仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2020年8月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文12
今月は、善導の『観経疏 散善義』の内、「発願迴向釈」の前半について学ばせていただきました。 後半には、あの有名な「二河白道の譬(たとえ)」があるためです。「二河白道の譬」は来月にしっかりと 学ばせていただきたいとおもっております。
前半のみとはいえ、やはりここにも、いろいろと考えさせられる部分がありました。 お読みいただいたうえ、ご批判ください。
  【現代語訳(親鸞引文)】
三つには[1]回向発願心(えこうほつがんしん)と説かれている。(中略)  また、回向発願して浄土に往生しようとする者はかならず真実心の内に回向される弥陀仏の願いをいただいて 往生すると思うべきである。この心からの深信こそ金剛のごとく壊れない信であって、一切の異見、異学 、別の解釈や別の修行法をとる人たちによって動乱し打ち破られることのない深信である。たゞたゞ一心に 自らの信にもとづいて正しい直道を進んで、異学・異見の人々のいうことに耳を傾けてはならない。 すなわ ち、あれこれと欲張って、ひるみ、ためらい、疑いの心を起し迷うならば、この度の往生という 大いなる利益(りやく)を失うのである。
 問うていう。もし他力回向の教え以外の雑多な行を奉ずる人が来て惑わし、あるいは種々の疑いや非難 をまじえて、お前さんの信心では浄土往生は無理だと言い、或いは次のようなことを言ったとしよう。 「お前たち衆生は限りなき昔から、および今生きているこの世の全ての身の上での振舞いにおいて、 間違いなく、十悪・五逆・あるいは殺・盗・婬・妄語という四重(しじゅう)の罪、謗法(ほうぼう= 仏法を謗る)・闡提(せんだい=生死にとらわれ出離を願わない。)・破戒(はかい=戒律を破る)・破見(正しい 仏の見解を見失うこと=邪見。)などの罪を造って、いまだに、それらを除き去ることができず、しかもこれらは今生の世界の悪道に直接繋がっている。このような状態で、どうして、[2]多劫輪廻の中のわずかな一生の間の念仏の功徳ぐらいで、すぐさま穢れの無い永遠の浄土に生まれて不退転の位を悟ることができようか。 できるはずがない。」このようにいわれたときはどうすればいいのか。
 答えて言おう。諸仏の教えや行は数知れない。覚りを領受する衆生の因縁も衆生の[3]機根に応じて一つ ではない。例えば世間の人が、 その眼に映じたことを信じるのは、光が黒暗を晴らし、虚空が 物を納め、大地が物を載せ、水がよく生き物 を潤し、火がよく(煮炊きして)物を役立たせたり、(火災などで)壊したりする事実を見て 信じるのと同じである。これらの事は、すべて、それら個々の事態に対応する法と名づける。すなわち、 世のなかのことで目に見えるものは千差万別である。いかにいわんや仏法の不思議な力によって様々に 対応する法門となり、種々の迷いの門をを出る利益がないはずはない。 したがって、一門を出離するということは、一煩悩を出離するということである。(他に多くの法門がある 中で、一つの法門は一人の衆生に応じた教行によって煩悩を出離させることができるのである) 。 したがって、一門に入るということは、すなわち一つの[4]解脱の智慧の門に入ることである。(他に多くの法門 がある中で、一つの法門は一人の衆生に適した教行によって解脱の智慧のさとりに入らしめるのである。) このような事柄によって、自己に与えられた縁に従って修行し、各々が解脱の道を求めるべきだ。 あなたは何故、私に縁のない行法でもって、私を惑わそうとするのか。しかるに私に与えられた行法は わたしに因縁のある行法であって、あなたが求めているようなものではない。あなたが願うところは、 あなたに与えられた因縁による行法であって、私の求めるところのものではない。この故に、各々が自分に 適した道に随(したが)って修行するならば、かならず、それぞれが速やかに解脱を得るのである。 仏道を学ぶものは、まさに知るべきである。もし解脱のさとりを学ぼうと思うならば、 凡夫の法から聖者の法、さらには仏のさとりの法にいたるまで、どれを学んでも一切障りは無い。みな、 学んだらよいのだ。しかし本当に仏道を学ぼうと思うならば、かならず、自分に縁のある自分にふさわしい 仏道を学ぶべきだ。それは、自分にふさわしいが故に、多くの努力を要せず、しかも多くの利益(りやく) を 得るのである。
