仏教 こころの言葉

このページは21世紀の夜明、2000年3月より「樹心堂」として毎月1回の更新の形で表示しておりましたが、この度、新しく「仏教 こころの言葉」として、みなさまに御覧いただくべく、あらためて表示しております。


●今月の言葉(2020年6月)
『顕浄土真実教行証』信文類本文10


【現代語訳(親鸞引文)】
 二つには深心(じんしん)である。深心ということは「深く信じる心」ということである。また、 これに二種がある。
 その第一は自身は現に底なき罪悪生死の凡夫、永劫の過去から常にこの世の大海で浮き沈みし 流転を繰り返す出口のない絶望的存在であると信じざるを 得ぬこと。
 しかし他方で第二には深くかの阿弥陀仏の四十八願は、このような絶望的な我々人間を 阿弥陀ご自身の中に包み込んで自らの、この世的な思慮分別を超えて、弥陀の本願力に乗托して間違いなく 浄土に往生できると信じる。
 また、釈尊がこの『観経(かんぎょう)』に三福(世に尽そうとする 世俗の善、戒律を守る小乗の善、修行中心の大乗菩薩の善)と、浄土往生を願う者を九つ資質にに分けた 九品、そして仏を静かに念じたり(定善)、世俗のままで善事に励んだりする(散善)を説いてかの 阿弥陀仏と、その浄土の真実を讃嘆して浄土往生を願わしめると、ゆるぎなく信じる。
また、阿弥陀経の中に十方無数の仏が、全ての凡夫に真実の教えを勧め必ず浄土に往生すると深く信じること。  また深く信ずるものよ。謹み仰いで願うことは、全ての行者たちは、一心に、たゞ仏の言葉を信じて、 身命を顧みず、ひたすら行によって、仏が捨てしめられるものは即ち捨て、仏が行ぜしめたまうものは即ち行じ、仏が行(去)かしめたまう処(ところ)は、速やかに行く。これを仏の教えに随順し、仏のこころに随順すると名づける。 これを仏の願いに随順すると名づける。 そして、これを真の仏弟子と名づける
 また、一切の人々よ、ただよく、この『観経』に依り行を深く信じる者は必ず衆生を誤らせないのである。何故なら仏は、これ完全なる大悲の方であるが故に、仏の語られる言葉は真実であるが故に。 いまだ仏に成りえていない人は真実の智慧も行ないも完全でなく、それを学ぶ段階にあり、煩悩も除き尽くしていないから、悟りを求める願いそのものが完全に備わっていない。したがって、これらの凡夫や、 聖者も、たとい仏の意(おんこころ)を推し量っても、完全に領解(りょうげ)することができない。仮に領解したように思っても、必ず仏に、それが間違いのないことであるとの証明をいただいてから決めるべきである。 もし、仏の意(おこころ)に称(かな)えば仏はお認めになって、それでよい、と言われる。 もし仏の意(おこころ)に称(かな)わなかったら「お前たちの説くところは間違っている」と言われる。 仏が認められない場合、これは無意味、無利益な説に同じということである。仏がお認めになったことは、すなわち仏の正しい教えに随順しているのである。もし、仏のお示しになることであるならば、 それは正しい教えであり、正しい説であり、正しい行いであり、正しい解釈であり、正しい振舞いであり、正しい智慧なのである。数の多少を問わず、全ての菩薩、人間、天神などの説くところっは、 その是非を定めることが出来るだろうか、出来る筈がない。もし、仏が説かれる説ならば、これは完全に正しい教えなのである。菩薩、人間、天神などの説くところは、ことごとく不完全で正しくないい教えであると名づけるのである。 このことを、よくよく知るべきである。この故に、今、まさに、あらためて一切の有縁の願生者に勧める、ただ仏の言葉を深く信じて専ら日々の行いに励め。菩薩、人間、天の神々などの仏の教えに適っていない説を信用して、 真の仏の教えを疑い、惑って、浄土往生という、絶対的利益(りやく)を失ってはならないと。(中略)

