仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年7月)
『顕浄土真実教行証』教文類5



  次に親鸞聖人は、『大無量寿経』とは別に説かれている『無量寿如来会』、『仏説無量清浄平等覚経』および、『大無量寿経』の注釈書である、新羅の憬興(きょうごう)の『述文賛(じゅつもんさん)』を引用して、更に如来の世に出興された意義を究明されます。

【現代語訳】
◎ 『無量寿如来会』に言われている。
 「阿難が仏である釈尊に、まさに申し上げるに、〈世尊よ、私は今日、類(たぐい)まれなる光を帯びて輝いておられる世尊の ご様子を拝見しましたので、この問いを奉ったのです。決して、天の神々の意向によってお尋ねしたのではありません。
 世尊は阿難に、お告げになりました。「それはよいことだ。阿難よ、汝の問いは大変素晴らしい問いだ。如来の今日の出興の意味をよくわきまえて、問うてくれた。一切の正覚を成就した如来は、大悲のこころをもって迷える衆生を救う為に、優曇華の開花が稀有なる如く、この世に顕れたのである。汝はこのことを問うたのであり、また、生きとし生ける者を哀れんで、こころの安らぎを与える為に、如来である私(釈迦)に、この義を問うたのである。」
◎『平等覚経』に言われている。
「仏(釈尊)が阿難に告げて申された。〈世のなかに優曇鉢樹という樹があるが、ただ実のみが成って華は咲かない。この世に仏が現れることは、優曇華の華が咲くのが稀なように、仏に遇うことは、まことに稀なことである。しかし今、私(釈迦)は仏となってこの世に顕れた。若し汝に大きな徳があって、聡明で善い心をもって仏である私(釈迦)のこころを知ることができ、そのことを忘れないならば、仏の傍に仕えることができるであろう。汝が今問うたところについて、私が説くところをよく聞き、明らかに聞くがよい。〉」
◎新羅の憬興師が、その著『述文賛』で述べている。
 今日、釈尊は、「世尊としていまだかってない尊い姿を顕しておられる」というのは、仏の無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力が顕れ給うた姿であり、これは、ただ常と異なるというというのみではなく、この世において、この限りなき、お姿と等しきものがないが故であります。
 「今日、釈尊は世の雄者として仏の住まう所に住しておられる」というのは一切の在りようが普く等しいという仏の三昧の境地におられるということで、これは全てのものが阿弥陀仏に摂取された一つの等しき存在であるが故に、多くの魔物や魔王さえも、阿弥陀仏に摂取されて普くひとつになってしまえば、悪魔が悪魔たりえない存在になっているからであります。
 「今日、世眼すなわち、世間を照らす智慧の眼を持たれた釈尊は人々を導く徳を、お持ちになっている」というのは五眼(肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼)の全てを持っておられる仏(釈尊)は全てを見そなわす仏眼によって現実の世間を見る眼すなわち肉眼、天眼も持っておられるわけで、そうであって、はじめて世間の人々を導く導師としての徳も備えておられるということになる。
 「今日、釈尊は世英(せよう)として智慧最勝の道に住しておられる」とは仏の四種の智慧の世界に住しておられるということで、これは仏として、唯一比べることができない存在であるからである。
 「今日、天尊として如来の徳を行じておられる。」 
仏教で天はやはり煩悩の世界である。しかし天は天でも第一義天は第一義すなわち真如仏性をさとる故に仏性不空、すなわち常住の如来の徳を行じておられるということになる。「阿難よ当(まさ)に如来の正覚を知る」とは、釈尊が仏としてのこの世に出現されたということであり、「慧見無礙」というのは、障りなき仏の智慧ということであり、「無能遏絶」というのは、障碍するものなきことで、すなわち如来の徳をあらわすものである。
