仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年9月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文1




【現代語訳】
◎ 顕浄土真実信文類 本文1
 つつしんで衆生を浄土に往生させる如来のはたらきを考えると、大信ということがある。大信心は①生死を超えた無量の命を得る不思議な法であり、②浄土往生を信楽し、煩悩渦巻く娑婆世界を厭う勝れた道であり、③阿弥陀仏が選び取られた本願のこころであり、④仏の利他力によって与えられた深く広い信心であり、⑤金剛のように堅く、如何なることがあっても破壊されない仏の真実の心であり、⑥この世が絶対という思いを捨てることができなければ、信心とは縁なく、したがって浄土へ往生できる人も皆無であるが、信心があれば、まことに易しい往生浄土への浄らかな道であり、⑦常に如来に摂取され、守られていることを、ひとえに頂けている一心であり、⑧娑婆に心を奪われている人々の中では稀有であるが、信を恵まれた人には、たぐいまれなすぐれた大信心であり、⑨唯一世間絶対のこころの人には得ることは難いが、この大信心があれば浄土へはいち早く往けるこころであり、⑩往生浄土が如実であることを示す因となるこころであり、⑪自力の修業では得られない極速で横ざまに困難を潜り抜ける往生への道であり、⑫一切の真実の水を湛えた大いなる海のようなこゝろである。

 【読下し古文】
 至心信楽の願 正定聚の機

顕浄土真実信文類(けんじょうどしんじつしんもんるい) (本文)

愚禿釈(ぐとくしゃく)親鸞集(しんらんしゅう)

 つつしんで(おう)(そう)()(こう)(あん)ずるに、(だい)(しん)あり。(だい)(しん)(じん)は、すなはちこれ長生不死(ちょうせいふし)神方(しんぼう)欣浄厭穢(ごんじょうえんね)妙術(みょうじゅつ)選択(せんじゃく)回向(えこう)(じき)(しん)利他(りた)(じん)(こう)(しん)(ぎょう)(こん)(ごう)()()(しん)(しん)()(おう)()(にん)(じょう)(しん)(しん)(こう)(しょう)()(いっ)(しん)希有(けう)(さい)(しょう)大信(だいしん)世間難(せけんなん)(しん)捷径(せっけい)(しょう)大涅槃(だいねはん)真因(しんいん)極速(ごくそく)(えん)(ゆう)(びゃく)(どう)(しん)(にょ)(いち)(じつ)(しん)(かい)なり。


【HP作成者感想】
   至心信楽の願 正定聚の機

 いよいよ「信巻本文」はじめの標挙 「至心信楽の願 正定聚の機」の部分の読解に入りました。 まず「至心信楽の願」ですが、これは、大無量寿経の初めにある四十八願の内の第十八願を指します。第十八願はこのほかにも「念仏往生の願」、「選択本願」、「本願三心の願」、「往相信心の願」などと呼ばれていますが、この「信巻」と関連して第十八願を顕すには「至心信楽の願」という呼び方が最もふさわしいでしょう。浄土真宗の僧 梯実円師の解説によれば『「至心信楽」の意味合いは私(如来)の真実なる誓願を信楽(疑いなく受容)しなさいとおすすめになる仏の誓願の内容としての至心信楽であって、凡夫の自力の心ではありません』ということになります。ことほど左様に親鸞浄土教においては、如来の回向、すなわち他力のはたらきが全てであるということであり、同時に、このことが親鸞浄土教全体をつらぬく思想であり、当然、「信巻」全体をつらぬく思想でもあります。

 次に「正定聚の機」です。「正定聚」という言葉の意味は弥勒菩薩と同じく、やがて浄土に生まれて仏となる仏弟子であるということであります。そこで、右の青色リンクに親鸞聖人の手紙を集めた『末燈鈔(まっとうしょう)』の第三書簡を掲載させていただきました。この書簡の文章ほど、親鸞聖人の「正定聚」ということがらについての明確で、強いメッセージは他に見られないものだと思われます。ぜひ味読していただければと思う次第です。

