仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年10月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文2




【現代語訳】
◎ 顕浄土真実信文類 本文2
 この信心は念仏往生の願(第十八願)から出でくるものである。この大願は選択本願とも名づけ、本願三心の願とも名づけ、また、至心信楽の願とも名づけ、更にまた往相信心の願とも名づけることができる。
 しかるに、常に、この煩悩の世にどっぷりつかり、これを絶対とみて、そこから抜け出られず、生死の海にさまよっている衆生にとって、無上妙果(覚り)を成就することが難しいのではなく、その覚りへの道筋になる真実の信心が、まことに獲がたいのである。なぜなら、この信心は如来のはたらきなのであるから、如来の広大な大悲によるものであり、凡夫の浅はかな手立てによるものでは微塵もないからである。だから、もし、この広大な大悲のこころがこころとなるようなことがあれば、この信心は仏の信心であるから、決して顛倒せず、虚無なることがらとはならないのである。このゆえに、我執のかたまりである極重悪人(自分のこと)ではあるが、称名のなかに、大悲摂取の中なることを感受し、よろこぶことができるのである。

 【読下し古文】
 この(しん)すなはちこれ(ねん)(ぶつ)(おう)(じょう)(がん)(だい)(じゅう)(はち)(がん))より()でたり。この(だい)(がん)(せん)(じゃく)(ほん)(がん)()づく、また(ほん)(がん)(さん)(じん)(がん)()づく、また()(しん)(しん)(ぎょう)(がん)()づく、また(おう)(そう)(しん)(じん)(がん)()づくべきなり。しかるに(じょう)(ぼつ)(ぼん)()()(てん)(ぐん)(じょう)()(じょう)(みょう)()(じょう)じがたきにあらず、(しん)(じつ)(しん)(ぎょう)まことに()ること(かた)し。なにをもつてのゆゑに、いまし(にょ)(らい)()()(りき)によるがゆゑなり、(ひろ)(だい)()(こう)()(ちから)によるがゆゑなり。たまた(じょう)(しん)()ば、この(しん)(てん)(どう)せず、この(しん)()()ならず。ここをもって(ごく)(あく)(じん)(じゅう)(しゅ)(じょう)(だい)(きょう)()(しん)()ろもろの(しょう)(そん)重愛(じゅうあい)()るなり。


