仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2019年11月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文3




【現代語訳】
◎ 顕浄土真実信文類 本文3
 至心信楽の本願、すなわち第十八願の文『大無量寿経 上巻』にいわれている。「もし、わたしが仏になるとき、ありとあらゆる世界の衆生が、わたしの誓願の真実を信じよろこんで、わたしの国(浄土)に生まれたいと欲(おも)って、たとえば十声念仏して、もし、生まれることができないならば、わたしは仏にならない。ただ、父を殺したり母をころしたり、仏法の聖者をころすという罪のほか、仏教をないがしろにするような行ない、および、正法たる仏法を謗るものを除くのである。」
 また、『無量寿如来会』にいわれている。
「もし、わたしが無上覚を得て仏になろうとするとき、浄土以外の国の衆生が
わたしの名号のいわれを聞きおわって、あらゆる善根がこころの底まで回向され、わたしの国(浄土)へ往生を願って、たとえば十声念仏して、もし、往生できなければ、わたしは決してさとりを開くまい。ただ無間地獄におちるような悪業をつくり正しい法や、もろもろの聖者たちを誹謗するものを除くのである。」

 【読下し古文】
 ()(しん)(しん)(ぎょう)(ほん)(がん)(だい)十八(がん))の(もん)、『(だい)(きょう)((じょう))にのたまはく、「たとひわれ(ぶつ)()たらんに、(じっ)(ぽう)(しゅ)(じょう)(こころ)(いた)(しん)(ぎょう)してわが(くに)(うま)れんと(おも)ひて、(ない)()(じゅう)(ねん)せん。もし(うま)れざれば、(しょう)(がく)を取らじと。ただ()(ぎゃく)(三〇ひ)(ほう)(しょう)(ぼう)(のぞ)く」と。(以上)

 『()(りょう)寿(じゅ)(にょ)(らい)()』((じょう))にのたまはく、「もしわれ(三一む)(じょう)(かく)(しょう)(とく)せん(とき)()(ぶつ)(三二せつ)のうちのもろもろの()(じょう)(るい)、わが()()き已(お)はりて、(しょ)()(ぜん)(ごん)(しん)(しん)()(こう)せしむ。わが(くに)(しょう)ぜんと(がん)じて、(ない)()(じゅう)(ねん)せん。もし(しょう)ぜずは、()(だい)()らじと。ただ(三三む)(けん)(あく)(ごう)(つく)り、(しょう)(ぼう)およびもろもろの(しょう)(にん)()(ほう)せんをば(のぞ)く」と。(以上)