 「正定聚」という仏弟子の在り方としては、上の「末燈鈔 第三書簡」の親鸞の思いを受け継いだ覚如の子息、存覚が著した『六要鈔』に次のような文章があります。「正定聚の機といふは、是れ至心信楽の行人(ぎょうにん)、すなわち摂取不捨の益(やく)を蒙(こうむ)るが故に、現に生死と流れを分つ義を明かす也」。 ここには正定聚の機、すなわち正定聚の信心をいただいた人は、至心信楽の行人だというのです。ここで“至心信楽の行人”とは何を意味する人なのでしょうか、これは、いうまでもなく信心をいただくと同時に称名念仏の行を営む人なのです。すなわち真実の信心にはかならず称名念仏が伴うということです。これは、前回のまとめでも申し上げた末燈鈔第十二書簡の親鸞のことば「信心ありとも、名号を称えざらんは詮なく候。また、一向、名号となふとも信心浅くば往生しがたく候」という言葉に符合します。この「信心には、かならず称名念仏が伴う」という親鸞浄土教の立場は、禅のさとりには必ず坐禅がともなうということと同じことでしょう。すなわち、坐禅のない禅のさとりはないのと同じように、称名念仏のない親鸞浄土教はあり得ないということでもあります。すなわち、称名念仏は、坐禅やそれに伴う厳しい修業を伴う禅のさとり、あるいは、厳しい修業なしにさとりは考えられないとする聖道門仏教と違って、日々の、生きることに精一杯の生活に追われて、とても、長期間の厳しい修業はできない一般の人々も、何時でも、誰でも、何処でも、ただ口で「南無阿弥陀仏」ととなえるという、いわば最も容易な宗教的行為ではありますが、行(ぎょう)であることに変りはありません。「行人」とは、そういう意味であるということです。そこで、それでは、この「教行信証を読む」というこのページで、親鸞浄土教の唯一の行について書かれた「行巻」を飛ばして、「教巻」からいきなり「信巻」に入ったのは何故なのか、こういう疑問が皆さまに湧いていると思います。そこで、それにお答えするために、いよいよ本文に入りました。
 まず現代文の方です。「つつしんで、往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。」から始まります。「往相の回向」とは我々衆生を浄土に生まれさせる如来の回向でしょう(如来のはたらきといってもいいかもしれません)。そして、大信、および大信心です。どちらも同じ「信心」を意味する言葉ですが、親鸞聖人は、そこに「大」という字を付けて如来のはたらきとしての「信」、および「信心」の意味を顕(あらわ)されています。大信心を顕す以下十二の各項目では、はじめに現代語訳を、そして、その後ろの<  >の中には古文のそれに相当する項目名を掲載しました。すなわち大信心とはいかなる内容をもつものであるかということを、現代語訳と古文で表現しています。

