仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2020年7月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文11


【現代語訳(親鸞引文)】
 この故に、今、まさに、あらためて一切の有縁の([1])生者に勧める、 ただ仏の言葉を深く信じて専ら日々の行いに励め。 菩薩、人間、天の神々などの仏の教えに適っていない説を信用して、真の仏の教えを疑い、惑って、 浄土往生という、絶対的利益(りやく)を失ってはならないと。(中略1)
 釈尊が一切の凡夫に勧め指し示されるには、このわが身一身を尽して、もっぱら念仏を修めて、 いのち終わった後、間違いなく、かの浄土に生まれゝば、たちまち、十方の諸仏がことごとく、 みな同じように念仏を讃嘆し、勧め、浄土往生を証(あか)されるのである。それは何故かというと諸仏の 大悲も、みな阿弥陀仏の大悲と同体であり、すべて一体だからである。だから釈尊が教え導こうとされる 大悲は、一切の仏がたが導こうとされる大悲であり、また一切の仏がたの大悲は、釈尊の大悲でもあり 、そして、それらは全て阿弥陀仏の大悲なのである。すなわち、『阿弥陀経』に< 釈尊は極楽浄土の種々のすばらしさを讃嘆され、また一切の凡夫に一日乃至七日にも一心に弥陀の名号をもっぱら 念じれば、間違いなく往生を得ることが出来ると勧め給うと。また、その次の文にも、全ての世界に、それぞれ 数かぎりない仏がおられて、この文でも釈尊が末法五濁の盛りなる時に、弥陀の名号を指して讃嘆し、衆生に 称名念仏すれば必ず浄土往生することができると讃嘆されていると>説かれているのがその証拠である。  また、全ての世界の仏たちは、衆生が釈尊お一人の説かれるところを信じないことを恐れて、 即刻同時に、同じこころで、各々の仏が、声をそろえて、あまねく三千世界にわたって、まごころをこめて <あなたがた衆生は、みなこの釈尊が説かれところ、称賛されるところ、証(あかし)されるところを 信じるべし。すなわち一切の凡夫は、その功罪の多少、時の古今を問わず、ただよく、長くは百年に満ちる 寿命から、短くは一日乃至七日に至るまで一心に弥陀の名号を専(もっぱ)ら念じ、間違いなく往生すること は疑いがないことだと>説かれている。この故に一仏の説かれるところを一切仏は同じように、そのことを 心をこめて証(あか)される。これを釈尊や諸仏を信じることであると名づけるのである。(中略2)  また、正行(読誦([2]どくじゅ)観察([3]かんざつ)、礼拝(らいはい)、称名、讃嘆)の中に二種類がある。一つには一心に弥陀の名号を 専(もっぱ)ら念じて、行住坐臥に時の古今を問わず、念々に称名を捨てないこと、これを正定の業と 名づける。すなわち仏願(弥陀の本願)に順ずるが故である。このほかの業(読誦、礼拝、観察、讃嘆) は、名づけて助業とする。この正助二行を除いた他の行はことごとく雑行と名づける。(中略3)これらは全て 阿弥陀仏の回向を離れた行き届かない雑な行と名づけるのである。以上、正定の業たる称名に究極する のを深心と名づけるのである。
〘語釈〙

[1]願生者:浄土往生を願う者
[2]読誦:経を読むこと。
[3]観察:浄土の情景や仏の姿を思い浮かべること。
 

 【読下し古文(親鸞引文)】

 このゆゑに(いま)の時、 (あお)いで(いっ)(さい)()(えん)(おう)(じょう)(にん)(とう)(すす)む。ただ(ぶつ)()(じん)(しん)して([4]せん)(ちゅう)([5])(ぎょう)すべし。()(さつ)(とう)()(そう)(おう)(きょう)(しん)(よう)して、もって()()をなし、(まど)ひを(いだ)いて、みづから(まど)ひて(おう)(じょう)(だい)(やく)(はい)(しつ)すべからざれと。(乃至1)
