清沢満之の信心表白(清沢満之全集より)

◎ 我が信念(我は此(かく)の如く如来を信ず)                                                              
 私は常々信念とか如来とか云うことを口にして居ますが、其私の信念とは如何なるものであるか、私の信ずる如来とは如何なるものであるか、今少しく之を開陳(かいちん)しようと思います。
 私の信念とは、申す迄もなく、私が如来を信ずる心の有様を申すのであるが、其に就いて、信ずると云うことと如来ということと、二つの事柄があります。この二つの事柄は、丸で別々のことの様にもありますが、私にありてはそうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とはどんなことであるか、如来を信ずることである。私の云ふ所の如来とはどんなものであるか、私の信ずる所の本体である。分けて云へば、能信(のうしん)と所信(しょしん)との別があるとでも申しましょうか、即ち、私の能信は信念でありて、私の所信は如来である、と申して置きましょう。或は之を、信ずる機(き)と信ぜらるる法との区別である、と申してもよろしい。然し、能所だの機法だのと云う様な名目を担(かつ)ぎ出すと、却(かえっ)て分ることが分らなくなる恐れがあるから、そんなことは一切省いて置きます。  私が信ずるとはどんなことか、なぜそんなことをするのであるか、それにはどんな効能があるか、と云う様な色々の点があります。
 先ず其効能を第一に申せば、此信ずると云うことには、私の煩悶苦悩が払い去らるる効能がある。或は之を救済的効能と申しましょうか。兎に角、私が種々の刺戟やら事情やらの為に煩悶苦悩する場合に、此信念が心に現われ来る時は、私は忽(たちま)ちにして安楽と平穏とを得る様になる。其(その)模様はどうかと云へば、私の信念が現はれ来る時は、其信念が心一ぱいになりて、他の妄想妄念の立ち場を失はしめることである。如何なる刺戟や事情が侵して来ても、信念が現在して居る時には、其刺戟や事情がちっとも煩悶苦悩を惹起(じゃっき)することを得ないのである。私の如き感じ易きもの、特に病気にて感情が過敏になりて居るものは、此の信念と云うものがなかったならば、非常なる煩悶苦悩を免れぬことと思はれる。健康な人にても苦悩の多き人には、是非此信念が必要であると思う。私が宗教的にありがたいと申すことが有るが、其(それ)は信念の為に此の如く現実に煩悶苦悩が払い去らるるのよろこびを申すのである。  
 第二。なぜそんな如来を信ずると云う様なことをするのか、と云うに就いては、前に陳ぶるが如き効能があるから、と云うてもよろしいが、なほ其より外の訳合(わけあい)があるのである。効能があるからと云うのは、既に信じたる後の話である。まだ信ぜざる前には、効能があるかなきかは、分らぬことである。勿論、人の効能があると云う言葉を聞いて、信ぜられぬ訳でもないが、人の言葉を聞いただけでは、さうでもあろう位のことが多い。真に効能があるか無いかと云うことは、自分に実験したる上の話である。私が如来を信ずるのは、其効能によりて信ずるのみではない、其(その)外に大なる根拠があることである。それはどうかと云うに、私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目でなかりし間は、措(お)いて云はず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云う所に到達して、茲(ここ)に如来を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強(あなが)ち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を経たのは、偶然のことではないか、と云う様な疑もありそうであるが、私の信念は、そうでなく、此(この)順序を経るのが必要であったのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無功なることを信ずる、と云う点があります。此自力の無功なることを信ずるのは、私の智慧や思案の有り丈を尽して、其頭の挙げようのない様になる、と云うことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました。其窮極の達せらるる前にも随分、宗教的信念はこんなものである、と云う様な決着は時々出来ましたが、其が後から後から打ち壊されてしまうたことが、幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うている間は、此の難を免れませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものではない、我には何にも分らないとなった所で、一切の事を挙げて悉(ことごと)く之(これ)を如来に信頼する、と云うことになったのが、私の信念の大要点であります。  
 第三。私の信念はどんなものであるかと申せば、如来を信ずることである。其如来は、私の信ずることの出来る又信ぜざるを得ざる所の本体である。私の信ずることの出来る如来と云うのは、私の自力は、何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である。私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分る能力のない私、随って、善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、ということのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらへも身動き一寸もすることを得ぬ私、此私をして、虚心平気に、此世界に生死することを得しむる能力の根本本体が、即ち私の信ずる如来である。私は此如来を信ぜずしては、生きても居られず、死んで往くことも出来ぬ。私は此如来を信ぜずしては居られない。此如来は、私が信ぜざるを得ざる所の如来である。  