①  「無量寿の命(いのち)を得る法である<長生不死の神法>」
 親鸞聖人は「大信心は、無量寿の命(いのち)を得る法である」ということを、以下十二個の大信心を顕すことばの筆頭に先ず説かれます。古文では「大信心は長生不死の神法」と表現されている部分です。実は私(HP作成者)は信巻のこの部分を何を置いても、先ず皆さんと共に読みたいと思って、本来なら「教巻」の次なる「行巻」の読みに入るべきところを、それを差し置いて、あえて先に「信巻」に入らせていただきました。これが、行巻に先んじて信巻に入らせていただいた、全ての理由です。このこと以外に特に理由はありません。たとえば親鸞浄土教は「信心爲本」だから等といった高度な教義的解釈に基づくものではありません。唯々、『教行信証』を読み進めるなら、そうと決まったできるだけ早い時季に、この「大信心は無量寿の命(いのち)を得る不思議な法である。」という言葉を皆さまと共に読み進めたいと一途に念願したからということになります。すなわち、宗教というものは人類が地球上に現れた古代から、死者を悼む心を如実に持つようになり、例えば超古代に生息したネアンデルタール人が人としての精神の芽生えとして死者を悼むしるしに花を添えて埋葬した歴史があるといったことも考えますと、今後、いかに科学が発達して何百年の長命を実現しても、それでも、いつかわ死ぬのであって、また、たとえ無限に生きるということが実現したとしても、一体、その無限に生きることの意味はどこにあるのか、すなわち生を問わず、死を問わず、生きること、死ぬことを、私たちはどう受けとめるのかというのが人間の宗教的要求の第一歩ではないのかと考えたからです。親鸞浄土教においては、まず阿弥陀如来という無量寿の大いなるいのちへの「信」の問題が何よりも問われるのではないかと思います。はからずも、親鸞浄土教の所依の経典である『大無量寿経』の『無量寿』とは、「無限のいのち」ということを顕しているのではないでしょうか。その意味で、皆さんと共に「無量寿のいのちを得る法<長生不死の神法>」ということの読みにまず入るということは、意味のあることではないかと考えた次第です。そのようなことを勝手に思って、伝統ある教行信証の各巻の読み順を変えるとは何たる不遜かと思われる方があるかもしれません。 どうか、共にこの信巻から先ず読み進めることを、あらためて、この場でお願いする次第です。
 親鸞聖人の、このことばには更に続きがあります。これは、『浄土論註』を著した曇鸞大師が、それまでは初期大乗仏教の大成者である龍樹菩薩の論述や涅槃経の研究に打ち込んでいたが、病いに襲われ、何とか健康寿命を保って、自己の仏教研究を続けたいと、仙術を行なう陶弘景〘医薬・博物学・本草学を研究するという、まことに博学多才な当時の有名人〙に不老長寿の術を学び、健康を回復し意気揚々と洛陽まで帰ってきたところで、たまたま印度から経を伝えに来ている菩提流支三蔵という人に遇い、自分の会得した不老長寿の仙術を得意になって話したところ、菩提流支は「仏教を研究し相応の実績をあげている君が不老長寿を求めるとは何事か、とあきれた顔をして、少々長生きして何になる、真の長生不死の法を求めよ」と諫められ『観無量寿経』(一説には世親撰『無量寿経論』<世界百科事典第二版>)を渡された。曇鸞は事の道理に気づき、自ら持ち帰った仙術の書を焼き捨て、浄土教に帰したと唐時代の中国の伝記書『続高僧伝』は伝えています。
  親鸞聖人の手になる『正信偈』でも、このことを「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」と詠われています。
 親鸞聖人は大信心を表すことばを、このあと11個挙げておられます。 大信心は「信巻」の中心課題でありますので、このあとも、ひとつひとつ、先ずは、その意味合いを味わっていきたいと思います。
② 「浄土を願い、煩悩の世界(この世)を厭う妙なる道<欣浄厭穢の妙術>」
 浄土を願い、煩悩の世界を厭うというのが大信心の妙なる道というわけですが歎異抄第九条にもあるごとく、「久遠劫よりいままで、流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる(生れざる)安養の浄土はこいしからず候」と、いのち終わって、往くべき安養の浄土だけれども、有るかどうかもわからないような浄土とやらに行くのはご免で、煩悩に苛(さいな)まれる娑婆世界だけれども、それに執着するのが、我々衆生の偽らざる本音ではないでしょうか。 しかし、このように死ぬまで、この世への執著を離れられないわたしではあるが、大無量寿経における釈尊や、その後に現れた七高僧、親鸞聖人などの善知識の教えによって、生きても死んでも大いなる無量寿のいのちである弥陀の摂取の中にあるという大信心を獲れば、浄土を予見する欣浄の思いも湧き出て、さらには、どうしてもぬぐい切れない煩悩の絆はあっても、そのような者をこそ先ず掬(すく)いとらんとする弥陀大悲の大信のもとで、離れがたい娑婆から、安養の浄土への眼も向かうということではないでしょうか。
③ 「阿弥陀如来が選び取り与えてくださった心<選択回向の直心>」
 『正信偈』に「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」、すなわち「法蔵菩薩が修業の身にあるとき、世自在王仏のみもとで、広く諸仏の国土の人間や神々の善し悪しをご覧になり、その中から、選んで、全ての衆生を救わんとの願いのもと、世を超えて稀なる大誓願を発(おこ)された」とあるように、後にこの誓願を成就されて阿弥陀仏になられた如来の大悲回向の直接のお心がこの選択回向の大信心であります。
④ 「如来の利他力より与えられた深く広い信心<利他深広の信楽>」
 私たちは度々「他力」ということばを使いますが、これは如来が自ずと我々衆生を救わんとする利他のはたらきから来ている言葉で、いうなれば如来の利他のはたらき、すなわち利他力を略したものが他力ということであるといえます。すなわち利他のはたらきというのは、我々自身が他にはたらきかける利他のはたらきということではなく、如来が我々衆生にはたらきかけることを利他というのであるとされています。他力ということばをはじめて使われたのは曇鸞大師ですが、大師はこれについて、その著『浄土論註』で「他利と利他と談ずるに左右(さう)あり。もし仏よりしていえば、よろしく「利他」というべし。衆生よりしていはば、よろしく「他利」というべし。」といわれています。もちろん、他利というのも衆生の側から見た、仏の利他のはたらきであって、他利も利他も、衆生の側のはたらきでは微塵もない、すべて仏のはたらきだということだと思います。親鸞聖人は、これを大信心を表す言葉として<利他深広の信楽>とあらわされました。すなわち、大信心とは、少しも我々衆生の自力の信心ではないということです。ですから、大信心をいただいている人がいたらなら、そのひとの信心は全て如来のはたらきとしての信心であるということです。つまり、才市妙好人のいう「他力には、自力他力はありはせぬ。ただ一面の他力、なむあみだぶつ」ということでしょうか。
⑤ 金剛のようにどのようなことがあっても破壊されることのない真実の心<金剛不壊の真心>
 この場合も、金剛のように堅固である大信心というのは、われわれ衆生の自らの堅い決意による、絶対に壊れない信心というのではなく、あくまでも仏による大信心であるがゆえに金剛のように堅固で破壊されない信心ということです。ことほど左様に、これまでも、これからも全て仏のはたらきとしての大信心であるということで、善導大師は本日の資料で、自身の著『観経疏 散善義』で 「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願をもちひて得生のおもいをなせ。この心、深信せること金剛のごとくなるによりて一切の異見・異学・別解・別行の人(にん)等(ら)のために動乱破壊せられず。」と、念仏者の信心は仏からいただいた大信心であるが故に、決してゆるぐことのない信心であることを示されています。
⑥ 「信心を得れば浄土へはいとも往きやすいが、煩悩のこの世を絶対と思う心では往く人は無い、信一筋の浄らかな信<易往無人の浄信>」
 他力の信心、すなわち大信心に摂取された親鸞教徒、すなわち正定聚の仏弟子である念仏者にとっては、親鸞聖人によれば、浄土に往生することが既に約束されているわけですから、往生浄土はいとも簡単であります。しかし、この往生を容易ならしめる大信心にめぐまれるのは、普通の世俗の世界が全てという人にとっては、大変困難です。なぜなら大信心は仏の回向によってのみ人はその中に存在できるからです。如何に知的に優れた人であっても、この世が全てという世俗世界にどっぷりと身をゆだね、如来の他力回向を信じるこころがない人にとっては、大信心が如来の回向に基づくものであるかぎり、それを獲て、大信心の世界に住むことは有り得ないことになります。易往無人(往き易く人なし)とは、このことを言っているわけでしょう。
⓻ 常に如来に摂取されていることを自然に思える心<心光摂護の一心>
 正定聚の人というのは、如来に摂取されていることを自然に心に感じている人のことを指すのだと思います。そのような心も大信心の与え給う心、すなわち大信心ではないでしょうか。
⑧ 世間では、稀なる人にしかみられない、最も勝れた信じ悦ぶ心<稀有最勝の大信>
 世間では稀にしか見られない妙好人のように、全てを如来の摂取の中に生きる人に見られる如来の大信心のことを云うのだと思います。
⑨ 世間的な利害得失のみでは難いけれども、何ものをも飛び越えて速やかに生死の道がひらけるのが大信心<世間難信の捷径>
 
