)「今日、わが師は世英として、最も勝れた状態に居られます。」
(5)「今日、わが師は天尊として如来の徳を行じておられます。」
 過去・未来・現在のどの仏も、仏と仏が相念じあっておられるということです。今、仰ぎ見る釈迦仏(世尊)も諸仏と念じあっておられないはずはありません。でなければこのように光り輝く姿を現じられるはずがありません。」 
 このような常と異なる釈尊の様子に気付いた阿難ですが、このことに関連して安田理深師は次のように述べておられます。「阿難は侍者(じしゃ)だから今日はじめて釈尊を仰いだわけではない。いつも見ていた。しかし、見れども見えず、聞けども聞かずという状態であったわけである。その阿難が、しかも初めて仏そのものを拝むことができた。そこに「今日」ということが大事な意味を持つ。仏を見るということは一面からいうと仏を見る眼が開いたこと。仏を見る眼が開かねば、仏でも人間に見える。仏の眼を開けば人間が仏に見える。ここに初めて仏を見た阿難があらわされている。」そして更に「人間の眼で見れば、仏も人間に過ぎない。たゞ秀(すぐ)れた人というだけである。真に自己の一大事を解決して下さる如来に遇うたということが今あらわれている。そこに阿難と釈尊との対話を通して出世の大事ということがあらわしてある。 」 以上のように安田師は述べておられます。
 たしかに阿難は他の弟子に比べて、仏道修行に疎(うと)く、凡夫の色合いの強い人物であったということです。その凡夫阿難が、今や耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の会座で多くの菩薩衆を前にして『大無量寿経』を説き始めようとされる釈尊の表情に、いつもと違う、何かを感じます。凡夫阿難の眼と心には光顔巍々と表現される釈尊の表情が光り輝きます。『大無量寿経』を説き始めようとされる釈尊は、既に菩提樹の下で覚りを成就されている仏です。しかし、凡夫阿難の眼には、今まで釈尊は、偉大な人間にしか映らなかったわけでしょう。ところが、今、まさに大衆を前にして『大無量寿経』を説こうとされる釈尊の表情に光り輝く仏陀を見た。仏陀釈尊がこの世に出興された瞬間です。しかしこの仏陀釈尊の出興は、物理的にこの世に出興されたのでは勿論ありません。歴史世界へ社会的な出興でさえもないでしょう。ではどこに出興されたのか、これは、まさに阿難の心に、すなわち仏を求める阿難の菩提心に出興されたのです。弟子の中で仏道修行に最も凡庸な阿難に出興されたのです。そして、更に言うならば、凡庸な阿難だから仏が見えたのでしょう。阿難が世間的に賢く、ぬかりのない人間だったら、釈尊の光顔巍々の表情に別の理由を見てしまったかもしれません。例えば大衆を前にして興奮しているからだとか、血圧が高くなっているせいだとか(これは時代錯誤の冗談にしても)、なにか世間的な理由を考えるかもしれません。つまり、真実永遠の覚りを求めようとしている凡庸な阿難か、そのような架空な覚りを求める心はなく、この世を絶対と見るぬかりのない賢者であるかの違いではないでしょうか。
 以上は、主に上記(1)の釈尊の奇特の相を見た阿難の様子の描写です。そしてこれは、釈尊の仏としての内面が外に顕れ出た様子に他なりません。その内面をも阿難は次に鋭く讃仰指摘します。これが(2)以下です。
 まず、(2)では「世雄として、仏の住まう所に、いまや住しておられる釈尊です。」 この(2)について「普等三昧」の境地に入っておられることを指摘しているのは、教巻のこのあとに出てくる憬興師の『述文賛』においてです。「普等三昧」とは一体どのようなことなのでしょうか。まず、三昧といえば、仏教語大辞典では「なにものかに心を集中することによって心が安定した状態に入ることで禅定と同じ。」となっていますが、釈尊は多くの菩薩方が集まった会座で、今や『大無量寿経』を説き始めようとされているときですから、忙しくされている時で、こころも安定して静かだとはいえないでしょう。とても、型にはまった坐禅や瞑想にふけっている状態ではありません。たしかに心は『大無量寿経』を説かんとして、極度の集中をしておられるときであることは分かります。だから、釈尊がこのような極度の精神集中をしておられる状態を指して三昧の状態に居られるといっていいのだと思います。型にはまった坐禅や瞑想の状態ではないのです。それでは更に『普等三昧』という三昧は、どのような三昧なのでしょうか。これも、仏教語大辞典を参照しますと①「平等に一心不乱の境地」とか②「あまねく諸仏を同一時に等しく見る三昧」となっています。まず、①の「平等に一心不乱の境地」では、これは、人間普通の状態でもなりうるわけで、これでは、とても釈尊の内部から外へ自ずと鏡の清き影が光顔巍巍なる仏の光として阿難の眼に映ることはないでしょう。やはり次の②「あまねく諸仏を同一時に等しく見る三昧」としての「普等三昧」と見るべきでしょう。しかし、②の意味はなるほど読んで字のごとく私たちには受取れますが、結局仏の境地をあらわす事柄としてどういう意味なのでしょうか。