 釈(しゃ)()(いっ)(さい)( ぼん)()([6])(かん)して、この(いっ)(しん)(つく)して(せん)(ねん)(せん)(じゅ)して、(しゃ)(みょう)()()さだめてかの(くに)(うま)るれば、すなはち(じっ)(ぽう)(しょ)(ぶつ)ことごとくみな(おな)じく()め、(おな)じく(すす)め、(おな)じく(しょう)したまふ。なにをもってのゆゑに、同体([7]どうたい)大悲(だいひ)なるがゆゑに。一仏(いちぶつ)所化([8]しょけ)は、すなはちこれ一切仏(いっさいぶつ)([9])なり。一切仏(いっさいぶつ)()は、すなはちこれ(いち)(ぶつ)(しょ)()なり。すなはち『()()(きょう)』のなかに()かく、〈(しゃ)()(ごく)(らく)(しゅ)(じゅ)(しょう)(ごん)(さん)(だん)したまふ。また(いっ)(さい)(ぼん)()(すす)めて、(いち)(にち)(しち)(にち)(いっ)(しん)()()(みょう)(ごう)(せん)(ねん)せしめて、さだめて(おう)(じょう)()しめたまふ〉と。(つぎ)(しも)(もん)にのたまはく、〈(じっ)(ぽう) におのおの(ごう)()(しゃ)(とう)(しょ)(ぶつ)ましまして、(おな)じく(しゃ)()よく()(じょく)(あく)()(あく)()(かい)(あく)(しゅ)(じょう)(あく)(けん)(あく)(ぼん)(のう)(あく)(じゃ)()(しん)(さか)りなる(とき)において、()()(みょう)(ごう)()(さん)して(しゅ)(じょう)(かん)(れい)せしめて、(しょう)(ねん)すればかならず(おう)(じょう)()(さん)じたまふ〉と、すなはちその(しょう)なり。   また(じっ)(ぽう)(ぶつ)(とう)(しゅ)(じょう)(しゃ)()(いち)(ぶつ)(しょ)(せつ)(しん)ぜざらんを()()れて、すなはちともに(どう)(しん)(どう)()におのおの ([10]ぜっ)(そう)(いだ)して、あまねく(さん)(ぜん)()(かい)(おお)ひて(じょう)(じつ)(ごん)()きたまはく、〈なんだち(しゅ)(じょう)、みなこの釈迦(しゃか)所説(しょせつ)所讃(しょさん)所証(しょしょう)(しん)ずべし。一切(いっさい)凡夫(ぼんぶ)(ざい)(ふく)多少(たしょう)時節(じせつ)()(ごん)()はず、ただよく(かみ)(ひゃく)(ねん)(つく)し、(しも)(いち)(にち)(しち)(にち)(いた)るまで、一心(いっしん)弥陀(みだ)名号(みょうごう)専念(せんねん)して、さだめて(おう)(じょう)()ること、かならず(うたがい)なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば すなはち (いっ)(さい)(ぶつ)(おな)じくその()([11]しょう)(じょう)したまふなり。これを([12]にん)()いて(しん)()つと()づくるなり。(乃至2) またこの([13]しょう)のなかについてまた二種(にしゅ)あり。(ひと)つには、一心(いっしん)弥陀(みだ)名号(みょうごう)専念(せんねん)して、(ぎょう)(じゅう)()()()(せつ)()(ごん)()はず、(ねん)(ねん)()てざるをば、これを([14]しょう)(じょう)(ごう)()づく、かの(ぶつ)(がん)(じゅん)ずるがゆゑに。もし([15]らい)(じゅ)(とう)によらば、すなはち()づけて(じょ)(ごう)とす。この(しょう)(じょ)()(ぎょう)(のぞ)きて()()()()(しょ)(ぜん)は、ことごとく(ぞう)(ぎょう)()づく。(乃至3) すべて([16])(ぞう)(ぎょう)()づくるなり。ゆゑに(じん)(しん)()づく。

『語注』
[4]専注:もっぱら。
[5]奉行:行を奉じる=修行する。
[6]指勧:指し示して勧めること。
[7]同体の大悲:同じ大いなるいのちの根源からの大悲
[8]所化:さとりの内容、導きの内容。
[9]化:さとり、導き
[10]舌相を出(いだ)して:仏が示す三十二の相の一つ。舌を出すのは教説が
     仏によるもので真実であることを証明するという意味を持つ。
[11]証誠(しょうじょう):真実であることを証明する。
[12]人(にん):この場合の「人(にん)」の解釈は難解ですが二つの説があり
(1)釈尊や諸仏を指す。これは比較的常識的で「一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ることを 指勧し、指讃し、証誠される釈尊や諸仏を人(にん)として、これに信を立つ(信心する)という意味と受取るか。