日常の娑婆感覚の利害得失のみに明け暮れる心には無縁だけれども、大信心の世界に摂取されれば、同時に生死の道が開けるのではないでしょうか。
⑩ 浄土往生がまちがいなく証(あか)される因となるこころ<証大涅槃の真因>
  今までの自らの生きざまに納得し、そしてやがていのち終わる自分にも納得できる心を与えらえる素となるのが大信心であろうと思います。
⑪ 速やかに生死を飛び越えて、欠けること無き円かな世界、すなわち浄土に溶け込む道<極速円融の白道>
 善導大師の二河白道の譬えにあるように、如来の世界である浄土往生への道は、水火に襲われる狭い白道ではあります。したがって、その道をあえて進めば、世間の批判、揶揄はおろか、弾圧にも遭うという、そのような白道であるのですが、親鸞聖人は、信巻の序でも述べておられるように、「仏恩の深重なるを念じて人倫の弄言を恥じず」といわれて、如来道を進まれます。そして大信心に摂取せられて極速に浄土へ横超されたのです。
⑫ 時空を超えた、すべての存在が一つに溶け込んだ、根源のいのちがはたらいている信心の海<真如一実の信海>
 ここには一即多、多即一、万有を一つとみる宗教的実存の世界が大いなる信心の海として、大信心展開の結びとされています。

 以上大信心をあらわす①から⑫までを親鸞聖人は、この信巻本文の劈頭に示して、如来他力回向の信の世界を、これから更に示されようとしています。まことに稽首礼拝して、親鸞聖人の信心の世界をうかがいたく思うところです。
                                                             本日の読書会の「まとめと感想」を終ります。

 


今月は以上で終わります。