仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2020年2月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文6



【現代語訳】
(1) また説かれている(大無量寿経・下)
 仏法を見聞して、よくこころに留め、敬い、教えを受けた身を喜ぶ者は、すなわち私(釈迦)の親友である。だから信心をおこすがよい。
(2) また説かれている(無量寿如来会・下)
 このような信心深い人々は仏の勝れた功徳を与えられた人々であり、広大な仏法の中でも特に優れた法門の人々である。
(3) また云われている。
 阿弥陀如来の功徳は仏(釈尊)ご自身のみがよく心得ておられる。従って釈尊だけがそれを説き示すことができるのであり、天・竜・夜叉などの鬼神でさえも遠く及ぶところではない。ましてや自己の完成のみにとどまって皆共に仏の覚りの世界に進もうとしない声聞・縁覚など二乗の修行者は言葉も出ず黙り込んでしまうほどである。また、多くの衆生が普賢菩薩を超えるような修行の結果、浄土に往生し仏となって、その上で阿弥陀如来の功徳を広く説き述べようとしたところあまりにも多くの時間を要して、その途中で生涯を閉じるようなことがあっても、なお阿弥陀如来の功徳を説き尽くすことができないのである。だから本願の信に恵まれ、そのいわれを聞き開くことができ、釈尊や高僧がたの導きを得て、このような深妙の仏法を聞くことができれば、まさにもろもろの諸仏は深く喜び、讃えてくださるのだ阿弥陀如来の勝れた智慧、如来が説かれる真実のことばは全宇宙の隅々にまでいきわたり、教えの内容は弥陀・釈迦二尊のみが悟られているものである。この故に、広く私の説くところを聞いて、あるがままなる法を信じるがよい。人の身にうまれることは、はなはだ難く、釈尊のような仏が世に出られれるのに遇うこともまた難しい。今ようやく信心の智慧に遇わせていただくことが出来る。だから、仏道にいそしむ者は今こそ精進すべきである。このような妙法を已に聞くことが出来たなら、諸仏はこころから喜ばれるのである。

 【読下し古文】
(1) またのたまはく((だい)(きょう)())、「(ほう)()きてよく(わす)れず、()(うやま)()(おお)きに(よろこ)ばば、すなはちわが()(しん)()なり。このゆゑにまさに(こころ)(おこ)すべし」と。(以上)
(2) またのたまはく(如来会(にょらいえ)())、「かくのごときらの(るい)大威徳(だいいとく)のひとなり。よく広大(こうだい)仏法(ぶっぽう)異門(いもん)(しょう)ぜん」と。(以上)
(3) またのたまはく((どう)())、「(にょ)(らい)()(どく)(ぶつ)のみみづから()ろしめせり。ただ()(そん)ましましてよく(かい)()したまふ。(てん)(りゅう)()(しゃ)(およ)ばざるところなり。二乗(にじょう)おのづから(みょう)(ごん)()つ。もしもろもろの()(じょう)まさに()(ぶつ)して、(ぎょう)()(げん)()え、()(がん)(のぼ)って、(いち)(ぶつ)()(どく)()(えん)せん。(とき)()(こう)()()()()えん。この(ちゅう)(げん)において()(めつ)()すとも、(ぶつ)(しょう)()はよく(はか)ることなけん。このゆゑに(しん)(もん)およびもろもろの(ぜん)()(しょう)(じゅ)()(そく)して、かくのごときの(じん)(みょう)(ほう)()くことを()ば、まさにもろもろの(しょう)(そん)(じゅう)(あい)らるることを()べし。(にょ)(らい)(しょう)()(へん)()(くう)(しょ)(せつ)()(ごん)は、ただ(ぶつ)のみ(さと)りたまへり。このゆゑに(ひろ)諸智土(しょちど)()きて、わが(きょう)如実(にょじつ)(ごん)(しん)ずべし。(にん)(しゅ)(しん)()ることはなはだ(かた)し。(にょ)(らい)(しゅっ)()()ふことまた(かた)し。(しん)()(おお)(とき)まさにいまし()ん。このゆゑに(しゅ)せんもの(しょう)(じん)すべし。かくのごときの(みょう)(ほう)すでに(ちょう)(もん)せば、つねに(しょ)(ぶつ)をして(よろこ)びを(しょう)ぜしめたてまつるなり」と。(抄出)

