仏教 こころの言葉

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●今月の言葉(2019年8月)
『顕浄土真実教行証』信文類序



  今月から『信巻』に入ります。『教巻』の次の『行巻』を差し置いて、なぜ『信巻』に入るのか、不審に思われる方があると思います。ここで申し上げておくべきは、『行巻』を差し置いて、『信巻』に先に入ることについて、何か固い信念があるわけではありません。親鸞聖人の御消息にも「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候。また一向名号をとなふとも、信心あさくば往生しがたく候。」とあり、信心と称名が相伴ってこそ、真実往生の果が成就されるものと思っています。それでは何故『行巻』より先に『信巻』に入るのか。それは、本日の読み進めさせていただく『信文類序』に続いて読む『信巻』の本文の冒頭の【HP作成者感想】のところで述べさせていただきます。

【現代語訳】
◎ 顕浄土真実信文類序
 よくよく考えてみれば、他力の信心をいただくことは、阿弥陀如来が私にかけられた大悲心によって選びとられた本願のはたらきにより起るのである。そして、真実信心を、広く開き顕わされたのは、私たち衆生を深く哀れんだ大聖釈尊のすぐれたお導きによることは明らかである。
 ところが、この末法の時代の出家や在家の者、近ごろの各宗の師ともいうべき人々は「自らの心以外になにものもなく、自らの根源である仏性を磨く以外に衆生が救われる道は無いという思いに捉われて、浄土真実の他力の教えを貶(けな)し、自らの力に因る修業や持戒、あるいは善行を積むことによって、悟りに至ろうとする自力にとらわれて、如来回向の金剛の信心ということに気付かない。
 ここに愚禿釈の親鸞は、釈迦・弥陀の真実の教えに信順し、更には七高僧をはじめ多くの祖師がたのお示しを熟読玩味した。そして三経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の輝ける光を蒙り、更には、特に天親菩薩が説かれた一心の華文である『浄土論』を開き見て、この『信巻』において、ひとまず考えるところの疑問を示し、それについて経論釈による明証を提示して、その義と理とでもって、論証の決着をしている。
 このことについて、まことに深い仏ご恩を思って、世の人々のあざけりに恥じるところは全く無い。清らかな浄土を願う人びとよ、娑婆世界の不条理を厭(いと)う人々よ、この書を見て、これに取捨を加えることがあろうとも、真実を述べるこれらの文を謗るようなことがあってはならない。

    【読下し古文】

    顕浄土真実教行証文類序(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるいじょ)

                 愚禿釈(ぐとくしゃく)親鸞集(しんらんしゅう)

それおもんみれば、(しん)(ぎょう)(ぎゃく)(とく )することは、(にょ)(らい )(せん)(じゃく )(がん)(しん )より(ほっ)( )す。(しん)(しん )(かい)(せん )することは、(だい)(しょう )(しゃく)(そん )) (こう)(あい )(ぜん)(ぎょう )より(けん)(しょう )せり。
 しかるに(まつ)(だい)(どう)(ぞく)(こん)()(しゅう)()()(しょう)(ゆい)(しん)(しず)みて(じょう)()(しん)(しょう)(へん)す、定散(じょうさん)自心(じしん)(まよ)ひて金剛(こんごう)(しん)(しん)(くら)し。
 ここに()禿(とく)(しゃく)(しん)(らん)(しょ)(ぶつ)(にょ)(らい)(しん)(せつ)(しん)(じゅん)して、(ろん)()(しゃく)()(しゅう)()()(えつ)す。(ひろ)(さん)(ぎょう)(こう)(たく)(かぶ)りて、ことに(いっ)(しん)()(もん)(ひら)く。ばらく( )(もん)(いた)してつひに(みょう)(しょう)(いだ)す。まことに(ぶつ)(おん)(じん)(じゅう)なるを(ねん)じて、(じん)(りん)(ろう)(げん)()ぢず。(じょう)(ほう)(ねが)()(しゅ)()(いき)(いと)(しょ)(るい)(しゅ)(しゃ)(くわ)ふといへども()(ほう)(しょう)ずることなかれとなり。