 私の信念は大略此の如きものである。第一の点より云えば、如来は私に対する無限の慈悲である。第二の点より云えば、如来は私に対する無限の智慧である。第三の点より云えば如来は私に対する無限の能力である。斯(か)くして私の信念は、無限の慈悲と無限の智慧と無限の能力との実在を信ずるのである。無限の慈悲なる故に、信念確定の其時より、如来は私をして直ちに平穏と安楽とを得しめたまう。私の信ずる如来は来世を待たず現世に於て既に大なる幸福を私に与えたまう。私は、他の事により多少の幸福を得られないことはない。けれども、如何なる幸福も此信念の幸福に勝るものはない。故に、信念の幸福は、私の現世に於ける最大幸福である。此は、私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である。来世の幸福のことは、私はまだ実験しないことであるから、此処に陳ぶることは出来ぬ。  
 次に、如来は無限の智慧であるが故に、常に私を照護して、邪智邪見の迷妄を脱せしめ給う。従来の慣習によりて、私は、知らず識(し)らず、研究だの考究だのと、色々無用の議論に陥り易い。時には、有限粗雑の思弁によりて、無限大悲の実在を論定せんと企つることすら起る。然れども、信念の確立せる幸には、たとえ暫(しばら)く此の如き迷妄に陥ることあるも、亦容易く其無謀なることを反省して、此の如き論議を抛擲(ほうてき)することを得ることである。「知らざるを知らずとせよ、是れ知れるなり」とは実に人智の絶頂である。然るに、我等は容易に此に安住することが出来ぬ。私の如きは、実におこがましき意見を抱いたことがありました。然るに、信念の幸恵により、今は「愚痴の法然房」とか、「愚禿の親鸞」とか云う御言葉を、ありがたく喜ぶことが出来、又自分も真に無智を以て甘んずることが出来ることである。私も以前には有限である不完全であると云いながら、其有限不完全なる人智を以て完全なる標準や無限なる実在を研究せんとする迷妄を脱却し難いことであった。私も、以前には、真理の標準や善悪の標準が分らなくなっては、天地も崩れ社会も治まらぬ様に思うたることであるが、今は、真理の標準や善悪の標準が人智で定まる筈がないと決着して居ります。  
 扨(さて)又、如来は無限の能力であるが故に、信念によりて大なる能力を私に賦与(ふよ)し給う。我等は通常、自分の思案や分別によりて進退応対を決行することであるが、少し複雑なことになると、思案や分別が容易に定まらぬ様になる。それが為に、段々研究とか考究とか云うことをするようになる。而して前に云うが如き標準とか実在とか云うような事を求むる様になりて見ると、行為の決着が次第に六ケ敷なり、何をどうすべきであるやら、殆ど困却の外はない様なことになる。言葉を慎まねばならぬ、法律を犯してはならぬ、道徳を壊(やぶ)りてはならぬ、礼儀に違うてはならぬ、作法を乱してはならぬ。自己に対する義務、他人に対する義務、家庭に於ける義務、社会に於ける義務、親に対する義務、君に対する義務、夫に対する義務、妻に対する義務、兄弟に対する義務、朋友に対する義務、善人に対する義務、悪人に対する義務、長者に対する義務、幼者に対する義務等、所謂(いわゆる)人倫道徳の教えより出づる所の義務にても之を実行することは決して容易のことでない。もし真面目に之を遂行(すいこう)せんとせば、終に「不可能」の嘆に帰するより外なきことである。私は此「不可能」に衝(つ)き当りて、非常なる苦みを致しました。若し、此の如き「不可能」のことの為にどこ迄も苦まねばならぬならば、私はとっくに自殺も遂げたでありましょう。然るに、私は宗教によりて此の苦みを脱し、今は自殺の必要を感じませぬ。即ち、私は無限大悲の如来を信ずることによりて、今日の安楽と平穏を得て居ることであります。  
 無限大悲の如来は、如何にして私に此平安を得しめたまうか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さることによりて、私を救済したまうことである。如何なる罪悪も、如来の前には毫(すこし)も障りにはならぬことである。私は善悪邪正の何たるを弁ずるの必要はない。何事でも、私は只自分の気の向かう所心の欲する所に順従(したご)うて、之を行うて、差支はない。其行が過失であろうと、罪悪であろうと、少しも懸念することはいらない。如来は、私の一切の行為に就いて責任を負うて下さることである。私は、只此如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は一切の場合に遍満してある。如来の能力は十方に亙(わた)りて、自由自在、無障無礙に活動し給う。私は、此如来の威神力に寄託して大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事を此の如来に寄託して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、此天と命との根本本体である。
(明治36年5月30日執筆。同6月発行『精神界』所載)