【HP作成者感想】 以下、『大無量寿経』を『無量寿経』、『無量寿如来会』を『如来会』として記述します。
 
『無量寿経』と『如来会』の本願成就文の次は信心の行者に対する釈尊の励ましの二つのことばです。
(1)は『無量寿経の中の全部で三行ほどの釈尊のことばです。この中で、わたしの「法を聞きてよく忘れず、見て敬い、得て大きに慶ばば、すなわちわが善き親友(しんう)なり。」の部分、注目されるのは、「わが善き親友なり」という部分です。釈尊は仏教の創始者であり、現実の歴史上で生きて已に佛であったと皆が認める存在です。その釈尊が信心の衆生に向かって「わが善き親友なり」といわれる、この釈尊のありようは我々の側にたっておられる釈尊です。大無量寿経における釈尊のありようは、まさにこのありようです。仏でありながら、私たちの側に立ち、共に絶対の一仏、阿弥陀如来へと、私たちを導く存在です。大無量寿経ができたのは歴史上の釈尊の入滅から少なくとも500年後と考えれば、象徴的な話になりますが、大無量寿経の世界では釈尊はある時はそのさとりの内容である阿弥陀仏であり、また、ある時は我々の側に立つ正定聚として、浄土とこの世を自在に行き来する存在であり、何よりも、我々から離れた存在ではなく、我々と一体となって、いのち終わって浄土に往生した我々を弥陀との一体へと導く存在であることを強く知らしめるものです。
(2)も(1)と同じ部分の三行ほどの『如来会』からの引文です。この引文で注目されるのは「広大仏法の異門に生ぜん」の部分です。ここで『如来会』が表す「異門」とは単に「特殊な」とか「勝れた」といった一般的で曖昧な表現ではなく「異門」すなわち「異なった法門」の意味が含まれねばなりません。すなわち釈尊が表された八万四千の広大な法門の中での他の並の法門とは異なって際立った法門、そしてその法門の勝れた仏土、すなわち「極楽浄土」を表すのでなければなりません。このような特異な、際立って勝れた仏土である「阿弥陀仏の浄土」に往生することを「広大仏法の異門に生ぜん」と受取るべきでしょう。
(3) その次の(3)でも、注目して読むべき所があります。まず、「(にょ)(らい)()(どく)(ぶつ)のみみづから()ろしめせり。ただ()(そん)ましましてよく(かい)()したまふ。」というところです。ここで、まず「如来の功徳」とは「阿弥陀如来の功徳」ということでしょう。すなわち「真実」を体としてこの世に顕れたもうた阿弥陀如来の功徳です。その功徳は「仏自ら知ろしめせり」すなわち「阿弥陀仏自らがよく知っておられる」ということでしょう。そして、また、阿弥陀如来をさとりの本体とされる釈尊自身も、阿弥陀如来と一体であるわけで、如来の功徳は当然知っておられる訳ですから、私たち衆生によく説き示してくださるのです。すなわち、ここでいう「如来」とは「阿弥陀如来」、「仏」とは、自らということばもありますから阿弥陀仏ご自身、「世尊」とは大聖「釈尊」であると受取らせていただきました。そして、これは、その次の「天・竜・夜叉」、更には二乗である声聞・縁覚も、仏ではないわけですから、当然、「如来の功徳」という浄土教の根本を説き示すことは出来ないわけです。そして、その次です。「もし、もろもろのまさにして、え、って、せん。思義えん。このにおいてすとも、はよくることなけん」。 「もろもろの有情」とは私たち衆生のことでしょう。その有情が「作仏」して、すなわち「仏」になって、その行のありさまは普賢菩薩に超え勝れたものでありますが、あにはからんや「彼の浄土に往生して一仏、すなわち無量寿仏(阿弥陀仏)の功徳を説き述べようとしたところあまりにも広大で、無限の時間を要して、その途中で生涯を閉じるようなことがあっても、なお阿弥陀如来の功徳を説き尽くすことができないのである。」という所です。このもろもろの有情は普賢をこえる行を全うして「仏」になったのですから、仏のみが知ろしめす無量寿仏の功徳は、よくこころえて、それを博く説き述べようとしたわけです。ところが無量寿仏の無限の功徳を説き述べようとしても、これまた、無限の時間がかかり、そして、その途中(中間)で生涯をとじるようなことがあっても、なお無量寿仏の勝れた功徳を説き尽くすことが出来ないということでなります。問題はここです。この場合、有情は作仏して、立派に仏になったのです。その仏が再び「生涯」を終えることがあるのでしょうか。原文によりますと、この部分は「滅度」になっています。仏はすでに滅度を経て全ての煩悩から解放されているから「仏」なのではないでしょうか。それをもう一度生死を繰り返すことになるのでしょうか。それとも、有情が成仏した「仏」は、もう一度生涯を繰り返さなければならないような、頼りない「仏」なのでしょうか。