「あまねく諸仏を同時に等しく(平等に)みる」とは如何なることか、これは一切が仏であるとみる三昧であると私(HP作成者)は受取らせていただきました。何だって?この有漏穢身である私を含む全ての衆生も仏であるっていえるのか?ということになりますが、安田理深師もいわれるごとく、仏の眼から見れば、三界のあらゆるものはみな仏、すべて大いなるいのち阿弥陀如来に摂取されている存在。仏の眼から見るとそうなるはずです。このような「普等三昧」の境地に居られるのが、今日の釈尊ではないでしょうか。こうなると悪魔であろうと魔王であろうと皆、阿弥陀仏の子として、私たちと同じ、ついでに申し上げると人間も宇宙に現れている魔物かもしれません。おそらく、他の人間以外の生き物はそのように見ているでしょう。だから、魔物に、もし出くわしても、避けることはない。魔物の方から「あら、なつかしや、こんにちわ、お互い同じ阿弥陀仏を親に持つ同じ町内会の子、何か私(魔物)でお役に立つことがあったら言ってください。」と笑顔で言うかもしれません。もっとも、魔物の笑顔というのはどんな笑顔か、具体的にはわかりませんが。
 まあ冗談はこれぐらいにして、ここで思い出すのは歎異抄第七条「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇(じぎ)も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もをよぶことなきゆへに無礙の一道なりと、云々。」という親鸞聖人のメッセージが思い浮かびます。
 次に(3) 世眼として「全ての衆生を真実の救いに導く導師」となっておられる釈尊です。安田理深師は、ご自身の『選集第15巻下』で簡潔な言葉で「世眼とは世間の眼ということ。世間の眼となって世間を導くということ。」と言っておられます。なるほど、如何に仏の真実が究極の救いを我々にもたらすといっても、我々衆生から、隔絶した別世界のことばで成り立っているのだとしたら、われわれ衆生とは遂に接点をもたぬまま、遠い彼方の救いになってしまうでしょう。究極の救いであればこそ、世間によく通ずる眼をもって、いや世間のあらゆる事柄の中に身を置いて我々衆生を導いておられるのが如来であってみれば、阿難が釈尊のなかに世眼を見たのは当然といえるのではないでしょうか。
 更に(4)では世英(せよう)として「最勝の道に住し給えり」です。安田師は「最勝道とは『無上菩提』、無常菩提とは自ら成仏をかちとったということである。それからいえば、自利の面が主になる。」といわれています。 また、「無常菩提」とは無上最高のさとりということだそうですが、一方、最勝の道として、仏教語大辞典では「最も優れた智慧の境地」といわれています。無上最高のさとりの境地も最も優れた智慧の境地も仏として同じ意(こころ)をいっているわけでしょうから、要は世英とは、釈尊が無上仏として、この世に出興されたという阿難の受けとめであることに、変わりはありません。
 最後に(5) の「今日天尊、如来の徳を行じたまへり。」です。安田師は「④までは『世』、ここでは『天』、仏は人天(にんでん)を超えているので、仏を天というわけにはいかないが、この天は天中天、すなわち「第一義天」とである。」といわれています。 仏教語大辞典によれば「第一義天」とは仏を指すということですから。本文にありますように「今日天尊、如来の徳を行じたまへり」ということでいいのでしょうが、ここで「天」という字がでてきました。仏教では天の世界すなわち天界は精神のみの世界、すなわち天人や梵天、帝釈天など天の神様の世界ですが仏界には遠く及ばず、相変わらず煩悩の世界であって、決して仏の世界ではないということになっています。その「天」という字を使って「天尊」とはこれいかに、ということでしょう。しかし、安田師は、この場合の「天」は「天」中の「天」すなわち第一義天だというわけです。しかし、それでは、このことはどういうことでしょうか。やや飛躍した説明になりますが、天中の天とはいえば「天ぷら」中の「天ぷら」ということでしょうか。普通、「天ぷら」といえば、エビの天ぷらを例に挙げますと、エビは長さ約10cm程度のものを選び、皮をむいて、「卵1個」を「冷水」に溶いて、よく混ぜ合わせ200mlにしたものの中に「てんぷら粉110g」を入れ、ころもとして適当な状態にといて、180℃に熱した天ぷら油の中で約3分間揚げたもの、これは普通の天ぷらでしょう。ところが、ここまででしたら、天ぷらとして全然おいしくない。まだ食べていなののですから。すなわち普通理屈の上で天ぷらとして定義された天ぷらです。これが、天ぷら中の天ぷら、本当の天ぷらとなるには、この普通の天ぷらを、あつあつのご飯の上に置いて、適当な天ぷらつゆをかけて天丼として食べるとき、その微妙な味を味わうとき、その天ぷらは、本当の天ぷら、すなわち「天ぷら」中の「天ぷら」となるでしょう。すなわち、所定の材料を所定のレシピでいわば科学的に揚げただけでは、これはただ、理論上の天ぷらで、美味しくもなんともない。それが天丼としてご飯の上にのって、それを夢中で食べるときにはじめて本当の天ぷら、いわゆる天中の天となるわけでしょう。ことほど左様に、天人の世界は精神世界、理論だけの世界で真実の味も何もない定義だけの世界、いわば科学の世界です。科学の世界ですから、やたらと好奇心は旺盛ですが、その調べ尽くし、作り上げた結果は「あゝ、そんなもんですか」ということで、味わいも何もない世界です。「第一義天」とは、この天丼上におかれて、真の天ぷらとしての微妙な味わいをもつ天ぷら中の天ぷらの状態をさしたものでしょう。すなわち仏の世界です。だから、「天尊」は「天尊」でも如来の徳を行じ給える「天尊」です。