【HP作成者感想】
   前回は、親鸞聖人が、如来回向の大信心について12の特徴をあげられました。そして、この大信心は「念仏往生の願」すなわち第十八願にもとづくものであることをおさえられたうえで、この第十八願の由来やその特徴から「選択本願」とも、「本願三心の願」とも、「至心信楽の願」とも、「往相信心の願」とも名づけることができると述べておられます。「選択本願」については前回の【HP作成者感想】の③ 選択回向の直心で書かせていただきましたが、如来が私たち衆生を救いとるために、多くの仏国土の中から選び取られた本願である四十八願の中でも、それを代表する本願(すなわち第十八願)に名づけられた名であり、次の「本願三心の願」とは、この第十八願の文言の中に中心的に含まれる、「至心・信楽・欲生」の三心をあらわす願であり、さらにそれを「至心・信楽」に煮詰めた名としたものが「至心信楽の願」であり、浄土に往生するには欠かせない信心を表す名としての「往相信心の願」であります。このように、我々衆生を何としても救わずにおれない如来の大悲、そしてそれを象徴する如来の四十八願でありますが、実際の我々衆生は、この無上大悲の本願のお心がわからず、毎日あくせくと煩悩の世界を彷徨(さまよ)っているのです。このような衆生が未来永劫に救われる道はどこにあるのでしょうか。親鸞聖人は、このことについて、このような衆生の永劫の救いとしての浄土往生の成就は、難しいことではないと先ずいわれます。ただしそれは、信心の定まった人についていえるので、 そのような信心の人を親鸞聖人は正定聚の人といわれ、正定聚の人は、必ず仏になると約束された人でありますから、当然、浄土往生は決して難しいものではないわけです。ただ、その信心が定まるということが、毎日あくせくと煩悩の世界を彷徨(さまよ)っている人にとっては困難なのだといわれます。なぜなら信心の世界に入ることができるのは、まさに如来のはたらきによるからです。だから、たまたま、この大信心の世界に入ることができれば、それは如来のはたらきによるがゆえに金剛の信心として、その世界に入った人は決して退転せず、真実の道を歩むことができるのです。こうなれば、それまでは、自分の利益にばかり執着して、他をかえりみることがなかった極重の悪人の自分のような人間は、地獄行きはあたりまえであっても、往生浄土の道は決してあり得ないだろうと思っていた者でも、信心一つで、往生浄土の道も開け、もろもろの浄土の仏さまにも遇えるのであると、親鸞聖人は、ここに書かれています。
 さて、そのような、この上なき信心ですが、親鸞聖人に、衆生自らの力では得られるものではなく、すべて如来のはたらきによるのだといわれます、それはそうでしょうけれども、これはまた、まことに、こころもとなく、正直、どうしていいのかわからなくなります。何故なら、どうしていいのかをわかろうとすることは、自力であって、決して如来のはたらきではないということになるからです。
 この行き詰まりをどうするか。これは、ある意味では親鸞聖人が我々衆生の眼を開かせようと、我々に出された問題提議であり、その問いかけでもあるのではないでしょうか。
そこで、信心の問題について、親鸞浄土教の碩学でもある安田理深師に聞いてみました。
①安田理深のことばとして『自己に背くもの』より
 現代親鸞の精神、即ち真宗の信仰の不透明になった一番の原因は信仰の決断を喪失していることである。今日の真宗は天下り的な直接的信仰に転落している。他力中毒にかかっている。決断がない。信仰が死んでいる。それは実に懺悔を通さないからである。決断は懺悔の精神にある。
②同じく『信仰的実存』より
 やっぱり、<信心の道>というものは、思惟の道。それは思惟せんのじゃない。真に思惟する。むしろ思惟の方向転換。方向を転ぜられた思惟。それはつまり「自覚」です。
 以上、①、②を見ると、私(HP作成者)自身が注目させられるのは、①においては、「今日の真宗は天下り的な直接的信仰に転落している。他力中毒にかかっている。決断がない。」ということです。あまりにも権威による経釈の解釈に、こだわり過ぎて、先達の説を超えて、異安心といわれないかと、そればかりに汲々として、生活の中から生まれた、生身の衆生の宗教的発想を封じ込んでいるのではないでしょうか。その結果、自らの生身(なまみ)の思いは自力であって、ただただ、お任せと、任せるのも、任せる自分があって、これはどう考えても自力であるのに、現状維持に汲々として、先人を超えないことをモットーに先達の説をただ鵜呑みにしているのではないでしょうか。これを、安田師は「他力中毒」といわれたのではないか、そして、生身の発想を勇気をもって言挙げすることを「決断」といわれたのではないでしょうか。
 そして②です。ここで注目されるのは「<信心の道>というものは、思惟の道。それは思惟せんのじゃない。真に思惟する。むしろ思惟の方向転換。方向を転ぜられた思惟。」ということばです。①の、悪くすると「他力中毒」すなわち思惟の放棄ということに対して、生身の生活から生まれる宗教的思惟、これこそ宗教的エネルギーの源泉となるものではないでしょうか。これを自力として放棄してしまうと、そこにあるのは、ただ怠惰な先達頼みの現状維持。すなわち世間感覚のみとなるのではないでしょうか。そして、安田師は「真に思惟する。むしろ思惟の方向転換」といっておられます。これをどう受取るべきでしょうか。我々は普通、自らの所作動作はすべて、自らの判断によるものと考えて思考し、行動しています。つまり、全ての事柄は究極的に自己責任であります。それはその通りなのです。しかし、この通常の至極もっともな事柄(あたりまえの事として問わない)についての思惟を方向転換(あたりまえを問う)としてみてはどうでしょうか。我々の、この世における、“ありよう”はすべて如来回向による“ありよう”すなわち、“他力”による“ありよう”だとみることはできないでしょうか。我々の吐く息、吸う息、心臓の動き、一念一念のこころの起滅にいたるまで、考えてみれば、私がここに、こうして二十一世紀の世界を生きていること自体、すべて、宇宙生成以来の如来回向の他力のはたらき、我々がここに、こうして在ることの根源のはたらき、すなわち真実の親のはたらきであるとみることはできないでしょうか。そのように思惟の方向転換をすれば、私たちは、常に大いなるいのちの根源、真実の親であるが故の大悲の根源、それに全て摂取されている。そのような“ありよう”がここにあります。それこそ、聖徳太子の言われた、世間絶対から、唯仏是真への方向転換ではないでしょうか。こうなれば、私たちは、あくせくと自力で“如来の加威力”の可否を考え嘆くことはありません。すでに“如来の加威力”の中に、すべて摂取され、信心の大海のど真ん中に否応なくどっぷりとつかっているのですから。そして、最後に、このような「唯仏是真」のありようを安田師は“自覚”といわれたのではないでしょうか。
                                                        

今月は以上で終ります。