 【読下し古文(親鸞引文)】

  〈()(しゃ)(じん)(しん)〉。〈(じん)(しん)〉といふは、すなはちこれ(じん)(しん)(しん)なり。また二種(にしゅ)あり。(ひと)つには(けっ)(じょう)して(ふか)(七五じ)(しん)(げん)にこれ(ざい)(あく)(しょう)()(ぼん)()曠劫(こうごう)よりこのかたつねに(もっ)し、つねに()(てん)して、(七六しゅつ)()(えん)あることなしと(しん)ず。(ふた)つには、(けっ)(じょう)して(ふか)く、かの()()()(ぶつ)()(じゅう)(はち)(がん)(しゅ)(じょう)(七七しょう)(じゅ)して、(うたがい)なく(おもんばか)りなく、かの(がん)(りき)(じょう)じて、さだめて(おう)(じょう)()(しん)ず。また(けつ)(じょう)して(ふか)く、(しゃ)()(ぶつ)この『(かん)(ぎょう)』に(さん)(ぷく)()(ぼん)(じょう)(さん)()(ぜん)()きて、かの(ぶつ)()(しょう)()(ほう)(しょう)(さん)して、(ひと)をして(七八ごん)()せしむと(しん)ず。また(けつ)(じょう)して、『()()(きょう)』のなかに、(じっ)(ぽう)(ごう)(じゃ)(しょ)(ぶつ)(いっ)(さい)(ぼん)()(しょう)(かん)(けっ)(じょう)して(しょう)ずることを() (じん) ( しん) するなり。①また (じん) (しん) するもの、(あお)(ねが)はくは(いっ)(さい)(ぎょう)(じゃ)(とう)(いっ)(しん)にただ(ぶつ)()(しん)じて(しん)(みょう)(かえり)みず、(けっ)(じょう)して(ぎょう)によりて、(ぶつ)()てしめたまふをばすなはち()て、(ぶつ)(ぎょう)しめたまふをばすなはち(ぎょう)ず。(ぶつ)()らしめたまふ(ところ)をばすなはち()つ。これを(ぶっ)(きょう)(ずい)(じゅん)し、(ぶつ)()(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(ぶつ)(がん)(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(しん) (ぶつ) ()()()づく②。また(いっ)(さい)(ぎょう)(じゃ)、ただよくこの『(きょう)』((かん)(ぎょう))によりて(ぎょう)(じん)(しん)するは、かならず(しゅ)(じょう)(あやま)らざるなり。なにをもつてのゆゑに、(ぶつ)はこれ(まん)(ぞく)(だい)()(ひと)なるがゆゑに、(七九じつ)()なるがゆゑに。(ぶつ)(のぞ)きて()(げん)は、(八〇ち)(ぎょう)いまだ()たず。それ(八一がく)()にありて、(八二しょう)(じゅう)()(しょう)ありていまだ(のぞ)こらざるによって、(八三か)(がん)いまだ(まど)かならず。これらの(八四ぼん)(しょう)は、たとひ(しょ)(ぶつ)(きょう)()(しき)(りょう)すれども、いまだ(八五けつ)(りょう)することあたはず。(八六びょう)(しょう)することありといへども、かならずすべからく(ぶつ)(しょう)()うて(じょう)とすべきなり。もし(ぶつ)(おこころ)(かな)へば、すなはち(八七いん)()して〈 如是如(にょぜにょ)()〉とのたまふ。もし(ぶつ)()(かな)はざれば、すなはち〈なんだちが(しょ)(せつ)、この()()(にょ)()〉とのたまふ。(いん)せざるは、すなはち(八八む)()()()()(やく)()(おな)じ。(ぶつ)(いん)()したまふは、すなはち(ぶつ)(しょう)(きょう)(ずい)(じゅん)す。もし(ぶつ)(しょ)()(ごん)(せつ)は、すなはちこれ(しょう)(きょう)(しょう)()(しょう)(ぎょう)(しょう)()(しょう)(ごう)(しょう)()なり。もしは()もしは(しょう)、すべて()(さつ)(にん)(てん)(とう)()はず、その()()(さだ)めんや。もし(ぶつ)(しょ)(せつ)は、すなはちこれ(八九りょう)(きょう)なり。()(さつ)(とう)(せつ)は、ことごとく()(りょう)(きょう)()づくるなり、()るべし。このゆゑに(いま)(とき)(あお)いで(いっ)(さい)()(えん)(おう)(じょう)(にん)(とう)(すす)む。ただ(ぶつ)()(じん)(しん)して(せん)(ちゅう)()(ぎょう)すべし。()(さつ)(とう)()(そう)(おう)(きょう)(しん)(よう)して、もって()()をなし、(まど)ひを(いだ)いて、みづから(まど)ひて(おう)(じょう)(だい)(やく)(はい)(しつ)すべからざれと。(乃至) 



