仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。(来月からは、表示のこの部分のみ表示をしません。あらかじめご承知ください。)


●今月の言葉(2020年12月)
 先月は親鸞聖人が説く三心一心問答の内、往生浄土の必須条件として、第十八の本願においては至心・信楽・欲生の三心が必要と説かれているのに対して、4世紀に天親菩薩によって書かれた 浄土教の聖典『浄土論』には「世尊我一心帰命盡十方無碍光如来願生安楽国」として、三心ではなく一心に究めて浄土往生の条件としてあるのは何故か。このことについて自ら問い、そしてそれに対して自らお答えになるに 愚かな衆生に分かり易いようにと一心とされたと、至心、欲生をも、兼ね摂(おさ)めた信心の一心を強調されたのではないかと説かれ、さらに詳細に字訓をもって三心 ([4])と一心の関係を説き、信心の一心こそ浄土往生のかなめである ことを説かれました。
 ところが、今月は、先月の結論とは逆に、そもそも、大経の第十八願では、往生浄土という最大にして究極の事柄の要(かなめ)を、愚かな衆生にわかりやすく説くために、第十八願では、わざわざ三心 にかみ砕いて説かれて いるのではないのか、このことはどう考えるべきなのだろうかという逆の問いを設定され、それについて、まず自らの考えを説いて行かれます。そして、その後には例によって([1] )([2])([3])からの三心に関する引文が続きます。 これがなかなかの長文で、いい加減に読んでいると、焦点がぼけてしまって、親鸞聖人が設けられた問いと、それに対する答えの把握が、引文などを含めると、なかなか掴み切れなくなります。山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』 には「三心の各々の内容を広範に詳しく説かねばならぬと、その特質、更に証拠となる経文の文言、それらによって得られた結論を施された。」とありますが、その理解のために今月こそ、左記の『教行信証講義』 を参考に第一節は問、第二節は至心釈、第三節は信楽釈、第四節は欲生釈に各々分け、更に各釈ごとに項と科に小さく分けて、この「三心一心問答」という信巻の中心課題の教えをいただいていきたいと思います。

<語釈>
[1]経:仏の教え
[2]論:インドの仏教者が著した教え
[3]釈:経・論の教義・意味を解釈する註釈のこと。
[4]三心:第十八願に誓われている至心・信楽・欲生 のこと。

  【現代語訳】
  第一節(問答の問いの部分)
また、問うて申し上げる。字訓が示すように、三心は一つの心、すなわち一心に収斂するというのが論主 天親菩薩の意(こころ)であるという。そのことは、そのとおりだと思うけれども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来は 既に至心、信楽、欲生として三つの心をもって願を起こしておられる。このことはどのように考えればよいのだろうか。
  第二節 至心(まず答えの最初に、三心の内、至心について説き始められる)) 
 <第一項(至心の特質)>
 答えてみよう。仏のこころは深遠で測りがたい。けれども、僭越ながら仏の意(おこころ)を推し量ると一切の生きとし生ける者は永遠の昔から現在に至るまで 罪悪の煩悩に汚(けが)されて、 仏と共にあるという清浄の心がない。いつわり、へつらい多く、仏の心と同じ真実の心がない。そこで如来は一切の苦悩の衆生を哀れみ何とかせねばと、考えも及ばぬ長い期間にわたって 全てを超えて全身全霊をもって 菩薩の行を行じられた結果、一瞬たりとも仏に与えられた清浄心や真実心を失われなかった。したがって、その結果如来となられて、仏の真心(まごころ)をもって、欠けることなく融通無礙に、 思いはかることも、 称(たゝ)え尽くすことも、説き尽くすこともできない無限の徳を成就されたのである。そして如来の至心(究極の仏心)を煩悩にまみれた一切の邪智悪業の衆生に振り向け施されたのである。すなわち これこそ仏の 利他の真心(まごころ)であって、従ってこのことには疑いの心が雑(ま)じることがないのである。この至心はすなわち無上の功徳たる弥陀の名号である。
【読下し古文】