 したがって、これらの文は、釈尊が説かれた『大無量寿経』が真実の教えであることを明らかに証する根拠である。まことに、これは如来が世に顕れて説かれた正しいおしえであり、稀有なる最も勝れた仏の経であり、必ず、一切の衆生を悉く仏の覚りに至らせる究極の教えであり、これを読む人々を速やかに、浄土に至らせる金言であり、全ての仏がたが称賛されるまことの言葉であり、まことに今日の時機相応の真実の教えであることを知るべきである。

【読下し古文】
 『() (りょう)寿( じゅ)(にょ)( らい)()』((じょう))にのたまはく、「()(なん )(ぶつ)にまうしてまうさく、〈()( そん)、われ(にょ)( らい)(こう)( ずい)()()なるを()たてまつるがゆゑにこの(ねん)(おこ)せり。(てん)( とう)によるにあらず〉と。(ぶつ) ()( なん)()げたまはく、〈()いかな()いかな、なんぢいま(こころよ)()へり。よく()( みょう)(べん)( ざい)(かん)( ざつ)して、よく(にょ)( らい)(にょ)()()()ひたてまつれり。なんぢ(いっ)( さい)(にょ)( らい)(おう)(しょう)( とう)(がく)および(だい)()(あん)( じゅう)して(ぐん)( じょう)()( やく)せんがために、()( どん)()()()なるがごとくして大士(だいし)世間(せけん)出現(しゅつげん)したまへり。ゆゑにこの()()ひたてまつる。またもろもろの()(じょう)(あい)( みん)()( らく)せんがためのゆゑに、よく(にょ) (らい)(にょ)()()()ひたてまつれり〉」と。(以上)
  『平等(びょうどう)(がく)(きょう)』((いち))にのたまはく、「(ぶつ)阿難(あなん)()げたまはく、〈世間(せけん)優曇鉢樹(うどんばじゅ)あり、ただ()ありて(はな)あることなし。(てん)()(ぶつ)まします、いまし(はな)()づるがごとくならくのみ。()(けん)(ぶつ)ましませども、はなはだ(もうあ)ふことを()ること(かた)し。いまわれ(ぶつ)になりて(てん)()()でたり。()大徳(だいとく)ありて、聡明善心(そうみょうぜんしん)にして仏意(ぶつい)()るによって、()し忘れずば、仏辺(ぶっぺん)にありて(ぶつ)(つか)えたてまつるなり。若今問(なんじいまと)えるところ、(あまね)()き、(あきら)かに()け」と(以上(いじょう))
 (きょう)(ごう)()のいはく((じゅつ)(ぶん)(さん))、「〈(こん)(にち)()(そん)(じゅう)()(どく)(ほう)〉といふは、(じん)(づう)(りん)によりて(げん)じたまふところの(そう)なり。ただつねに(こと)なるのみにあらず。また(ひと)しきものなきがゆゑに。〈(こん)(にち)()(おう)(じゅう)(ぶつ)(しょ)(じゅう)〉といふは、普等三眛(ふとうざんまい)(じゅう)して、よく衆魔雄健天(しゅまおうごんてん)(せい)するがゆゑに。〈(こん)(にち)()(げん)(じゅう)(どう)()(ぎょう)〉といふは、()(げん)(どう)()(ぎょう)()づく。(しゅ)(じょう)(いん)(どう)するに()(じょう)なきがゆゑに。〈(こん)(にち)()(よう)( じゅう)最勝(さいしょう)(どう)〉といふは、(ぶつ)()()(じゅう)したまふ。(ひと)(ひい)でたまへること、(ひと)しきことなきがゆゑに。〈(こん)(にち)(てん)( そん)(ぎょう)( にょ)(らい)( とく)〉といふは、すなはち第一義天(だいいちぎてん)なり。 仏性不空(ぶっしょうふくう)()をもつてのゆゑに。〈()( なん)(とう)()(にょ)( らい)(しょう)( がく)〉といふは、すなはち()(どく)(ほう)なり。〈()( けん)()()〉といふは、(さい)( しょう)(どう)(じゅつ)するなり。〈()( のう)(あつ)( ぜつ)〉といふは、すなはち(にょ) (らい)(とく)なり」と。(以上)
◎ しかればすなはち、これ(しん) (じつ)(きょう)(あらわ)(みょう)( しょう)なり。まことにこれ、(にょ)(らい)( こう)()(しょう)( せつ)()( どく)(さい)( しょう)(みょう)( でん)一乗究竟(いちじょうくきょう)(ごく)( せつ)(そく)( しつ)(えん)( ゆう)(きん)( げん)(じっ)( ぽう)(しょう)( さん)(じょう)( ごん)()()(じゅん)( じゅく)(しん)( きょう)なりと、()るべしと。