(2)四重の罪を犯す、どうしようもないような人間(煩悩に満ちた存在)を人(にん)として、 そのような人間でも「一心専念弥陀名号」に依れば信が立つ(往生成就)という意味に受け取るか。
(3) (1)と(2)の両方を同時に受け取るか。
      以上、結論が付かず難解です。
[13]正(しょう):正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)の五つ。
[14]正定の業:上の五正行の内の「称名」すなわち阿弥陀仏の名号を称えることをいう。
[15]礼誦等:五正行の内、かの仏願(第十八願)に順ずる正定業たる「称名」以外の四正行(読誦、 礼拝、観察、讃嘆)を助業として「礼誦等」とした。
[16]疎雑の行:弥陀の大悲と疎遠な雑行(ぞうぎょう)。


【HP作成者感想】 前回は読下し古文で「([17])至」、同じ部分の現代語訳では「中略」で終わりました。 「乃至(中略)」は、『教行信証』の他の引文でも度々出てきます。 今回は、この「乃至(中略)」の意味の一端を考え、併せて、親鸞聖人が 「乃至(中略)」されたお心を窺(うか)がってみたいと思います。 そのために今月の文章の最初に先月の最後の部分を、あらためて掲載しました。では、親鸞聖人が 「乃至(中略)」された善導の散善義の文章はどのような文章でしょうか。 まずは、この青色リンク「乃至(中略)」をクリックし、最初の(イ)の文章 をご覧ください。これを見ますと、先ず最初のところで善導は「また深心(じんしん)は「深き信なり」 といふは、([18])定(けつじょう)して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯(ぎしゃく)を除きて、 一切の別解(げつげ)・別行・異学・異見。異執のために、退失し傾動せられざるなり。」と述べています。 これを見ますと「決定(けつじょう)して自心を建立して」とあるのは、親鸞浄土教からは、どう考えても 他力ではない、自力のはたらきを鼓吹しているとしか考えられません。この後の文章でも一貫して 浄土往生を願う行者は、異学・異見の人々が、いろいろと「深信者」に対して、妨難して「お前たちの 信心では浄土往生はかなえられない」と言ってきても、それらに対して如何に強固に自己の信心が間違い ないものであるかということを主張すべきであるかを、繰り返し繰り返し説いています。すなわち、 善導はこの部分で、浄土往生を願う行者は自らの意志の限りを尽くして、自らの願生心が間違いなく、 ゆるぎないものであることを自他ともに示すべきであると説いています。つまり行者の願生心も 信心もすべて行者の側の強固な意志、いわば自力の限りを尽くして確固たるものにするべきであると いうのが、この部分の善導の主張です。したがって、この部分には、親鸞のいう全てを弥陀の本願他力に委ねると いう思想は見られません。  そのようなわけで、親鸞聖人が、この部分を「乃至1(中略1)」とされたのは、私なりに考えますと 師の法然聖人がひとえに尊崇された善導大師の『散善義』の引文ではあるが、ここは「乃至1(中略1)」 とされたのではないかと推し量るところです。
 今回の引文の範囲で、次に注目されるところは、
【現代語訳】では以下のところです。 「釈尊が一切の凡夫に勧め指し示されるには、このわが身一身を尽して、もっぱら念仏を修めて、 いのち終わった後、間違いなく、かの浄土に生まれゝば、たちまち、十方の諸仏がことごとく、 みな同じように念仏を讃嘆し、勧め、浄土往生を証(あか)されるのである。それは何故かというと諸仏の 大悲も、みな阿弥陀仏の大悲と同体であり、すべて一体だからである。だから釈尊が教え導こうとされる 大悲は、一切の仏がたが導こうとされる大悲であり、また一切の仏がたの大悲は、釈尊の大悲でもあり 、そして、それらは全て阿弥陀仏の大悲なのである。」