第一節(問答の問いの部分)
また()ふ。()(くん)のごとき、(ろん)(じゅ)(こころ)(さん)をもって(いち)とせる()、その()しかるべしといへども、()(あく)(しゅ)(じょう)のために()()()(にょ)(らい)すでに(さん)(しん)(がん)(おこ)したまへり。いかんが()(ねん)せんや。
第二節 至心(まず答えの最初に、三心の内、至心について説き始められる) 
<第一項(至心の特質)>

 (こた)ふ。(ぶつ)()(はか)りがたし。しかりといへども、ひそかにこの(しん)(すい)するに、(いっ)(さい)(ぐん)(じょう)(かい)(一六九む)()よりこのかた(ない)()(こん)(にち)(こん)()(いた)るまで穢悪汚(一七〇えあくわ)(ぜん)にして([8]しょう)(じょう)(しん)なし、([5])()(てん)()にして真実(しんじつ)(しん)なし。ここをもって(にょ)(らい)一切(いっさい)苦悩(くのう)衆生(しゅじょう)(かい)悲憫(ひびん)して、([6})()()()(ちょう)(さい)(よう)(ごう)において、()(さつ)(ぎょう)(ぎょう)()()まひし(とき)([7]さん)(ごう)(しょ)(しゅ)(いち)(ねん)(いち)(せつ)()([8]しょう)(じょう)ならざることなし、([9]しん)(しん)ならざることなし。(にょ)(らい)(しょう)(じょう)(しん)(しん)をもつて、円融( [10]一七一えんゆう)()()不可思議(一七二ふかしぎ)()()(しょう)()()(せつ)([11])(とく)(じょう)(じゅ)したまへり。(にょ)(らい)()(しん)をもって、(しょ)()(いっ)(さい)(ぼん)(のう)(あく)(ごう)(じゃ)() ([11]ぐん)(じょう)()([13]一七三え)()したまへり。すなはちこれ([14])()(しん)(しん)(あらわ)す。ゆゑに([15])(がい)(まじ)はることなし。この()(しん)はすなはちこれ至徳([16]一七四しとく)尊号(そんごう)をその([17]たい)とせるなり。
<語釈>
[5]虚仮諂偽:うそいつわり
[6]不可思議兆載永劫:考えることもできないような長い年月

[7]
三業の所修:身口意における修行=身で行い、口で論じ、意志によって示した修行。
[8]清浄:仏の浄土のように清らかな。
[9]真心:仏のような まことの心。
[10]円融無礙不可思議不可称不可説:円(まろ)やかで障りなく思議(思いはかる)ことも称(たゝ)えることも説くこともできない。
[11]至徳:徳の至り=最上の功徳。
[12]群生海:あらゆる生き物の世界。
[13]回施:施(ほどこ)し分け与える。
[14]利他:仏が仏以外の他すなわち衆生を利する。
[15]疑蓋:疑い。
[16]至徳の尊号:南無阿弥陀仏のこと。
[17]体:根本、本質。(仏教語大辞典)