 以上のように、阿難は、日頃、単なるすぐれた人としか見なかった釈尊に五つの瑞相すなわち「五徳瑞現」に感応することによって、釈尊の上に仏を見たわけでしょう。 
 そして、阿難の仏陀釈尊に対する讃嘆は、すぐ次に移ります。「過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれるとということでありますが、今、世尊もまた仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか」。 これは一体、どういうことでしょうか。「過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれる」 とはどういうことなのでしょうか。しかし、これは、すぐわかります。すなわち、「互いに念じあわれる」とは一体何を念じあわれるのかということを考えれば、すぐに分かります。仏がたは何を念じあわれるのか、これはもう、分かりきっています。われわれ衆生の真実窮極の救済を念じあわれているのです。それ以外の、一体、何を念じあわれるというのでしょうか。難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇(あん)を破する恵日なり。難度海の波間をアップアップする我々衆生を度することが仏方が念じあわれる事柄の全てです。ならば、「過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれる」といういことの意味も、自ずと私たちにわかるでしょう。そして、「今の仏、すなわち、阿難の目の当たりにおられる仏陀釈尊も、仏である限り、われわれがここにこうして在るということの真実、すなわち我々衆生の真実窮極の救済を仏方と念じあわれているのです。そのことを阿難の菩提心は、すばやく感応して、「今、世尊もまた仏陀として仏がたを念じ、念じあわれているに違いありません」という言葉となります。
 上のような阿難の言葉を聞いて、仏陀釈尊は阿難に問われます「諸天の神々が、汝にそのような質問をさせたのか、それとも、自らが感応し、自らの根源の智慧をもって仏の光顔巍々たる訳を問うたのか。」 阿難は答えます。「諸天の神々が、私に問わしめたのではありません。私自身が光り輝ける釈尊のご様子を拝見したところを、そのままお尋ねしたのです。」 
 釈尊は「諸天が阿難に問わせたのか」と先ず尋ねられます。諸天は肉体の欲望からははなれて、精神世界に住む者だといわれていますが、それだけに、精神的な好奇心は旺盛で、今日の釈尊の光顔巍々たる様子が気になって仕方がない。そのあたりが、天人がまだ煩悩の子であることを表しています。そこで、自分の知的な好奇心を満足させるために、阿難をそそのかして、釈尊に問わせたということも、あり得るのです。知的好奇心が旺盛な天人というのは、突飛な例えですが科学者に似ています。科学的探究というのも、肉体的欲望をはなれた、純粋に知的な好奇心からの精神生活とすると、この天人の好奇心の満足と似ているのではないでしょうか。
 すべてに通じた仏陀釈尊は、まずこの点をおさえられます。すなわち阿難の問いは、諸天のせいなのか、それとも阿難がみずからの根源から問うたのかということを確かめられます。阿難の根源から出た問いであってこそ、初めて仏陀釈尊の出興を問い尋ねる、真実の宗教的問いといえるのではないでしょうか。それだけに、仏陀釈尊の出興は、阿難の根源に、仏の出興となって表れたのではないでしょうか。
 阿難の問いは、まさに阿難の根源からでたものであること、そのことを、はっきりと確かめられた仏陀釈尊は「よろしい、阿難、そなたと問いこそ真実の問いである。」としたうえで、「如来が世に出興するゆえは、阿弥陀仏という、大いなるいのちの根源の仏を、この世の、すべての生きとし生ける者につたえ与えようとするもので、これは、三千年に一度しか遇えないという霊瑞華の開花に遇うようなものである、このように如来のさとりは、無限の智慧と、無限の能力と、無限の慈悲をともなうものであり、なにものにもさまたげられることなく、とどめられうことがないものである。」と、はじめて阿難に無限大悲の如来のすばらしさを詳しく伝えられたのです。 

今月は以上で終わります。