 【読下し古文】では「  釈 (しゃ) () (いっ) (さい)(ぼん)()()(かん)して、この(いっ)(しん)(つく)して (せん) (ねん ) ( せん) (じゅ) して、 (しゃ) (みょう)()()さだめてかの(くに)(うま)るれば、すなはち(じっ)(ぽう)(しょ)(ぶつ)ことごとくみな(おな)じく()め、(おな)じく(すす)め、(おな)じく(しょう)したまふ。なにをもってのゆゑに、同体(どうたい)大悲(だいひ)なるがゆゑに。一仏(いちぶつ)所化(しょけ)は、すなはちこれ一切仏(いっさいぶつ)()なり。一切仏(いっさいぶつ)()は、すなはちこれ(いち)(ぶつ)(しょ) ( )なり。」
以上の引文を読みますと印象的な部分は【読下し古文】で「同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなは ちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」のところです。私はこの場合の 一仏とは釈尊のことであり、一切仏とは諸仏のことであるというのが一般的な解釈だと思います。しかし同時に 釈尊も含めた諸仏のさとりの内容は根源的一仏すなわち阿弥陀仏のさとりの内容であり、阿弥陀仏のさとりの内容 は、一切仏、すなわち釈尊も含めた諸仏のさとりの内容であるというふうに受取りたいと思います。何故そのように思うかと いうと、親鸞浄土教において臨終一念の夕べ、いのち終わって晴れて仏になった場合は、阿弥陀仏と一体 になると思うからです。山崎弁栄師のうたに「天地(あめつち)も、みなみほとけの中なれば、いずこか 弥陀のそとにやはある」とありますが、これはこのことを顕しているのだと思います。このことが拝受 できれば、このあとの文章は、最後まですんなりと拝受されるのではないでしょうか。さて、この後の「読下し古文」とその「現代語訳」の文章 の中の二カ所に比較的短い文章ですが「乃至」、すなわち「中略」があります。
その内、乃至2および中略2は、この青字の部分をクリックしていただくと表示されます。
 この「乃至2(中略2)」の文の最初は、「読下し古文」では「次に行(ぎょう)に就きて信を立つといふは」 という文章から始まります。これは、この乃至2の文章の前に、一仏の所化は一切仏の所化であり、一切仏の所化は一仏の所化であるという、すべての仏のさとりの内容は阿弥陀仏のさとりの内容と同じだということをが 弥陀・釈迦・諸仏を所説を信ずるということ、すなわち「人(にん)に就きて信を立つ」と名づくとした文章に続く文として「次に行に就きて信を立つというは」の文から乃至2の文が始まるということです。すなわち「行によって どのように信を確立するか」ということから、始まるのです。このテーマに取り組むために、善導は行について二種ありとして、それが正行と雑行と名づけられる行であるということから始めます。そして、正行とは、どのような 行かということを述べます。これが、もっぱら往生経(『大経』、『観経』、『阿弥陀経』)の行に依るので、正行はこの三つの経の「読誦(どくじゅ)」からはじまり、浄土と弥陀の姿を心の中にしっかりと取り込む『観察(かんざつ)』、 更には、全ての仏のさとりの内容である弥陀仏を『礼拝』し、さらに一心に弥陀の名号を称える『称名』、そして、弥陀を『讃嘆』すること、この五つを正行とするのだというところまで述べたところが「乃至2」になっています。 親鸞聖人が、『教行信証』の引文でここを乃至として、はぶかれたのは何故か、いろいろと考えをめぐらす ことはできますが、この「乃至2」の文章構成を見ますと、善導が「行に就きて信を立つ」ということを 全体として説明するはじめに、まずそれには正行と雑行の二種があるとし、その後は、この内、正行として 五つの行をあげています。それが「読誦」、「観察」、「礼拝」、「称名」、「讃嘆」になるのですが、 善導は、これらの行を行ずるのに「一心に、専ら」とか「一心に、専注して」とか、とにかく願生者である 衆生の側のひたすらなる専念努力を求めているように読めます。このことについて親鸞は師の法然の教え そして、自己の経験から、自らの努力の絶対的無力を身に染みて体験している立ち位置からやはり、この部分 を積極的に引文に取り入れるのを躊躇されたのではないでしょうか。そして次の文章、親鸞聖人が再び引文を 始めておられる正定の業、すなわち師の法然聖人が唯一選択された『称名』に力点をおき、これをはっきりと示さんがために、 その前の部分を「乃至2」として省かれたのではないでしょうか。