【HP作成者感想】  善導の三心釈からの引文のうち、前回の「至誠心釈」に続いて今回は「深心釈」について味あわせていただきます。先ず、「深心」の定義から始まります。
深心ということは「深く信じる心」ということであるとし、 これに二種あると述べます。そして古来から有名且つ、悲しくも私たちの真実の姿を顕わにした(1)のことばが続きます。
 (1)「(ひと)つには(けっ)(じょう)して(ふか)(七五じ)(しん)(げん)にこれ(ざい)(あく)(しょう)()(ぼん)()曠劫(こうごう)よりこのかたつねに(もっ)し、つねに()(てん)して、(七六しゅつ)()(えん)あることなしと(しん)ず」。 まず(1)です
 「自身は現に罪悪生死の凡夫」。 自身とは自分のこと、すなわち私のこと、この私を振り返って罪悪とは無縁であると誰が云い得るでしょうか。特に全動植物のいのちを好きなように支配している人間の在り方こそ、 罪悪そのもの ではないでしょうか。これを自然の摂理であるなどと平然としていることこそ、まさに人間の独善です。またその一方で、本当の意味で、この世における、生きる意味の喪失と絶対的な死の不条理をかかえた存在であるのも 人間です。おそらく、直接的には法然、親鸞をはじめとして、釈尊以来の七高僧、その他の歴史に残る仏教者も、すべて、この世における、この宿命の底なき恐怖にまず直面したのではないでしょうか。 この底なき恐怖に堕ちて行かんとするとき、必死にすがったのが『大無量寿経』の「四十八願」の衆生を摂取して捨てないという経文にあったのではないでしょうか。仏の言葉である『経』は、仏教者にとって、 最大の「信」の源泉であったからです。しかし、これらの仏教者は同時に、曠劫の過去以来、生まれ変わり死に変わりしてたどり着いた自らの在りようを振り返ったとき、そこに、自らの在りようの源泉、 真実の親ともいえる大いなる「いのち」そのものに触れたのではないでしょうか。それこそ、不条理なる絶望の底に喘いでこそ触れうる「大いなるいのち」であったのではないでしょうか。それこそが次の
 (2)「 (ふた)つには、(けっ)(じょう)して(ふか)く、かの()()()(ぶつ)()(じゅう)(はち)(がん)(しゅ)(じょう)(七七しょう)(じゅ)して、(うたがい)なく(おもんばか)りなく、かの(がん)(りき)(じょう)じて、さだめて(おう)(じょう)()(しん)ず。」という善導の言葉であったのだと思います。
 この後、善導は、『観経』の三福、九品、定善、散善の功徳を説き、かの仏(阿弥陀仏)の依正二法を証讃して人々をして阿弥陀仏とその浄土に生まれることを慕い願わせます<この間(かん)の三福(さんぷく)、九品(くぼん)等の 仏教用語の語釈は上の現代語訳をご覧ください>。また、あまたの仏が『阿弥陀経』において、全ての我々凡夫が(念仏によって)間違いなく浄土往生することを証し勧めておられることを信じると善導は表白します。
そして、その次に、善導は、まことに特徴のある印象深い言葉を私たち凡夫に告げます。 それは、上の「読下し古文(親鸞引文)」の①〜②の間の文章です。すなわち[①また(じん) (しん) するもの、(あお)(ねが)はくは(いっ)(さい)(ぎょう)(じゃ)(とう)(いっ)(しん)にただ(ぶつ)()(しん)じて(しん)(みょう)(かえり)みず、(けっ)(じょう)して(ぎょう)によりて、(ぶつ)()てしめたまふをばすなはち()て、(ぶつ)(ぎょう)しめたまふをばすなはち(ぎょう)ず。(ぶつ)()らしめたまふ(ところ)をばすなはち()つ。これを(ぶっ)(きょう)(ずい)(じゅん)し、(ぶつ)()(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(ぶつ)(がん)(ずい)(じゅん)すと()づく。これを(しん) (ぶつ) ()()()づく。②]の文章です。