【HP作成者感想】
 前回は往相回向の大信心の12の相を親鸞聖人は挙げられました。そして、この大信心は、すべて、大無量寿経の弥陀の本願の内、第十八願より出ずるものであることを示されました。
 今月は、この大信心の根源である第十八願を信巻最初の引文に挙げられます。当然のことです。まず『大無量寿経 上』の、この誓願を、次いで無量寿如来会の、この誓願を、ここに挙げられました。 この第十八願の意(こころ)については親鸞聖人が『尊号真像銘文』の最初に、その意(こころ)を説いておられます。この意によれば十方の煩悩熾盛の凡夫でも、第十八の誓願の至心、信楽、欲生、乃至十念によって大涅槃を証することができると説いておられます。
 ところが、ここで気がかりなのは、「唯除五逆誹謗正法」の部分です。すなわち五逆の罪を犯したり、正法を誹謗したりするものを除くとなると、はたして、自分は第十八願の救いにあずかれるのだろうかということです。親鸞聖人は、ここで『尊号真像銘文』において、「(ゆい)(じょ)()(ぎゃく)()(ほう)(しょう)(ぼう)」といふは、「(ゆい)(じょ)」といふはただ(のぞ)くといふことばなり。()(ぎゃく)のつみびとをきらひ()(ほう)のおもきとがをしらせんとなり。このふたっの(つみ)のおもきことをしめして、十方(じっぽう)一切(いっさい)衆生(しゅじょう)みなもれず(おう)(じょう)すべしとしらせんとなり。」といわれています。すなわち、唯除の項目を設けたのは、五逆と誹謗正法は、極重の罪であるから、決して犯してはならないということを示して、その上で十方の一切の衆生を第十八の誓願によって浄土往生させるという弥陀のおこゝろであると親鸞聖人はここでといておられるのです。これは、師法然上人の教えを受け継いで善導大師の抑止門のおこゝろを、ここで説いておられるのだと思います。
 親鸞聖人は涅槃経の阿闍世の造悪と懺悔、そして大悲に基づく釈尊の救済の経緯を引文として紹介された後、上の『尊号真像銘文』での唯除五逆誹謗正法にたいするお考えを念頭に、あらためて弥陀の本願によって五逆・謗法・一闡提も弥陀の他力迴向の信心に帰すれば、如来は深くあわれみ、救ってくださることを説かれています。そして唯除五逆について七高僧の中から、あらためて浄土論註における曇鸞大師の観経に基づくものと、善導大師の『観経疏 散善義』の抑止門のお考えを、問答形式によって説いておられのを引文で紹介されていますので、上のそれぞれのリンクからお読みください。いずれも、本願寺出版社刊 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』)の信文類三 310頁および321頁から引用させていただき掲載いたしました。
 以上、唯除の項について、七高僧の内のお二人の説を読みますと、曇鸞大師は観無量寿経によれば五逆の罪を犯した者は南無阿弥陀仏を信じて念仏すれば救われるのに対して、謗法の罪は地獄から抜け出ることができず永劫に救われないといわれています。
 それに対して、善導大師は五逆も謗法もこの上ない罪であるから、これを抑止するために、唯除を説いておられるのであって、既に五逆の罪を犯した者は大慈悲のもとで第十八願の救いの対象とされます。また、まだ謗法の罪を犯していない者に対しては未造業の間に、唯除を説き聞かせて、その罪を犯すのを抑止されます。また、もし、既に謗法の罪を犯してしまったなら、五逆の罪を犯した者と同じく、第十八願の対象者として救いの場に誘(いざな)うのですが、それによって晴れて浄土の土を踏む前に、浄土の蓮の花の中に包まれて長い間過ごさねばならないと説かれます。
 そこで、HP作成者の思うことは、七高僧の内、お二人の祖師の説が異なるということはどういうことか。親鸞浄土教の中心的な本願である第十八願の唯除五逆の解釈が異なるのはどういうことかと考えてしまいます。
 そこで、唐突のようですが、HP作成者は、どのようにこの「唯除五逆誹謗正法」を受取らせて頂いたかを述べさせていただきたいと思います。ただ、これは私(HP作成者)の全くの個人的発想でありますので、その点は前もって申し上げておかねばならないと思います。
 まず「唯除五逆誹謗正法」の中の五逆をどのように受け取るかということです。
 「五逆」については、信巻の最後に親鸞聖人は淄州という中国法相宗の人物の説、『倶舎論』、『薩遮尼乾子経』、『大方広十輪経』等の引文によって三乗の五逆と大乗の五逆を挙げておられます(上のリンクをご覧ください)。その中で、どちらの五逆にも含まれているのが「父を殺し、母を殺す」という部分です。「父を殺し、母を殺す」というのは、肉体上の父母を殺すというように普通は受取れますが、はたしてそうでしょうか。そして、五逆とされている項目の内、三乗も大乗も、この部分以外の罪は、すべて、仏教を否定する事柄を指しています。いわく、阿羅漢を殺す、出仏身血、破和合僧、・・・・その他、全てが仏教ならびに仏教教団を否定破滅させるような行為を指して五逆としています。