〘語釈〙
[1]回向発願心 Ⅰは他力の回向発願心。 Ⅱは自力の回向発願心 (HP作成者解釈)
Ⅰ.阿弥陀仏より回向された功徳をいただき、必ず往生できることをよろこぶ心。
Ⅱ.自己の修めた善根をふり向けて浄土へ往生しようと願う心。
(Ⅰ・Ⅱの定義は WikiArcより)
[2]多劫輪廻:無限の時間の生まれ変わり死に変わり。
[3]機根:素質
[4]解脱の智慧:さとり
【読下し古文(親鸞引文)】

 〈 (さん) ([5]じゃ)()(こう)(ほつ)(がん)(しん)〉。(乃至) ([6])()(こう)(ほつ)(がん)して (しょう)ずるものは、かならず (けっ) (じょう) して(しん)(じつ)(しん)のうちに()(こう)したまへる(がん)(もち)ゐて([7]とく)(しょう)(おもい)をなせ。この(しん)(じん)(しん)せること(こん)(ごう)のごとくなるによりて、(いっ)(さい)()(けん)()(がく)([8]べつ)()(べつ)(ぎょう)(にん)()のために(どう)(らん)()()せられず。ただこれ(けっ)(じょう)して(いっ)(しん)()って(しょう)(じき)(すす)んで、([9])(ひと)()()くことを()ざれ。すなはち(しん)退(たい)(しん)ありて(こう)(にゃく)(しょう)じて ([10])()すれば、([11]どう)()ちてすなはち(おう)(じょう)(だい)(やく)(しっ)するなり。
  ()うていはく、もし()(ぎょう)()(どう)(じゃ)(ぞう)(ひと)()ありて、(きた)りてあひ(わく)(らん)して、あるいは(しゅ)(じゅ)()(なん)()きて〈(おう)(じょう)()じ〉といひ、あるいはいはん、〈 ([12])んだ(しゅ)(じょう)([13]こう)(ごう)よりこのかた、および([14]こん)(じょう)(しん)()()(ごう)に、(いっ)(さい)(ぼん)(しょう)()(うえ)において、つぶさに([15]じゅう)(あく)([16])(ぎゃく)([17])(じゅう)謗法(ほうぼう)闡提([18]せんだい)破戒(はかい)()(けん)(とう)(つみ)(つく)りて、いまだ(じょ)(じん)することあたはず。しかるにこれらの(つみ)(さん)(がい)(あく)(どう)()(ぞく)す。いかんぞ(いっ)(しょう)(しゅ)(ふく)(ねん)(ぶつ)をして、すなはちかの()()()(しょう)(くに)()りて、(なが)()退(たい)(くらい)(しょう)()することを()んや〉と。
 (こた)へていはく、(しょ)(ぶつ)(きょう)(ぎょう)(かず)(じん)(じゃ)()えたり。(さとり)()くる()(えん)(こころ)(1)随(したが)ひて(ひと)つにあらず。たとへば()(けん)(ひと)()()るべく(しん)ずべきがごときは、(みょう)のよく(あん)()し、(くう)のよく()(ふく)()()のよく(さい)(よう)し、(みず)のよく(しょう)(にん)し、()のよく(じょう)()するがごとし。これらのごときの()、ことごとく(たい)(たい)(ほう)()づく。すなはち()()つべし、(せん)(じゃ)(まん)(べつ)なり。いかにいはんや仏法(ぶっぽう)不思議(ふしぎ)(ちから)、あに種々(しゅじゅ)(やく)なからんや(1)()(したが)ひて一門(いちもん)()づるは、すなはち(いち)煩悩(ぼんのう)(もん)()づるなり。(2)(したが)ひて一門(いちもん)()るは、すなはち(いち)()(だつ)()()(もん)()るなり。ここを()()()(じょう)なり、(ゆう)なり、()なり、()なり、()なり、(そう)なり)って(えん)(したが)ひて(ぎょう)(おこ)して、おのおの()(だつ)(もと)めよ。なんぢなにをもってか、いまし()(えん)(よう)(ぎょう)にあらざるをもって、われを(しょう)(わく)する。しかるにわが(しょ)(あい)はすなはちこれわが()(えん)(ぎょう)なり、すなはちなんぢが(しょ)()にあらず。なんぢが(しょ)(あい)はすなはちこれなんぢが()(えん)(ぎょう)なり、またわれの(しょ)()にあらず。このゆゑにおのおの(しょ)(ぎょう)(したが)ひてその(ぎょう)(しゅ)するは、かならず()()(だつ)()るなり。(ぎょう)(じゃ)まさに()るべし、もし()(まな)ばんと(おも)はば、(ぼん)より(しょう)(いた)るまで、(ない)()(ぶっ)()まで、(いっ)(さい)(さわり)なし、みな(まな)ぶことを()よ。もし(ぎょう)(まな)ばんと(おも)はば、かならず()(えん)(ほう)によれ。(すこ)しき()(ろう)(もち)ゐるに、(おお)(やく)()ればなりと。