◎ 絶対他力の大道
自己とは他なし。絶対無限の妙用(みょうゆう)に乗託して、任運に法爾に、
この現前の境遇に落在せるもの、即ちこれなり。
ただそれ、絶対無限に乗託す。ゆえに死生の事また憂うるに足らず。死生なお且つ憂うるに足らず。
如何に況んやこれより而下(じか)なる事項においてをや。追放可なり。獄牢甘んずべし。
誹謗(ひほう)・擯斥(ひんせき)・許多の凌辱(きょたのりょうじょく)、
豈に意に介すべきものあらんや。
我等は寧(むし)ろ、ひたすら絶対無限の我等に賦与(ふよ)せるものを楽しまんかな。

 宇宙万有の千変万化は、皆これ、 一大不可思議の妙用(みょうゆう)に属す。
しこうして、我等はこれを当然通常の現象として、毫(すこし)もこれを尊崇敬拝するの念を生ずることなし。
我等にして智なく感なくば、則(すなわ)ち、止む。いやしくも智と感とを具備して、かくの如きは、
蓋(けだ)し、迷倒ならずとするを得んや。
一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力によるにあらず。
皆かの一大不可思議力の発動に基くものならずばあらず。色香のみならず、我等自己そのものは如何。
その従来するや、その趣向するや、一つも我等の自ら意欲して左右し得るところのものにあらず。
ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。
我等は絶対的に他力の掌中にあるものなり。

我等は死せざる可からず。我等は死するも、なお我等は滅せず。
生のみが我等にあらず。死もまた我等なり。
我等は生死を並有するものなり。
我等は生死に左右せらるべきものにあらざるなり。
我等は生死以外に霊存するものなり。
しかれども、生死は我等の自由に指定し得るものにあらざるなり。
生死は全く不可思議なる他力の妙用(みょうゆう)によるものなり。
しかれば、我等は生死(しょうじ)に対して悲喜すべからず。
生死なおしかり。況(いわ)んやその他の転変においてをや。
我等は寧ろ、宇宙万化の内において、かの無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。
(日記『蠟扇記』より抜粋・明治35年6月発行『精神界』所載)

◎ 他力の救済
我、他力の救済を念ずるときは、我(われ)が世に処するの道開け、
我、他力の救済を忘るるときは、我(われ)が世に処するの道閉ず。
我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲のために迷わさるること少なく、
我、他力の救済を忘るるときは、我、物欲のために迷わさるること多し。
我、他力の救済を念ずるときは、我(われ)が処するところに光明照らし、
我、他力の救済を忘るるときは、我(われ)が処するところに黒闇おおう。
鳴呼(ああ)、他力救済の念は、よく我をして迷倒苦悶の娑婆を脱して、 
 悟達安楽(ごだつあんらく)の浄上に入らしむるが如し。
我は実にこの念によりて、現に救済されつつあるを感ず。
もし世に他力救済の教えなかりせば、我はついに迷乱と悶絶とを免れざりしなるべし。
しかるに、今や濁浪滔々(だくろうとうとう)の間黒世裡にありて、
 つとに清風掃々の光明海中に遊ぶを得るもの、
その大恩高徳、豈(あ)に区々たる感謝嘆美の及ぶところならんや。
(明治三十六年六月発行『精神界』所載)