【HP作成者感想】
 『教行信証』は親鸞聖人の信心の表白書であるとともに、天下に、釈尊にはじまり、七高僧に学び、自己の信ずるところの浄土の教えが真宗すなわち『浄土真宗』であることを宣言された書です。そのために多くの経典を引用して、自らの信心を表白されています。そして、その信心の基盤は『大無量寿経』であります。従って『教行信証』を著すにあたって、まず、『大無量寿経』が真実の教であることを、何を置いても、この『教巻』において示されたのでしょう。
そこで、『大無量寿経』の大綱を表す「往相」「還相」の二種の如来回向を示すとともに、自らの筆で、先ず、この経の大意として「阿弥陀仏の本願」と仏陀釈尊のこの世への出興を説かれ、更に、この経の根源の願いが本願であり、その願いの根源そのものが名号であることを示されます。そして、いよいよ『大無量寿経』を説き始めようとされる釈尊の光り輝く瑞相に阿難が仏陀釈尊を瑞見する『大無量寿経』の一節、更に、この『大無量寿経』とは別途漢訳された『無量寿如来会』と『平等覚経』、また、注釈書として新羅の憬興師が著した『述文賛』も添えて、仏陀釈尊がこの世に出興されたことが間違いのないことだということを親鸞聖人はあらためて顕示されれます。この中の『無量寿如来会』と『平等覚経』は各々現代語訳と古文によって味わっていただくことにし、また憬興師の『述文賛』による註釈部分は、すでに前回『大無量寿経』を『述文賛』の記述によって味あわせていただきましたので、ここではいずれも省略いたします。ただ『平等覚経』からの漢文の引文の中で資料によって(1)、(2)の二種類の違いがあります。
(1)「今我作仏出於天下 有大徳聡明善心 縁知仏意 不忘在仏辺侍仏也」
(2)「今我作仏出於天下 有大徳聡明善心 豫知仏意 不忘在仏辺侍仏也」
(1)と(2)のちがい一つは(1)の文中の「縁知仏意」と(2)の「豫知仏意」です。
そして、もうひとつの違いは(1)では「若」の字を「若し」すなわち「もし」と読んでいるのに対して、(2)では「若」の字を、「若」として「なんじ」と読んでいるところです。そうしますと
(1)では和文に直すと「今、我、仏と作(な)りて天下(てんげ)に出でたり。若し大徳ありて、聡明善心にして仏意を知るに縁(よ)って、若し忘れずば、仏辺にありて仏に侍(つか)えたてまつるなり。」となるのに対して
(2)を和文に直すと「今、我、仏と作(な)りて天下(てんげ)に出でたり。若(なんじ)大徳ありて、聡明善心にして豫(あらかじ)め仏意を知る。若(なんじ)忘れず仏辺にありて仏に侍(つか)えたてまつるなり。」となります。
これらの訳について、(1)では「若し」を連発し、そのことに縁(よ)って、仏意を知り、仏辺に侍することになり、阿難は普通の平凡な人間であるということが表現されます。
しかし(2)では阿難には大徳が以前から備わっていて、そのことによって豫(あらかじめ)仏意を知ることができた。阿難はそれを、いつも忘れず、仏辺に侍する存在であるということになり。阿難は一種の聖者に近い存在となります。
 どちらの解釈が妥当だということは容易にはいえませんが、(2)の方ですと、阿難は、はじめから既に聖者に近かったがたがために、釈尊が仏陀としてこの世に出興されるということが、あらかじめ、わかっていたかのように受取れますし、(1)ですと、阿難は比較的私たちに近い平凡な人間で、釈尊が仏として瑞現されたことが、まさに阿難にとって青天霹靂のことであったということになります。しかし、そうであっても、光り輝く、仏陀釈尊の出現に阿難は見事に感応できたということになります。
