仏教 こころの言葉

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●今月の言葉(2019年12月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文4




【現代語訳】
◎ 顕浄土真実信文類 本文4
 (第十八願の)本願成就の文、大無量寿経下に次のように説かれている。
「すべての衆生は名号のいわれを聞いて信心歓喜するまさにそのとき、浄土往生を願う衆生は如来の回向により、その願いを成就され不退転のくらいに至るのである。唯(ただ)、五逆・謗法の身では、この救いからは当然除かれる。」
◎『無量寿如来会 下』にも説かれている。「他の諸仏の国にある衆生も含めてすべての国の生あるものは、無量寿如来の名号のいわれを聞いたまさにそのとき、浄らかな信を回向せしめられ、無量寿国に往生したいと願えば、その願いに随って、みな往生し、不退転のくらいとなって無上のさとりを開くことができる。唯(ただ)、五逆・謗法の身では、この救いからは当然除かれる。」

 【読下し古文】
(ほん)(がん)(じょう)(じゅ)(もん)、『(きょう)』((だい)(きょう)())にのたまはく、「あらゆる(しゅ)(じょう)、その(みょう)(ごう)()きて(しん)(じん)(かん)()せんこと、(ない)()(三四いち)(ねん)せん。(三五し)(しん)()(こう)したまへり。かの(くに)(しょう)ぜんと(がん)ぜば、すなはち(おう)(じょう)()()退(たい)(てん)(じゅう)せん。ただ()(ぎゃく)誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば(のぞ)く」と。(以上)

◎『無暈(むりょう)寿(じゅ)如来会(にょらいえ)』(())にのたまはく、菩提流(ぼだいる)()(やく) 「他方(たほう)(ぶっ)(こく)所有(しょう)()(じょう)()(りょう)寿(じゅ)(にょ)(らい)(みょう)(ごう)()きてよく(いち)(ねん)(じょう)(しん)(おこ)して(かん)()せしめ、(しょ)()(ぜん)(ごん)()(こう)したまへるを(あい)(ぎょう)して()(りょう)寿(じゅ)(こく)(しょう)ぜんと(がん)ぜば、(がん)(したが)ひてみな(うま)れ、()退(たい)(てん)(ない)()(三七む)(じょう)(しょう)(とう)()(だい)()んと。()()(けん)(しょう)(ぼう)()(ほう)し、および(しょう)(じゃ)(そし)らんをば(のぞ)く」と。(以上)