【HP作成者感想】
 『信巻』の序で親鸞聖人が先ず述べておられるのは「他力の信心を獲ることです。」、『現代語訳』では、この「信心」は「他力の信心をいただくことは、阿弥陀如来が私にかけられた大悲心によって選びとられた本願のはたらきにより起るのである。」となっています。これこそ『信巻』の主要命題です。信巻は、この「他力の信心」に対する。聖人の己証とそれに対する経・論・釈の引証から成っています。それにしても「他力の信の世界」とは、これほど親鸞浄土教の根本原理でありながら、この信心を獲ることは「往き易くして人無し」というごとく、それを求める人には至難の業であるといわれています。、たしかに多くの人々が「信心というものは自らの力で求められるものではない、只々、如来のお心にお任せするばかりだ。」といわれます。それにしても、これは、あまりにも無気力で消極的な「信」の表白ではないでしょうか。あまりにも、「信心」を、なんとか得たい、なんとか獲たいと「信心」「信心」と思い詰めすぎて、結局得られなかったという実感が、このような無気力で、消極的な表白をさせるのでしょうか。なるほど、「お任せするしかない」というのも他力迴向のひとつの表現かもしれませんが、しかし、任せる、、任せないという前に、もともと、我々衆生は、既に生まれた時から他力の掌中にあるのではないでしょうか。小さなところでは、「生れること自体」、更には「一挙手一投足」、もっといえば「一念一念の心の起滅」自体が、大いなる他力の中の、他力による動きであり、更に大きなところでは、この大気圏、水圏、更には大きな宇宙のはたらき、一つとして、衆生が作り出したものではない、全ては大いなるいのちに生かされ、育まれている存在、それが衆生であるといっていいのであり、その根本をたずねれば、それは、すべてのいのち、更には全ての存在を育み、その根底にある大いなるいのちであり、私たちは、それら大いなるいのちに一瞬一瞬、生かされているということに、気づいていないからではないでしょうか。例えば、魚は水の中にいます。我々も大気の中で生きていますが、これは、あまりにも当たり前のことなので、それによって生かされているということに気が付かない。このように、一瞬一瞬にはたらき、且つ生涯働き続けている大いなるいのち、この中に摂取されてい一体となって生きている自分、このことに気づくことが信心ということではないでしょうか。『大無量寿経』ができた時代には、この大いなるいのちを釈尊と仰ぎ、「阿弥陀仏」と名付けたのではないでしょうか。そして、この全ての群生の真実の親ともいえる根源の親の誓願が「弥陀の本願」であり、それを表現したのが釈尊の教説としての『大無量寿経』ではないでしょうか。『信巻』序文の最初の言葉は、このことを「他力の信心をいただくことは、阿弥陀如来が私にかけられた大悲心によって選びとられた本願のはたらきにより起るのである。そして、真実信心を、広くひらき顕わされたのは、私たち衆生を深く哀れんだ大聖釈尊のすぐれたお導きによることは明らかである。」と表現しています。
 次に注目されるのは、その次の『現代語訳』の文章、 「ところが、この末法の時代の出家や在家の者、近ごろの各宗の師ともいうべき人々は「自らの心以外になにものもなく、自らの根源である仏性を磨く以外に衆生が救われる道は無いという聖道門の教えに捉われて、浄土真実の他力の教えを貶(けな)し、自らの力に因る修業や持戒、あるいは善行を積むことによって、悟りに至ろうとする自力にとらわれて、如来回向の金剛の信心ということに気付かない。」というところです。ここで「聖道門の教えに捉われて」というところ、すなわち下の『読下し古文』では「自称唯心に沈みて」というところです。ここのところを、我々は簡単に「自性唯心は聖道門の教えだから駄目なのだ」と軽く片付けて読み進める傾向がありますが、これは、そんなに簡単に片付けられる問題でしょうか。親鸞聖人の時代まで、或いは現代にいたるまでも、連綿と説き続けられている聖道門仏教をあまりにも軽く考えすぎているのではないでしょうか。