ところが親鸞聖人はこの信巻の便同弥勒釈で「まこと知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を究むるがゆえに、龍華三会(りゅうげさんね)の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を究むるゆえに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆえに便同というなり。」とあります。すなわち、「念仏の衆生は臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証」するのではないのでしょうか。「大般涅槃」を仏教語大辞典で調べてみますと、「大滅度、大入滅息、大円寂入」と漢訳、すぐれて完全なさとりの境地です。「  」内の大般涅槃についての三つの言葉、三つとも分からなくとも最初の「大滅度」ということばを見ても、大般涅槃を超証して仏になった最初に大滅度はおこるので、仏になった後に再び「滅度」になって仏の生涯を終るというのは、どうも矛盾しているのではないでしょうか。このあたりで混乱してしまいます。ただ、次のような考え方もあるかと思います。歴史上の釈尊は、この世に生きて、すでに仏でした。これに異論はないと思います。そして仏の身で入滅されました。仏の身で入滅されたのですから、これを「滅度」といわないのかもしれませんが、いずれにしても、すでにこの世で仏であった釈尊は、この世でいのち終わられました。すなわち歴史上の生涯を終られたのです。行は普賢菩薩を超えて、見事に作仏して仏となった有情は浄土において釈尊と同じ仏になると考えるとどうでしょうか。浄土でもう一度生涯を終えて煩悩を滅するのでしょうか?。しかし、これは思考の遊びになってしまうでしょう。このような思考はここで止めます。しかし私として止めることが出来ない事柄は、先の(A)「念仏の衆生は臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証する。」という親鸞聖人の宗教と、(B)大経・下、最初にある「それ衆生ありて、彼(か)の国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中にはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。」です。(A)で親鸞聖人が云われる「仏」は「現生正定聚」の衆生が、臨終一念の夕べに大般涅槃を超証した「仏」ですから、無量寿仏と一体となった「仏」であって、上の『如来会』で、有情が作仏してなった仏のように、再び「生涯」をくりかえすような仏とは明らかに違います。この点で(A)の親鸞聖人のこの記述は浄土経典である『如来会』の記述のような再び生涯を繰り返す「仏」とは全くといっていいほど違います。また、(B)のような『大経』の第十一願成就文の正定聚は、彼(か)の国、すなわち浄土に住していることになっていますが、親鸞聖人の(A)の臨終一念の夕べに大般涅槃を超証して「仏」になる正定聚は「現生正定聚」で、浄土ではなく、この世で、すでに正定聚であって、邪定聚、不定聚のいない浄土に住しても相変わらず正定聚である
「第十一願成就文」の正定聚とは違います。これはおそらく浄土に往生したのち、煩悩に煩わされない好環境の浄土において、修行して仏になるという『大経』や『如来会』の世界を表しているということでしょう。その意味で、親鸞聖人の宗教は、単に『大経』の漢文を、親鸞以前の読み方を超えて、本願力迴向の読み方で徹底している以上に、『大経』や『如来会』で代表される浄土教の内容も自己に与えられたる己証によって領受している親鸞聖人の宗教をあらわしているのではないでしょうか。
 さて、このような状況にあっても、深遠な仏法、阿弥陀如来の功徳は、仮に仏に生涯があったとしても、その生涯を尽しても説き尽くすことは出来ないでしょう。丁度それは、現代の科学者が宇宙の仕組みを説き明かそうと人類の歴史をもってしても、なかなか説き尽くせないのと似ています。ことほど左様に、説き尽くせない如来の功徳ですが、信心の念仏者は、その内の一つだけ根本的な如来の功徳を知っているというか、知らされています。それは何かといいますと、その功徳は、我々衆生の絶対的な救いです。如来に摂取された一体感です。やがて大いなるいのちと一体となる予感です。そのほか取り上げれば無数にあるようですが、結局は一つです。我々衆生の絶対的な救いです。これ一つで充分です。これが阿弥陀仏の法を聞くということではないでしょうか。だから上記(3)の部分の後半は、そのことが説かれているのでしょう。だから「このような妙法を已に聞くことが出来たなら、諸仏はこころから喜ばれるのである。」ということではないでしょうか。

今月は以上で終ります。