【HP作成者感想】
 前回は『大無量寿経』の法蔵菩薩の四十八願の内の第十八願、すなわち至心信楽の願と、それに相当する『無量寿如来会』からの引文を味わいましたが今月は、『大無量寿経』第十八願の本願成就文とそれに相当する『無量寿如来会』からの引文を味あわせていただきます。
 まず初めに、本願成就文とは一体、どういう文なのかということです。我々初心者には気になるところです。すなわち、本願が成就された結果の文とは一体どういうことか、また、法蔵菩薩の四十八願との関係はどうなのかということです。 一般の仏教書には、本願成就文の内容、特に第十八願成就文の内容は詳しく解説されていますが、何を以て成就文というのかということを説かれた解説はなかなか見つかりませんでした。中には(A)「阿弥陀如来の第十八願が成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから本願成就文と呼ぶ」といった解説もあります。そこで『大無量寿経』における、このあたりの経緯を、しらべてみました。専門の仏教者の方なら、わかりきったことといわれるかもしれませんが、とにかく調べてみました。
 まず、『大無量寿経』下巻冒頭の、本願成就文として釈尊が説かれている部分です。『仏、阿難に告げたまわく、「それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」』。この「  」内の全体を本願成就文といっていいでしょう。つまり、ここには、第十八願の成就文の外に、第十一願、及び第十七願の成就も含まれていることになります。上の(A)で第十八願の成就文をもって本願成就文とされているのは、おそらく、上の「 」内の成就文の中で、第十八願の成就文が、『教行信証の信巻』で、第十八願の成就文を引文として出しておられることにもとづいているのでしょう。ともあれ、この「  」内の文章を、釈尊が阿難に説かれたのは、どのような経緯に依るのでしょうか。これを『大無量寿経』の中でたどりますと、本願寺出版 注釈版真宗聖典(第二版) 『仏説無量寿経 上』27頁【10】、東本願寺出版部(第四版)発行『真宗聖典』においては、28頁の和文9行目で阿難が釈尊に尋ねます。「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまヘリとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。それにたいして釈尊は阿難に告げて「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽という。」と答えられます。阿難は更に釈尊に問います。「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」、それに対して釈尊は「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴(へ)たまへり。」と答えられます。これが『大無量寿経』において法蔵菩薩がすでに成仏され、その本願が成就したことが説かれている部分です。したがって、事柄はまことに簡単です。この成就した本願の内、第十一、第十七、第十八の本願を本願成就文として、『大無量寿経 下巻』の初めに釈尊が説かれていることになります。したがって、ここでは、既に弥陀として成就された本願が説かれていることになります。ちなみに、上の経緯で、阿難が釈尊に問うた、法蔵菩薩が正覚をとられて阿弥陀仏になられ本願が成就され浄土を建立されたことがわかるのは上巻においてです。それ以後、しばらくして、下巻の初めに本願成就文としてあらためて、釈尊が阿難に説かれるわけです。これは、何故かを考えてみますと、この正覚が成就された後の上巻のしばらくの間は、正覚を成就された阿弥陀仏の浄土や仏のすばらしい有様が説かれている部分が続いています。それが、下巻になって、はじめて、本願成就文として、この三つの誓願の成就を釈尊が説かれているのは、やはり、この三つが我々衆生の救いの中心だからだと私は思います。如来浄土の荘厳もさることながら、我々衆生の根本的な救済を説く本願成就文を、この下巻の初めにあらためてはっきりと説かれた。このことこそ、四十八願で象徴的に表わされる全ての衆生の絶対的救済が如来の第一義の願いであるからだと思います。皆さんはどのように思われるでしょうか。私(HP作成者)はそのように、思います。
 さて、成就文の経緯についての、考察はこれぐらいにして、いよいよ下巻初めの本願成就文、わけても第十八願成就文のこころを窺うことにします。
上の本願成就文の現代語訳と、その下の読下し古文を読みすすめます。
 先ず、「あらゆる衆生」とは、すべての衆生でしょう。この衆生が「その名号を聞きて」とあります。漢文では「聞其名号」にあたります。現代語訳では「名号のいわれを聞いて」と訳しました。親鸞聖人は、この「聞」を「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」と『教行信証の「信巻」』でいわれています。このことは、私は、私たち衆生の絶対の救いを「仏願の生起本末」において誓われていることと受取らせていただきました。
これが「名号のいわれ」であり、「名号」そのものであると思います。すなわち、私という存在の根源、すなわち永劫の過去からの無数の縁起によって、ここにこうして有らしめられた根源、すなわち真実の親として、私たちを絶対的に救わずには居れないと誓われ、またそのとおりにはたらいておられるのが名号であると受取らせていただいています。そして、親鸞聖人は、この「聞其名号」における「聞」を疑心あることなき「信」と受取っておられます。したがって、成就文のその次に「信心歓喜」という言葉がでてくるのは当然です。これで、「全ての衆生は、名号のいわれを聞いて信心歓喜する」ところまできました。
 そして「乃至一念」です。親鸞聖人は、この「一念」を「信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」とされました。第十八願の「乃至十念」は口称の念仏ととらえられているのに対して、本願成就文の「乃至一念」は念仏ではなく「信心が開け起る最初の時」ということですから、これは少し戸惑います。法然聖人は成就文のこの「乃至一念」を「念仏」、すなわち口称の一念ととらえておられます。しかし、親鸞聖人は上記のように「信心開発の時剋の極促」ととらえておられることが分かります。法然上人と親鸞聖人の、この一念に対する見方の違いに対して、親鸞聖人の曾孫の覚如の子で碩学の名が高い存覚上人は『浄土真要鈔』において、法然上人は本願成就文の文の顕相(文面)から見られて口称の一念ととらえられたのに対して、親鸞聖人は文の隠意すなわち、「文章の表面には顕れていない隠れた意味」として信心が開発する時剋の極促ととらえられたのだとしておられます。
 そして、この一念の信心のおこるのは、ひとえに弥陀が至心に回向したまえる結果であるとして、「乃至一念、至心に迴向したまえり」とされました。これも法然上人までは、普通に「至心に回向して」と、衆生の側の回向とされていますが、親鸞聖人は「一念の信心」のおこるのも如来の回向によるものであるとはっきりと他力迴向の立場を明らかにしておられます。このようにして、本願成就文は、如来の至心迴向のはたらきにより、信心歓喜して衆生が浄土往生を願ったまさにその時に、即得往生、住不退転という衆生の浄土往生を明確にされています。ところが、このように完ぺきな衆生往生が説かれた成就文の最後に「唯除五逆誹謗正法」の文があります。この重大にして、我々凡夫が考えますと、天地が逆転するような文言、すなわち、すべて名号のいわれを聞き受けて信心歓喜した衆生の即得往生、住不退転を説かれたすぐあとに、唯除五逆誹謗正法とあるのですから、これは随分戸惑います。しかし、これは前回の第十八願における唯除と同じように受け取りますと、矛盾なく受取ることができるのではないでしょうか。すなわち、唯除される五逆謗法は自分の事なのです。 他人が五逆謗法であるのを唯除という風に受取る資格などはどこにもないのです。この人間界には信心をいただいた正定聚の人間か、五逆謗法の人間かしかいないのです。正定聚でもなく、五逆謗法でもない「普通の人間」などはどこにもいないのです。だから、第十八願も、第十八願成就文も、この五逆謗法の衆生を救うための願であり、成就文だと思うのです。歎異抄第一条においても「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。」とあり、正信偈にあるように、往生要集の源信僧都も「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」すなわち「極重の悪人は唯仏名を称すべし 我もまた彼の仏の摂取の中にあり 煩悩に眼さえられて摂取の光明を見ざれども 大悲ものうきことなくて 常にわが身を照らす也」と述べておられます。これこそ第十八願も、第十八願成就文も、このような罪悪深重・煩悩熾盛の極重悪人を、すなわち「五逆謗法」の我々に絶対的な救いを与えるための願であることはまちがいありません。だから第十八願成就文においても「真実の親である名号のいわれを聞いて信心歓喜するその時に、全ての衆生は、弥陀のはたらきによって、絶対的な救いにあずかることができる。ただ五逆謗法の状態ではこの救いから除かれ無間地獄に堕ちるしかないのだから、速やかに回心(えしん)して救いにあずかれよ」という意味に捉えるべきだと思います。ここにおいて、はじめて第十八願および第十八願成就文の唯除以前の文と、唯除以降の文は矛盾なくつながるのであって、それどころか、第十八願、および第十八願成就文は信心のない「五逆謗法」の我々を救うためにこそある願であるということになります。

今月は以上で終ります。