 ちなみに、この部分、東本願寺発行の『真宗聖典』初版第6刷の和訳ではほぼ(1)が採用され、西本願寺発行の『真宗聖典』第二版第3刷の和訳では(2)が採用されています。また、『真宗聖教全書』では最初の「若」には、送り仮名はなく、次の「若」には「」という送り仮名がついていますので「もし」と読むべきでしょう。送り仮名がない最初の「若」は「なんじ」と読むか「もし」と読むかは読者の判断に委ねられるのでしょうか。また、他の親鸞聖人の書かれた文章では「若」がどのように読まれているかを調べて判断することになるのでしょうか。
 以上のことは、ともかく『無量寿如来会』、『平等覚経』そして、註釈書としてここに引用されている憬興師の『述文賛』など、いずれの場合も、釈尊が仏として世に出興されたことを物語っているわけで、このことが『教巻』最後の、これらの引文が『大無量寿経』が真実の教を顕す明証であると親鸞聖人が述べられている結論につながります。
◎ いよいよ、『教巻』最後の結論の部分です。親鸞聖人は釈尊のさとりの内容であり、自らの著『顕浄土真実教行証文類』の基盤である『大無量寿経』こそ真実の教であることを、まず、この『教巻』の最後にしっかりと宣言されています。文章全体は、今回までの古文および、その現代語訳でお読みいただくことにして、ここで、我々として何を置いても、自らの中で、自問自答し、しっかりと納得しておかねばならないことがあります。それは何かといえば、この『大無量寿経』で阿難が感得した「五徳瑞現」たる仏陀釈尊、そして、引文である、『無量寿如来会』および『平等覚経』が、唯一説いている事柄、すなわち「仏陀釈尊」の、この世への出現、これをもって『大無量寿経』が真実の教であることの明証であると親鸞聖人がいわれていることを、ほんとうにすんなりと納得できるかということです。その理由はどこにあるかといいますと、我々現代人は親鸞聖人が「明証」とされていることがらを、いわゆる実証的な、いわば科学的な「証拠」であると考えているからではないでしょうか。私は、この「明証」という言葉の意味を、即に実証的な「証拠」といった意味にとることは間違っていると思います。我々現代人はそのように実証的な意味として「明証」という言葉を考えてしまうから、容易に、この部分が納得できないのではないかと思うのです。以前の私の場合も、そうでした。ところが、仏教語大辞典でも「証」という字の意味の第一には『さとること』そして、『明らかにすること』となっています。「証拠」という意味も仏教語大辞典では『事実によって証明すること』となっていると共に『明らかに示すこと』として、いたずらに物理的な事実云々をいわない解釈がなされています。したがって、物理的事実や実証ということを持ち出すことは明らかな間違いです。では、どのように、この「明証」ということばを受取るかです。私はこれを、聖徳太子の有名な言葉、「世間虚仮、唯仏是真」という言葉から、考えてみたいと思います。
 「世間虚仮、唯仏是真」、少なくとも仏教徒であれば、この聖徳太子の言葉は真実としていただくべきでしょう。
 さて、『大無量寿経』における「五徳瑞現」を顕す釈尊、そして『無量寿如来会』と『平等覚経』のこの部分における釈尊の仏陀としてのこの世への出現、すべて、仏として、この世に顕れた仏陀釈尊を唯一表現しているのです。この場合、釈尊は、いうまでもなく如来として、すなわち阿弥陀如来として、この世に顕れておられるのです。その釈尊がこれから説かれようとする『大無量寿経』。それが真実でない筈がありません。「唯仏是真」なのです。これが親鸞聖人のいわれる「明証」です。これだけで十分です。まことの『明証』です。ここには、親鸞聖人のいわれる「明証」を実証的、科学的証拠などと受取らねばならない余地は全くありません。
 余談になりますが、このようなことは「世間虚仮」だとするから言えるのでしょうか。いや、そうではありません。『世間虚仮』は大変重要な言葉です。何故でしょうか、これは『世間虚仮』ということがあるから『唯仏是真』という言葉が成り立つのではないでしょうか。『世間』が『虚仮』でなかったら、『唯仏是真』だけで『唯仏是真』になるはずがありません。『世間虚仮』は大変、大切で肯定すべきことばです。つまり、青信号だけで、黄や赤の信号色がなければ、「青」は「青信号」たりえないからです。ちょっと、脇道に逸(そ)れかけましたが、今月は以上で終わります。