そこで「父を殺す、母を殺す」すなわち、親を殺すということですが、これは、単なる肉体上の親を殺すということではなく、もっと根本的な親、すなわち、我々衆生を、ここにこうして有らしめた真実の親、永劫の過去、それこそ、宇宙開闢以来の無数の因果によって、ここにこうして衆生である私を、有らしめた真実の親、これを如来、すなわち南無阿弥陀仏と考えてはいけないでしょうか。すなわち「父を殺し、母を殺す」とは、この南無阿弥陀仏を否定抹殺することではないでしょうか。すくなくとも大乗仏教であるならば、こう受取るべきだと思います。であるならば、この「父を殺す、母を殺す」という項目も、他の全ての項目と同じように仏と仏の教えを否定する業ということになるのではないでしょうか。そこで更に思惟を進めますと、「五逆」ということがらも詮ずるところ、謗法ということになるのではないでしょうか。すなわち「五逆・謗法」というふうに分けてありますが、すべて「謗法」ということです。すべて、仏法を否定しているのですから。曇鸞的にいえば最も救われ難い存在ということになります。そうしますと、考えてみれば、普通の人間、すなわち、如何にヒューマニストであろうとも、それだけなら、謗法の人ということになります。その通りでしょう、人間という存在は、他の衆生、すなわち他の動物、植物から見れば、最も恐ろしい悪逆の存在なのですから。すなわち、自らの生存のために動物を殺戮し、森林を伐採し焼き尽くし、おまけに地球ごと絶滅するような「核」まで造り出しているのですから。そのような存在は、これは、とてもとても救われそうにはありません。しかし、それでも無限の大悲である如来は、それを掬い取ろうと第十八願でいわれているのです。すなわち、「五逆・謗法」の徒は、共に、仏の教えを否定する「謗法」の徒です。謗法の徒ではあるけれど、こころからの、弥陀の大悲迴向による回心のもとで、「至心信楽欲生において乃至十念」すれば、掬い取ろうと第十八願においていわれているわけです。 そして、今まで、私は第十八願の「はじめから~不取正覚」までと、唯除以降」は矛盾していると思い、この矛盾はどうしても分かりませんでしたが、今や、この両者は、まったく、矛盾していない一つの大悲の顕れであると思うのです。 すなわち、唯除の「唯」という部分ですが、これを古文や現代文に訳す場合、「ただ」とか「ただし」とかの訳になっています。この内で「ただし」は漢字では「但」という字も適用され、この漢字には「しかし」とか「けれども」という意味が強くあります。 その点、「唯」という漢字は、「ただ」という意味が主体です。そうなりますと、「唯除五逆誹謗正法」という部分は、上記のように「五逆」は「誹謗正法」に統一されると思惟すれば「唯除誹謗正法」ということになり、「ただ誹謗正法の者を除く」となれば、もし、このような衆生であっても回心に恵まれれば「至心信楽欲生乃至十念」、つまり「本願を信じ念仏する」衆生と成り、見事に第十八願の前半によって掬い取られる存在となります。すなわち、このように受けとらせていただくと、第十八願の前半の「至心信楽欲生乃至十念」の部部分と「唯除」の部分は矛盾なくつながることになります。すなわち「わたしが仏になるとき、あらゆる人々が、まことの心で(至心)、信じ喜び(信楽)、わたしの国に生まれると思って(欲生)、たとえば十声念仏して(乃至十念)、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。すなわち、「お前たちは唯除かれるべき五逆謗法の存在なのだから、速やかに他力回向のもと、回心して至心信楽の念仏の徒になれよ」という仏の言葉であり、願いなのだと思うのです。これで、信巻の終りのあたりで親鸞聖人が浄土論註の曇鸞大師が唯除についてのお考えを述べられている少し前に「五逆・謗法」もすべて掬い取るというという仏の意(こころ)を力強く発信されていることばも、有難く受取らせていただくことができます。ちなみに、親鸞聖人は末燈鈔第四十二書簡で「本願の名号は能生する因なり、能生の因というはこれ父なり、大悲の光明はこれ所生の縁なり、所生の縁というはすなわちこれ母なり」といっておられます。これこそ、大乗仏教における、真実の父と母、すなわち真実の親ということではないでしょうか。
 
 なお、無量寿如来会については、仏の願いと唯除との関係は、第十八願と同じであると思いますが、一点、如来会の現代文で「あらゆる善根がこころの底まで回向され」となっているところ、古文では「(しょ)()(ぜん)(ごん)(しん)(しん)()(こう)せしむ。」となっているところ、所依の経典『大無量寿経』よりも、この部分で如来の回向が強調されているところが注目され、常々如来の回向を強調されている親鸞聖人のおこゝろが強く伝わり、如来会の、この文を添えられている意味が拝受されました。。。
 [今月の各リンクの文章は本願寺出版『注釈版 顕浄土真実教行証文類 (現代語版)』を参照させていただきました。]        

今月は以上で終ります。