特にこの自性唯心の部分をある現代語訳では“自らの心をみがいて、さとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土の往生を願うことを貶し」としていますが、この訳では、いかにも「深い伝統を持つ聖道門の教えを真実批判できているとはいえず、さらには“西方浄土の往生を願うことを貶し”などと、教行信証の元の文にも書いてないようなことを付け加えることは、せっかくの親鸞浄土教の真実の教えを、かえって単なる方便の教えにしてしまうのではないでしょうか」。また、近代の真宗の碩学、山辺習学・赤沼智善両師の共著書『教行信証講義』では、この自性唯心について次のように定義しています。
○ われらの心には先天的に仏性を具えている。仏となられた阿弥陀仏も、この仏性の外(ほか)はない。又、われらの此のこゝろの外(ほか)に別に浄土があるのではない。この心が悟れば浄土が顕れる。
 このように「自性唯心」を定義し、山辺・赤沼師の『教行信証講義』では、この聖道門の教えの特徴を親鸞聖人は「自性唯心」として破斥(はしゃく)されたとしています。しかし、親鸞聖人は単純にここで「仏性」について単純に破斥(はしゃく)されたでしょうか、親鸞聖人の浄土和讃にも「信心よろこぶその人を 如来と等しと説きたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」とあり、この和讃は華厳経と涅槃経からとられたもので、これはいうまでもありませんが、「仏性」という事柄自体は、仏教の根底をあらわす言葉であり、親鸞聖人の「仏性」に対するお考えも上の和讃にあるとおりであります。
 ただ、ここで聖道門ではこの「仏性を磨くという事柄を自らの修業や持戒によって完成させようとするのです。」このことが、聖道門と親鸞浄土教との間に大きな違いがあり、親鸞聖人はここについて、末代の道俗や近世の宗師が「自性唯心」の殻に閉じこもって、頑強に法然・親鸞浄土教が信心をとおして真実のさとりへの近道であることを認めようとしないことを、この部分んで論じておられるのではないでしょうか。
 すなわち、法然聖人も親鸞聖人も、比叡山における厳しい修業(法然約30年、親鸞約20年)の中で悟りを求めたが、遂に得ることができず、懊悩の末、法然は善導の『観経疏 散善義』の中に「一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるをば、これを“正定の業”と名づく、かの仏願に順ずるがゆえに。」という専修念仏の教えに遇い、心眼を開き、また親鸞は、その法然の専修念仏に帰依することによって、他力迴向の弥陀の本願に目ざめ、聖道門の自力修道よりも、大いなるいのちのそのものである阿弥陀仏の大慈大悲に摂取された他力迴向の教えが、多くの民衆が救われる真実の道であることに眼を開くことが出来た。すなわち、千日回峰行や常行念仏など、厳しい修業を成就できる者はほんの一部の人であり、また、生死の境を彷徨うような厳しい修業の中で、一時的に煩悩を断絶した悟りの境地が得られたように思えても、また、通常の生活に還れば、もとの煩悩の世界にたちもどるのが悲しくも多くの衆生の性(さが)ではないかと私自身は思うのですが、いかがでしょうか。それよりも、すでに法蔵菩薩として厳しい修業を成就され、その結果、すでに十劫の昔に成仏され、大いなるいのちの根源になられた阿弥陀仏の本願に我々は全て摂取されていると信ずる他力迴向の浄土教の真実を受け付けず、いたずらに、自らの自力修道に固執して、法然・親鸞浄土教を貶すばかりの聖道門の僧俗や、その指導者である宗師に警鐘を与えておられるのが、この部分、すなわち、上記読下し文「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。」というところだと思います。
