末燈鈔第三書簡
 信心をえたるひとは、かならず正定聚(しょうじょうじゅ)のくらゐに(じゅう)するがゆへに(とう)正覚(しょうがく)のくらゐとまふすなり。『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』には摂取不捨(せっしゅふしゃ)利益(りやく)にさだまるものを正定聚(しょうじょうじゅ)となづけ、『無量(むりょう)寿(じゅ)如来会(にょらいえ)』には等正覚とときたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚はひとつこゝろひとつくらゐなり。等正覚とまふすくらゐは補処(ふしょ)弥勒(みろく)とおなじくらゐなり。弥勒(みろく)とおなじく、このたび無上(むじょう)(かく)にいたるべきゆへに、弥勒におなじとときたまへり。さて『大経(だいきょう)』には「次如(しにょ)弥勒(みろく)」とはまふすなり。
 弥勒はすでに仏にちかくましませば弥勒仏と諸宗のならひはまふすなり、しかれば弥勒におなじくらゐなれば、正定聚のひとは如来とひとしともまふすなり。浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造(ふじょうぞう)(あく)の身なれども、こゝろはすでに如来とひとしければ、如来とひとしとまふすこともあるべしとしらせたまへ。弥勒すでに無上(むじょう)(かく)にその心さだまりてあるべきにならせたまふによりて、三会(さんえ)のあかつきとまふすなり。浄土真実のひとも、このこゝろをこゝろうべきなり。
 光明寺(こうみょうじ)和尚(かしょう)の『般舟讃(はんじゅさん)()には信心(しんじん)のひとは、この(しん)すでに、つねに浄土(じょうど)()すと(しゃく)したまへり。()すといふは、浄土に信心のひとのこゝろつねにゐたりといふこゝろなり。これは弥勒(みろく)とおなじといふことをまふすなり。これは(とう)正覚(しょうがく)弥勒(みろく)とおなじとまふすによりて、信心のひとは如来とひとしとまふすこゝろなり。

  正嘉(しょうか)元年(がんねん)丁巳(ひのと み)十月(じゅうがつ)十日(とうか)      

(しん) (らん)

 (しょう)(しん)御房(おんぼう)