〘語釈〙
[5]者:➀「(何々)は」の「は」にあたる読み方と、②日本語で言う「者(もの)」  という意味の読み方がある、この場合は➀の意味で「三つには」と読む。
[6]善導の『散善義』のこの部分を普通の漢文の読み方をすると
「また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。」 と読む。すなわち、決定真実心の内に回向するのは願生者である衆生の方で、回向は、その衆生から仏への回向ということになる。しかし親鸞聖人は、上の本文(【読下し古文】)のように弥陀が真実心の内に成就された功徳を衆生に回向される ことによって、衆生の浄土往生を成就されるというふうに読み替えられた。
[7]得生:浄土に生まれる。
[8]別解・別行:願生浄土に関する見解や行を異にすること。
[9]かの人の語を聞くことを得ざれ:かの人とは異見・異学・別解・別行の人で、そのような人の いうことを聞いてはいけない。
[10]回顧:ふりかえること。
[11]道(どう)に落ちて:道をはずして=悪道に落ちて。
[12]なんだち:お前たち。
[13]曠劫:かぎりなき昔
[14]今生の身口意業:今、生きている身の振舞、語る言葉、心の思い。
[15]十悪:[17]の四重(淫・盗・殺・大妄語<さとりを開いていないのに開いたという>)の罪に加えて、両舌・悪口(あっく)・綺語(きご=まことのない飾った 言葉)・貪欲・瞋恚(しんに=怒り)・愚痴(真実を理解することが出来ない愚かさ)
[16]五逆:殺父(せっぷ)・殺母(せつも)・殺阿羅漢(せつあらかん=悟りに達した聖者を殺す) ・出仏身血(しゅつぶつしんけつ=仏の身体を傷つけて出血させること)・破和合僧(はわごうそう=教団の和合 一致を破壊し分裂させること)
[17]四重:四重禁のこと。殺生・偸盗(ちゅうとう)・婬・妄語(もうご=虚言)
これらを見ると特に[16]、[17]などは原始仏教当時の教団維持のための禁戒のように思われます。

【HP作成者感想】
 劈頭にも記しましたように、今月は「回向発願心釈」の前半です。まず、いきなり引文冒頭の「三つには 回向発願心(三者回向発願心)と説かれている。」で始まった文の、すぐ次が「 中略(乃至)」として除かれています。 これはどういうことなのでしょうか。なぜ親鸞聖人は、このような冒頭から 「中略(乃至)」されたのでしょうか。 前回の終りに引文の「中略(乃至)」 に今後はあまり詮索せずに、聖人のおこゝろを素直にいただいて、「中略(乃至) 」以外の部分に集中して学んでいく所存と申し上げておりましたが、この冒頭のいきなりの 「中略(乃至)」を目にしては、詮索せずにおれなくなりました。 青字で表示されている「中略(乃至)」 のいずれかをクリックしていただきますと、【現代語訳】として(中略)されている部分、および 【読下し古文】として(乃至)されている部分が表示されますので御覧ください。 これを読みますと、どうやら、この「中略(乃至))」された部分は まさに善導大師が「回向発願心」とはどのようなことかをここで説かれている部分であるということが分かり ます。いわば善導大師の「回向発願心」の定義です。親鸞聖人が引文された「三者回向発願心」の文章の前半 が、どうもよく分らないのは、この善導による「回向発願心」の定義が「中略(乃至)」として省かれているか らでしょう。」 そこで「中略(乃至)」直後の引文の内容を読んでみますと、それは上の「読下し古文」にもありますように、「また()(こう)(ほつ)(がん)して(しょう)ずるものは、 かならず(けっ)(じょう)して(しん)(じつ)(しん)のうちに()(こう)したまへる(がん)(もち)ゐて(とく)(しょう)(おもい)をなせ。この(しん)(じん)(しん)せること(こん)(ごう)のごとくなるによりて、(いっ )(さい)()(けん)()(がく)(べつ)()(べつ)(ぎょう)(にん)()のために(どう)(らん)()()せられず。」となります。 これは迴向発願して浄土往生をしたいと思う者の 心得について、親鸞聖人は「かならず、弥陀が真実心の内に修行された結果 の功徳、すなわち全ての衆生を浄土に往生させて仏にしたいという弥陀の願い(本願)を私たち衆生に 回向(振り向け)なされた功徳を信じ須(もち)いて、間違いなく往生すべきなのである。