A現代語訳(親鸞引文)では同じくその①~②のように、ほぼ「読下し古文(親鸞引文)」に使われている言葉通りに訳しておきましたが、いくつかの「教行信証の現代語訳」では、そうではなくて、訳者の仏教的判断によって、 いろいろ付随した言葉が付け加えられています。私見ですが、このような、訳者の付言については、かえって、本来の原文の意図している意味を、ある見方に限定し、読む者の視野を限定してしまうのではないでしょうか。
例えば、今、次の青色リンクをクリックしていただいて二つの現代語訳の内容を見てみますと、まず(イ)では①〜②の間の現代語訳で、元の原文では 「仏が捨てしめられるものは即ち捨て」と捨てしめられる対象は特に規定されていないのに、ある種の解説書には、「仏の捨てよと仰せられる 雜行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)はこれを捨て」とあります。すなわち、元の原文にはない「雑行雑修」を捨てる対象として規定されてしまっています。 また、「 仏の行ぜよと仰せられる専修正行(せんじゅしょうぎょう)はこれを行じ。」 とありますが、もとの原文では「仏が行ぜしめたまうものは即ち行じ」であって、行ぜしめたまう内容が「専修正行」であると、原文のどこにも書かれていません。 さらにまた、原文には「仏が行(去)かしめたまう処(ところ)は速やかに行く。」であって、上記リンクの「二つの現代語訳」の(イ)の 「仏の去(ゆ)けよと仰せられる 御浄土へ往生するがよい。 のように「行(去)けよと仰せられる先が御浄土」であると原文には規定されているわけでありません。なるほど、付け加わった「雑行雑修」や「専修正行」や「御浄土」は真宗教学的に正しいのかも知れませんが、 これでは原文にある宗教的に迫力ある伸びやかさが、付け加わった言葉によって規定されてしまい、まことに宗教的に固くなで伸びやかさが失われ、いわば平凡な発展性のない、型にはまった表現になってしまいます。それに対して 二つの現代語訳の内、(ロ)では「仏のみこころのままに、仏の捨てしめ給うものは捨て、仏の行わしめ給うものは行い、 仏の行かしめ給うところは行くことである」とあるように、仏が捨てしめ給うのも、行なわしめ給うのも、行(去)かしめ給うのも、すべてその内容をこちらの方で決めてしまうのではなく「仏のみこころのままに」 捨て、行ない、そして行(去)かしめ給うのであるとしています。そして、この現代語訳をされた人物は現代の真宗教団と無縁の人かというと、そうではなくて、いくつかある、現代の真宗教団の 内でも最大の教団の宗学者です。それはともかくも、私はこの(ロ)の現代語訳こそ、原文の意をそのままに率直に、そして伸びやかに表現するものであると思っています。
 以上、今回は深心釈の前半を讃嘆させていただきました。この部分について、私の申し上げたかったことは以上です。このあと文章は少し続きますが、この部分は上の【読下し古文(親鸞引文)】および【現代語訳(親鸞引文)】 をお読みいただき、皆さまの自由な思索をお願いするところです。

今月は以上で終ります。