【HP作成者感想】
 ここでも、  先月の問答と同じく第一節(問答の問いの部分)です。 今度は、先月の問いとは逆に、「そもそも、大経の第十八願では、往生浄土という最大にして究極の事柄の要(かなめ)を、 愚かな衆生にわかりやすく説くために、むしろ、第十八願では、わざわざ三心(つまり至心・信楽・欲生)に噛み砕いて説かれているのではないのか、このことはどう考えるべきなのだろうか。」との問いを親鸞聖人は 投げかけます。すなわち、先月の問答では、三心では三つに焦点が分れているため、これでは愚鈍の衆生には複雑で理解しにくいだろうからと、天親菩薩は、それを一心にまとめられたのだというわけですが、しかし、第十八願は、 浄土往生の必須条件を愚鈍の衆生に分り易いように、わざわざ至心、信楽、欲生の三心に噛み砕いて示されたのではないのかという疑問です。
「第二節 第一項 それに対する答え」それに対する答えとして、親鸞聖人は、仏意は深遠ではかり難いけれどもと、はじめに、ことわりながらも、「ひそかに、その深遠なる仏意を推しはかるに」 と前置きしながら、 このことに対する自論を展開されます。
 すなわち、一切の生きとし生ける者、もちろん親鸞自身も含めた一切の群生、つまり、この世に群れ生きる衆生は永遠の昔から今日今時、つまり現在にいたるまで絶え間ない煩悩に苦しみ汚(けが)されて、清浄なる仏の心を持てない。 いつわりやへつらいの心で固まってしまっていて、仏しか持ち得ないだろう真実心のかけらも持ち得ていない。このような、全ての衆生の有様を見て如来は窮極の悲しみと憫(あわれ)みを持たれ、 その結果、なんとか仏となって、このような衆生を救いたいと思い立たれ、法蔵([18])菩薩として、想像を越えた長い期間の菩薩行を行じられた。 そして全身全霊の修行の間、一瞬たりとも煩悩の濁りなく、 真実心(仏のような心)そのものであられた。その結果、かげりなき円(まろ)やかで、思いはかることも、説くことも、讃嘆することさえできないほどの至徳の仏となられた。この仏は、煩悩の汚(けが)れも全く無い清浄なる真実心、 すなわち至心をもって、この世の、煩悩で、どうしようもない一切の生きとし生ける衆生に、自らの兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行の徳を回施された。となるのですが、ここまで読んで、はじめて、 親鸞聖人が答えられたこの項の主題が三心の内の「至心」であるということであるとわかります。山辺・赤沼両師の著『教行信証講義』による編・章・節・項・科等の分け方で「第二節 至心」<第一項(至心の本質)>と 標題しながら、愚鈍の衆生たる私は第二節、第一項の最後の、このあたりになって、やっとこれが親鸞聖人による「至心」の意味であることに実感が沸いた次第です。ことほど左様に『教行信証』における親鸞聖人の 論旨は、その篤い宗教性のなせるところか、我々愚鈍の衆生の迂闊な読み方では、焦点がぼけてしまうことがあります。この後も、文章を読んでいく中で、しっかりと 三心の中のどの位置を説かれているのかを注意しながら読み進めていくことが肝要であると思うところです。 さて、ここで親鸞聖人は「至心」をどのように捉えておられるのかということですが、これは、問いに対する 答えの初めからずっと、法蔵菩薩の永劫の修行の有様を説かれ、そしてその結果、仏となられたその功徳は、永劫の過去から煩悩悪業邪智の世界から離れることのできない私たち衆生の力ではとても得られない功徳、これを それが「至心」という功徳であって、それは法蔵菩薩の永劫の修行でしか得られないもの。それを、如来は我々衆生に振り向け回施しようとされている。すなわち、これが仏の利他の真実心である。したがって、このことを ①われわれ衆生は一点の疑いもなく受け入れるほかに道はないということになります。すなわち「至心」は仏の力によってのみ得られるもので、われわれ衆生がどんなに自分の力で逆立ちしても 得られるものではない。それを如来は我々愚鈍の衆生に回施しようとされる。このように親鸞聖人は説かれています。そして、その至心は、すなわちこれ至徳の尊号、つまり弥陀の名号を体(そのもの、根本、本体)とするのだと 親鸞聖人は結論されるのです。「至心」の本体が弥陀の尊号であるということは、「至心」の本体は仏であって、私たち衆生の力では手の届かないものということを表わします。しかし、仏は本願力 によって、これを私たち衆生に回施しようとされるのです。それでは、私たち衆生は、どうあればこの回施を受取ることができるのでしょうか。これは、上の①にもありますように「われわれ衆生は一点の疑いもなく受け 入れるほかに道はない」ということに尽きるのではないでしょうか。来月は、この「至心」について、親鸞聖人は『大無量寿経』のほか、いくつかの経釈からの引文によって証(あかし)しされます。来月も焦点を見失う ことなく読み続けていきたいと思います。
<語釈>
[18]法蔵菩薩:阿弥陀仏の修行時の名。

今月は以上のように学ばせていただきました。