この弥陀の回向による 発願迴向の心は一衆生の親鸞自身ではなく弥陀の回向によるものだから金剛のごとく一切の異見、異学、 別解、別行の人々の意見によってこわれるようなものではない。」と読んでおられます。 実はこれが親鸞聖人の「回向発願心」の定義なのではないでしょうか。すなわち「回向発願心」といえども 弥陀が真実心の内に修行された結果の功徳が衆生に回向される(振り向けられる)ことによって成り立つ のであって、上の「中略(乃至))」された善導定義の「回向発願心」のように 衆生自らの真実心による善根とおもわれるものを仏に回向することによって成立する「回向発願心」 ではないということです。 親鸞聖人は衆生が真実心を振り絞ってあらゆる善根を仏に回向して成立する「回向発願心」は、いつ 崩れ去るかも知れないけれども、弥陀の真実心によって成就された功徳は崩れ去ることなく衆生に回向され、 願生浄土を願う衆生はこの回向された功徳によって浄土往生を遂げることができる、これが真実の 「回向発願心」すなわち「弥陀の回向の発願心」であると定義されたのでしょう。 これが善導の回向発願心の定義を「中略((乃至))」された理由ではないでしょうか。 だから、異学・異見の人々のいわれなき 非難や中傷に出会っても、私は、ゆるぎなき「回向発願心」によって 浄土往生を遂げることが出来るのだと答えているのが、その後の文章になるのではないでしょうか。 以上が善導の観経疏散善義の「回向発願心」の項目の前半の概略ですが、この文章の中で 一か所、私には、どうもわかり難いところがありました。それは「読下し古文」の(1)及び(2) の部分です。 「(1)(したが)ひて一門(いちもん)()づるは、すなはち(いち)煩悩(ぼんのう)(もん)()づるなり。(2)(したが)ひて一門(いちもん)()るは、すなはち(いち)()(だつ)()()(もん)()るなり。」これは、異学異見の解行同じから ざる邪雑(じゃぞう)の人々が来ていろいろと惑わし、疑い、非難、中傷を振りまいてくる人々に対して、 弥陀迴向の確固たる信心 によって願生浄土をしようとしている人の答えのことばですが、まず(1)の「一門を出づる」の 「一門」とは何を指すのか、また、「一煩悩を出づる」の「一」とは、どういう意味なのか、すなわち 多くの煩悩の中の一つの煩悩なのかといった疑問、そして(2)の「一門に入る」や「一解脱の智慧の 門」の意味も同じで、一体どのようなことを表しているのかがよく分かりませんでした。それで現代語訳の 場合も(1)(2)の( )内のような補足訳をつけて訳しましたが、それでも、どうもよく 納得できる訳とは言えませんでした。全体として、仏の教えは無限の妙用であって人々の素質に応じて無数 にあるのであって、私に縁のある、私にふさわしい教えと行をえらんでいるのだという意味が込められた 文章だと思うのですが、どうもしっくりしませんでした。しかし今、改めて思い返しますと、歎異抄の 最後の章(後序)の親鸞聖人のことばに「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人の ためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願の かたじけなさよ。」があります。この「一門を出づる」とか「一煩悩の門を出づる」とか「一門に入る」 とか「一解脱の智慧の門に入る」とかいうことばは、全体として、上の親鸞聖人の「親鸞一人がため なりけり」の文に総括されるのではないかと思うところです。すなわち、親鸞には「親鸞一人のため」の、 法然には「法然一人のため」の、更には七高僧には七高僧それぞれ一人がための仏の教えがある、この ことを、この「一門を出づる」で代表される文章は表しているのではないかということです。 これは、同時にまた、それぞれ一人がための仏教が、大いなる仏の世界に統合される万人のための 仏教ともなるのではないかと思うところですがいかがでしょうか。 これで、善導の観経疏からの引文における「回向発願心」の前半をひとまず終わります。引文の後半は さらに、この「回向発願心」とはなにかということが「二河白道の譬喩」をもって説き述べられる ことになります。来月が待ち遠しく思われます。

今月は以上で終ります。