そして親鸞聖人は、その直後に 「一には一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近(くごん)を問わず念々に捨てざるは、これを 正定の業と名づく、かの仏願に順ずるが故なり。」を一気に引文されます。この文章こそ、なによりも 師の法然上人の心眼を開くことになった称名一筋の正定業の内容を表した部分であることを顕(あきら)かに するものであり、そして自余の四正行(読誦、観察、礼拝、讃嘆)を助業と位置付けられていることを顕かにし 、更に正助二行を除いた以外の諸善は、すべて雑行と名づくものであって、浄土往生には繋がらない自力 疎雑(そぞう)の行であるとする善導の文章を明らかにされます。この文章の中に「乃至3」があります。 簡単な文章ですから次に示しますと「もし前(さき)の正助二行(しょうじょにぎょう)を修(しゅ)すれば 、心つねに〔阿弥陀仏〕に親近(しんごん)して憶念(おくねん)絶えず、名づけて無間(むけん=絶え間がない) となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断(けんだん=こころが散りじりになる)す、回向して 生ずることを得べしといへども」 ここまでが「乃至3」として中略されています。そして親鸞聖人は 「乃至3」の前の文章に続けて間をおかずに「すべて疎雑の行と名づく。故に深心と名づく。」と善導の深心 釈を引文されてこの項を終わられます。親鸞聖人がなぜ善導のこの部分の文章を「乃至3」として省かれたか を詮索するのは、あまり意味がないのかもしれませんが、ひとつ考えられることは、善導の散善義では 「正行ではない雑行を行じた場合に、心が常に間断する、しかし、雑行と言えども、それを一心に仏に回向し て浄土に生まれる因とすることは不可能とはいえない」と、やや雑行の可能性も認めた内容に なっています。親鸞聖人は、思い切って、これを乃至(中略)することによって、この部分を引文から切り捨てています。これは、浄土往生は 徹底して弥陀の本願力への信によるのであって、自らの、この世的な力、いわゆる自力の雑行によって 浄土往生を遂げることは究極的に不可であるとする親鸞聖人のおこゝろがうかがえるのではないかと思うと ころです。
最後に、親鸞聖人は、「故に深心と名づく。」という言葉で結ばれています。これは、すくなくとも正行と 雑行の二つを比べて、正行に就くことを、そして、正行(読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆)の中にも偏(ひとえ) に正定の業である『称名』に専念することが、「行に就きて信を立つ」ということであり 更には、この事こそ、浄土往生が成就される『深心』ということであるとする善導の散善義からの引文の 意味を親鸞聖人もここで明らかにされたのでしょう。  以上、今回は、本文中の「乃至」すなわち現代語訳で「中略」の内容を詮索することによって、私見ではあ りますが、親鸞聖人のおこゝろをうかがってみました。 次回以降にも、「乃至」すなわち現代文で「中略」は多く出てきますが、基本的に一々これの意味を窺がう という煩瑣なことはせず、どうしても必要な場合以外は親鸞聖人の「乃至」はそのまま、「乃至」として拝受 して、あまりあれこれと詮索しないで、この『教行信証』の引文を味あわせていただきたいと思っています。  まことに、以上のことを考えますと、『教行信証』における引文は、『浄土三部経』をはじめとする 諸経、そして、それにつづく七高僧はじめとする論釈からの引文でありますが、これらにおける親鸞聖人の 「読み替え」、および「乃至」の意味合いを考えますと、これら引文は、すべて親鸞聖人の文章になって いるという感を深くするところです。
〘語釈〙
[17]乃至:中間を略すこと。現代語訳で「中略」と訳されている。ここでは古文と現代語の両方を 意味する表現として「乃至(中略)」とした。
[18]決定(けつじょう)して:決断安住して動かないこと。

今月は以上で終ります。