 さらに次の「定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。」というところも、同じで、これは、浄土門と自称する人々にも見られるところで、成仏を目当てに造寺、造塔の善行や観仏三昧にふけったり、念仏成仏ということで、平素の平静にして絶えざる念仏行ではなく、いたずらに一時的熱狂的念仏に耽ったりして、束の間の悟りの境地を得たとする人々で、熱狂や三昧が終わってみれば、普通の煩悩の人に還っているという、一時的な宗教体験、いや一種の熱狂体験を繰り返して、真実の平静かつ永続的な金剛の信心、平生業成の世界に入れない人々のことを指しているのではないでしょうか。親鸞聖人は、このあたりのことを鋭く衝いて批判しておられるのではないでしょうか。
 このあとは、上の「現代語訳」および「読下し文」をお読みになればいいと思いますが、その中で、現代語訳「とくに、一心をあらわされた『浄土論』の、ご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。」のところは、大無量寿経の四十八願の中で、法然上人が「王本願」とも尊ばれた、念仏往生の第十八願では、至心・信楽・欲生の三心に基づいて、乃至十念すれば往生できるとされているといわれているが、天親菩薩の『浄土論』では「世尊我一心 帰命盡十方無碍光如来 願生安楽国」と、往生の要件が第十八願の「三心」に対して、『浄土論』では「一心」となっていることに対する「問題提議」と、それに対する親鸞聖人の思索と、経・論・釈からの引文による「証し」の部文で、これを「三心一心問答」といいます。これは、このあと、その部分を読み進めるようになったときに、十分味あわせていただくことにしたいと思います。
 最後に、これら「三心一心問答」もふくめ、仏恩の深さへの讃嘆と報恩をもって『信巻』の論述を進められるにあたり、①たとえそれを貶(けな)す人があっても、「人々のあざけりを恥じようとは思わない。」と述べ、さらには、②「清らかな浄土を願う人びとよ、娑婆世界の不条理を厭(いと)う人々よ、この書を見て、これに取捨を加えることがあろうとも、真実を述べるこれらの文を謗るようなことがあってはならない。」と決然と宣言されています。①において、親鸞聖人が「人々のあざけりを恥じようとは思わない」と述べられた理由は、「自分がこの『教行信証』を世に出す所以は、すべて真実の仏の教えを伝える為であるが故に、それに対する人々のあざけりが、もしあっても、それは仏の真説をあざけることになるのだから、あざけること自体が、間違っており、私自身は何ら、恥るところはないという、最高の自負ともいえることばです。これは、キリスト教においても、使徒パウロがローマ人への手紙の中で「我は福音を恥とせず」と述べていることばを彷彿させます。東洋と西洋の違いがあっても、どちらも、真実の宗教者としての、微妙な心境と、強い信念にもとづく言葉だと思います。 また、序文の最後に、親鸞聖人が述べておられる、「たとえ、この教行信証を読む人の中で、この文に取捨を加えることがあっても、真実を述べるこれらの文を謗ってはならない」としているのも①の場合と全く同じで、私がこの『信巻』ひいては『教行信証』において述べるのは、心から無限に深い仏の恩徳をおもってのことであるから、私はここに多くの経・論・釈からの引証の文を挙げたが、これらの文に更に付け加える文があったり、不要とする文がもしあると考えたならば、それらを取捨することは、いとはないが、それらはすべて仏祖の言葉である故に、それらを謗ることは謗法にも値することで、そのようなことは決してあってはならない。」と決然と宣言されています。思いめぐらせば、これも、善導大師が『観経疏 散善義』の最後に述べている、この『観経疏』は「古今楷定(ここんかいじょう)の書である、すなわち、古今の諸師の『観経』の解釈を改める基準の書である。」として、その正否を三世の諸仏、釈迦仏、阿弥陀仏等に念じたところ、夢に、この『観経疏』がまさしく「古今楷定」の書であるとして仏が顕れ、それを証されたとし、これによって善導は「この義すでに証を請いて定めをはりぬ。一句一字加減すべからず。写さんと欲するものは、もっぱら経法のごとくすべし、知るべし」と記されている事績が思い出されます。親鸞聖人のこの序文の結びである②のことばを読むにつけ、この善導の言葉が思い起こされるところであります。
今月は以上で終わります。